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倒れないでくれ! ――限界と選択を描く医療ヒューマンドラマ――  作者: 東雲 明
四年生編:倒れず走る四年生

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第100話 薬理学の授業で惚れ薬飲ませたら親友が限界突破した件

薬理学の講義室は、昼下がり特有の静けさに包まれていた。

 黒板に並ぶ化学式と作用機序。教授の声は淡々としているが、内容は鋭い。臨床に直結する話ばかりだ。


 俺はノートを取りながら、斜め前の席に座るテオをちらりと見た。

 相変わらず落ち着きがない。ペンを回し、椅子をきしませ、たまに小さく腹を鳴らす。


 その隣に、エマ。

 背筋を伸ばし、教授の言葉を一言も逃すまいとする集中力。ページをめくる音すら正確だ。


 ――昨日の昼からだ。


 テオとエマは一緒に過ごす時間が増えた。

 いい傾向だと思う。思うが、どうにも煮え切らない。テオは一歩を踏み出せず、エマは気づいているのに待っている。


 そこで、俺の悪い癖が出た。


「……今日の治験薬、か」


 教授が取り上げているのは、情動に影響を与える可能性が示唆された新規化合物。

 あくまで軽度。集中力や意欲の変化を測るための、段階的試験だ。


 サンプルは、無色透明の小瓶。

 実習用に配られ、もちろん服用は禁止。評価は仮想症例で行う。


 だが――俺は、講義前に成分表を見ていた。

 交感神経系に作用し、情動の向きが強調されやすい。好意がある対象に対して、距離感が近づく可能性がある。


 惚れ薬、なんて言葉は使わない。

 だが、結果は似たものだ。


 俺は一度、天井を見上げた。

 やり過ぎだと分かっている。分かっているが、背中を押すには十分すぎる。


「ハヤトにぃに、どうしたの?」


 横から、小声が飛んできた。

 エレナだ。今日は見学で後方に座っている。


「ちょっと、考え事だ」

「むむー。悪い顔」


 鋭い。


 俺は小さく息を吐いた。


「……もし、テオが少し大胆になったら、どう思う」

「いいと思う!」


 即答だった。


「エマさん、ずっと待ってる感じだもん」

「……だよな」


 エレナは首を傾げる。


「でも、ハヤトにぃにがやると、だいたい大ごとになるよ」

「否定できない」


 講義の途中、教授が休憩を挟んだ。

 ざわつく教室。学生たちは水を飲み、伸びをする。


 俺は立ち上がり、テオの席に近づいた。


「テオ」

「ん? なに、ハヤト」


「喉渇いてないか」

「え、ああ。めっちゃ」


 俺はポケットから、小さな紙コップを取り出した。

 無色透明の液体。治験薬を、規定量よりさらに薄めたものだ。


「水の代わりだ」

「助かる!」


 疑いもせず、テオは一気に飲み干した。


 ――もう後戻りはできない。


 エマが、こちらを見て眉をひそめる。


「ちょっと、何飲ませてるの」

「水だ」


 半分は本当だ。


「……変なことしてないでしょうね」

「してない」


 半分は嘘だ。


 講義が再開する。

 五分、十分。変化はゆっくり現れた。


 テオの姿勢が変わる。

 落ち着かない動きが消え、背筋が伸びる。視線が定まる。


 そして――エマを見る目が、明らかに違った。


 真っ直ぐで、迷いがない。


「……エマ」

「な、なによ」


 エマはペンを止めた。


「さっきの説明、分かりやすかった」

「急に何?」


「いつも助けられてるって、思ってた」


 教室の空気が、ぴんと張る。


「テオ、今は講義中よ」

「分かってる。でも、今言わないと、言えない気がした」


 エマの頬が、ゆっくりと赤くなる。


「……変なものでも飲んだ?」

「飲んだ。でも、変じゃない」


 テオは立ち上がった。

 講義室の視線が集まるが、気にしない。


「俺、エマが好きだ」


 直球だった。


「ずっと一緒にいたい。喧嘩しても、怒られてもいい。エマの隣がいい」


 一瞬、時間が止まる。


 エマは言葉を失い、唇を開いて、閉じた。


「……っ、ばか」


 だが、拒絶の色はない。


「こんな場所で……」

「ごめん。でも、嘘じゃない」


 エマは深く息を吸った。


「……後で。ちゃんと話す」


 テオは頷いた。

 それだけで、満足そうに席に戻る。


 講義は続いたが、内容が頭に入った学生は少ないだろう。


 俺は椅子に座り直し、前を見つめた。


「……やり過ぎたか」


 エレナが、後ろから小声で囁く。


「うん。やり過ぎ」

「だよな」


「でも」


 エレナは続けた。


「テオさん、すっごく嬉しそうだった」

「……それなら、いい」


 講義終了の鐘が鳴る。

 エマは立ち上がり、テオの腕を掴んだ。


「来なさい」

「え、どこに」

「静かなところ!」


 二人は足早に教室を出ていく。


 俺は、その背中を見送った。


 胸の奥に、少しだけ苦味が残る。

 だが同時に、動き出した未来の気配も感じていた。


「ハヤトにぃに」

「どうした」

「次は、もうちょっと優しくね」

「善処する」


 エレナは満足そうに笑った。


 俺は立ち上がり、白衣の袖を整える。

 行き過ぎたお節介だったかもしれない。


 それでも、止まっていたものが動いた。

 なら、俺はこの結果を引き受けるだけだ。


 ――次は、ちゃんと、正面からだ。

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