第100話 薬理学の授業で惚れ薬飲ませたら親友が限界突破した件
薬理学の講義室は、昼下がり特有の静けさに包まれていた。
黒板に並ぶ化学式と作用機序。教授の声は淡々としているが、内容は鋭い。臨床に直結する話ばかりだ。
俺はノートを取りながら、斜め前の席に座るテオをちらりと見た。
相変わらず落ち着きがない。ペンを回し、椅子をきしませ、たまに小さく腹を鳴らす。
その隣に、エマ。
背筋を伸ばし、教授の言葉を一言も逃すまいとする集中力。ページをめくる音すら正確だ。
――昨日の昼からだ。
テオとエマは一緒に過ごす時間が増えた。
いい傾向だと思う。思うが、どうにも煮え切らない。テオは一歩を踏み出せず、エマは気づいているのに待っている。
そこで、俺の悪い癖が出た。
「……今日の治験薬、か」
教授が取り上げているのは、情動に影響を与える可能性が示唆された新規化合物。
あくまで軽度。集中力や意欲の変化を測るための、段階的試験だ。
サンプルは、無色透明の小瓶。
実習用に配られ、もちろん服用は禁止。評価は仮想症例で行う。
だが――俺は、講義前に成分表を見ていた。
交感神経系に作用し、情動の向きが強調されやすい。好意がある対象に対して、距離感が近づく可能性がある。
惚れ薬、なんて言葉は使わない。
だが、結果は似たものだ。
俺は一度、天井を見上げた。
やり過ぎだと分かっている。分かっているが、背中を押すには十分すぎる。
「ハヤトにぃに、どうしたの?」
横から、小声が飛んできた。
エレナだ。今日は見学で後方に座っている。
「ちょっと、考え事だ」
「むむー。悪い顔」
鋭い。
俺は小さく息を吐いた。
「……もし、テオが少し大胆になったら、どう思う」
「いいと思う!」
即答だった。
「エマさん、ずっと待ってる感じだもん」
「……だよな」
エレナは首を傾げる。
「でも、ハヤトにぃにがやると、だいたい大ごとになるよ」
「否定できない」
講義の途中、教授が休憩を挟んだ。
ざわつく教室。学生たちは水を飲み、伸びをする。
俺は立ち上がり、テオの席に近づいた。
「テオ」
「ん? なに、ハヤト」
「喉渇いてないか」
「え、ああ。めっちゃ」
俺はポケットから、小さな紙コップを取り出した。
無色透明の液体。治験薬を、規定量よりさらに薄めたものだ。
「水の代わりだ」
「助かる!」
疑いもせず、テオは一気に飲み干した。
――もう後戻りはできない。
エマが、こちらを見て眉をひそめる。
「ちょっと、何飲ませてるの」
「水だ」
半分は本当だ。
「……変なことしてないでしょうね」
「してない」
半分は嘘だ。
講義が再開する。
五分、十分。変化はゆっくり現れた。
テオの姿勢が変わる。
落ち着かない動きが消え、背筋が伸びる。視線が定まる。
そして――エマを見る目が、明らかに違った。
真っ直ぐで、迷いがない。
「……エマ」
「な、なによ」
エマはペンを止めた。
「さっきの説明、分かりやすかった」
「急に何?」
「いつも助けられてるって、思ってた」
教室の空気が、ぴんと張る。
「テオ、今は講義中よ」
「分かってる。でも、今言わないと、言えない気がした」
エマの頬が、ゆっくりと赤くなる。
「……変なものでも飲んだ?」
「飲んだ。でも、変じゃない」
テオは立ち上がった。
講義室の視線が集まるが、気にしない。
「俺、エマが好きだ」
直球だった。
「ずっと一緒にいたい。喧嘩しても、怒られてもいい。エマの隣がいい」
一瞬、時間が止まる。
エマは言葉を失い、唇を開いて、閉じた。
「……っ、ばか」
だが、拒絶の色はない。
「こんな場所で……」
「ごめん。でも、嘘じゃない」
エマは深く息を吸った。
「……後で。ちゃんと話す」
テオは頷いた。
それだけで、満足そうに席に戻る。
講義は続いたが、内容が頭に入った学生は少ないだろう。
俺は椅子に座り直し、前を見つめた。
「……やり過ぎたか」
エレナが、後ろから小声で囁く。
「うん。やり過ぎ」
「だよな」
「でも」
エレナは続けた。
「テオさん、すっごく嬉しそうだった」
「……それなら、いい」
講義終了の鐘が鳴る。
エマは立ち上がり、テオの腕を掴んだ。
「来なさい」
「え、どこに」
「静かなところ!」
二人は足早に教室を出ていく。
俺は、その背中を見送った。
胸の奥に、少しだけ苦味が残る。
だが同時に、動き出した未来の気配も感じていた。
「ハヤトにぃに」
「どうした」
「次は、もうちょっと優しくね」
「善処する」
エレナは満足そうに笑った。
俺は立ち上がり、白衣の袖を整える。
行き過ぎたお節介だったかもしれない。
それでも、止まっていたものが動いた。
なら、俺はこの結果を引き受けるだけだ。
――次は、ちゃんと、正面からだ。




