第1話 はじまりの許可証
ルミエール王国の外れ。
地図の端に、小さな点で記されるだけの村があった。
街道から外れ、商人も旅人も滅多に立ち寄らない。
風だけが道を知っているような場所だ。
苔むした石畳に朝露が残り、踏めば靴底がわずかに滑る。
草の匂いと湿った土の香りが混じり合い、肺の奥に静かに沈んでいく。
そんな村にも、変わらず朝は訪れる。
薄い霧が地面を這う中、俺は十八歳の誕生日を迎えていた。
目を開けると、視界いっぱいに見慣れた天井が広がる。
白でもなく、清潔とも言い切れない。孤児院の、少し歪んだ天井だ。
起き上がる前に、胸に手を当てる。
――一、二、三。
鼓動を数えるのは、もう癖だった。
生まれてから十八年。その半分以上を、病院の白い天井と孤児院のこの部屋で過ごしてきた。
病弱だった頃の名残で、朝一番に体調を確かめないと落ち着かない。
呼吸に耳を澄ます。
今日は……軽い。
肺の奥まで、冷えた空気が素直に入ってくる。
胸の内側が、久しぶりに静かだった。
「……大丈夫そうだな」
小さく呟く。
声が、やけに広く感じる部屋に溶けた。
まるで、長い間体に絡みついていた鎖が、一本外れたような感覚だった。
理由はわからない。ただ、今日は何かが違う――そんな予感だけがあった。
そのときだった。
外から、鈍く重い音が響いた。
木と金属が擦れ合うような、聞き慣れない音。
この村では、まず耳にしない種類の響きだ。
俺はベッドを抜け、窓際へ歩み寄った。
霧越しに見えたのは、一台の馬車だった。
黒い車体。
磨き上げられ、泥一つ付いていない。
深紅の布が風に揺れ、そこに縫い込まれた金糸の紋章が、朝の光を反射する。
王家のものだと、一目でわかる。
「……馬車?」
この村には、あまりにも場違いだった。
周囲では、村人たちが作業の手を止め、遠巻きに様子を窺っている。
誰も近づこうとしない。
その距離感が、かえって異様だった。
次の瞬間、玄関の方で慌ただしい足音が響いた。
「ハヤト!」
先生の助手が、息を切らして駆け込んでくる。
「すごい格好の人が来てる! お前宛ての荷物だって!」
「……俺に?」
冗談だろ、と思った。
けれど、助手の表情は本気だった。
外へ出ると、紋章入りのコートを羽織った男が、一歩前に出た。
姿勢が良すぎて、逆に威圧感がある。
「ハヤト・キサラギ様」
低く、よく通る声。
その呼び名だけで、空気が張り詰める。
差し出されたのは、革の封筒だった。
触れた瞬間、質の違いがはっきりとわかる。
村の雑貨屋で扱う革とはまるで違う。柔らかく、指に吸い付くような感触と、確かな重み。
封蝋には王家の紋章。
そして、その下に刻まれた一文字。
――E。
「……俺、ですよね」
確認するように言うと、男は事務的に頷いた。
「王家記録に基づく、正式な宛名です」
それ以上の説明はなかった。
男は深く一礼し、馬車へ戻る。
蹄の音が遠ざかり、朝の空気だけが取り残された。
俺は、封筒を見下ろす。
王家の紋章。
そして、この一文字の署名。
親戚でも、知人でもない。
名前を名乗る必要のない立場――そんな気配だけが、そこに残っていた。
震える指で封蝋を割る。
中から現れたのは、一枚の厚い公文書だった。
⸻
『ハヤト・キサラギ
王国医療人材選抜規定に基づき、
ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を許可する。
指定の街にて、制服・学用品・生徒手帳を受領すること。
――王家医療監査局
選抜執行官(E)』
⸻
「……は?」
声が漏れた。
ルミエールアカデミー。
王国最高峰の医療学校。
普通の家庭の子どもでさえ、簡単には入れない場所だ。
そこに――孤児の俺が?
理由は、どこにも書かれていない。
推薦者の名も、功績もない。
ただ、事実だけがそこにあった。
――行け。
先生の部屋へ向かい、手紙を差し出す。
一目見た先生の表情が変わった。
「……本物だ」
そして、静かに言う。
「全寮制だ。戻れない。王都は、君の体には危険すぎる」
その言葉で、胸の奥が締めつけられた。
消毒液の匂い。
夜通し続いた咳。
布団の中で、音に怯えて丸まった記憶。
逃げたい。
この村で、静かに生きる方が、ずっと楽だ。
それでも――。
病室の小さな窓から見上げた、あの空。
誰かの痛みに寄り添える人間になりたいという願い。
「……行きたいです」
声は震えていた。
それでも、はっきりと。
「行きます」
長い沈黙の後、先生は微笑んだ。
「胸を張って進め、ハヤト」
廊下に出ると、朝陽が差し込んでいた。
霧の向こう、空は高く、どこまでも青い。
十八歳の誕生日。
俺は初めて、自分の未来を選んだ。
――この選択が、
どれほど過酷な道の始まりかも知らずに。




