【聖女を統べる神の想い】1
*
「もういい! お前なんてもう知るかっ!!」
『え』
あるよく晴れた空の下、屋上の端。
彼から唐突に吐き出された溜め息交じりな言葉に僕は硬直する。
瞬時に言葉の意味を理解できず、噛み砕いて飲み込む迄の時間が欲しかった。
動けずに立ち竦む僕を見つめる彼の視線が突き刺さる。
ザアッと秋の冷たい風が、僕らの間を吹き抜けていった。
なんで…………?
どうして今になって――――
彼が怒った原因は、ほんの些細な事だったと思う。
僕の家庭環境の事や家族の事。僕の性格の事。
其れが何故、彼の苛立ちの原因にさせたのかは分からない。
だって其れは僕の事の筈だから。
だけど、彼の苛立ちは話しているうちに徐々に激しくなり、収まろうとはしなかった。
こういう時、周りの空気に敏感なのは嫌になる。
僕の悪い所は僕自身理解している。
自分の事から目を背けて、他の誰かに率先するように尽くそうとする。
自己犠牲の偽善者。
其れが僕の………悪癖。
彼に対してもそうだった。
何時からか一定の距離を置いて接するようになった。
だって彼の人生は僕に振り回されている。
――――いや、僕に狂わされているのだから…………。
僕は必要以上に誰かに関わることを恐れている。
四歳の冬に車の事故で両親を亡くし、其れまでの記憶が曖昧になった僕を両親の友人だった水無瀬家が引き取ってくれたのは今でも感謝している。
だけど、中等部で違う学校に行く事になって気付いてしまった。
水無瀬の両親は、僕を友人の息子以上に見ていなかった…………
僕の養育費は母方の親戚が出してくれていて。
僕の名字は氷月のままで。
もっと早く知ることが出来れば良かったのに……知識の乏しかった僕は其れが出来なかった。
彼に全て与えられるはずだったモノを分けてもらい、時には彼の両親を独占した。
彼よりも成績が上になると恍惚感を覚えた。
彼の居場所を何度も追い詰めた。
家事を手伝っていたのだって、其れを率先としていれば居場所が確保できたから。
水無瀬に成績で勝っていたのは、水無瀬より悪かったら【要らない子】と思われるのが目に見えていたから。
必死で勉強して、だけど良すぎると更に彼を追い詰めてしまうから、所々抑えて…………
【お前なんか要らない】と言われないように。
母方の実家から養育費が送られてくるのは、引き取れない面をカバーする為。
父は孤児だったから、父方の親戚は居るのかすら分からない。
元々の居場所のない僕に居場所をくれたのは水無瀬だったから。
それなのに僕は彼を――――
「……じゃあ、なんで水無瀬は僕に…………」
それ以上は声に出せなかった。
言えるはずがない。
彼の家に無理矢理入り込んで居座っていた身に、そんな事を言う資格はない。
例え何をされたって、文句を言える立場ではない。
育ててもらっただけでも有難い位だ。
それでも…………ほんの少しだけ期待してしまう。
彼の時の行為が僕が思っている意味なら……と。
其れならどんなに嬉しいか。
そして更に彼を追い詰めてしまうか…………
「其れは…………っ……」
水無瀬は僕が口にした内容を理解したらしい。
其のまま押し黙る。当たり前だ。
無理矢理僕の自由を奪い、抵抗出来ない身体を虐げて…………犯した。
僕の意思は――――卑下された。
彼のときの彼の行動は好意があってのことなのか、或いは悪意があってのことなのかは僕には分からない。理解するのも難しいのではないか。
だけど――――考えてしまう。
彼の行為に答えていたら。
自分の想いを伝えていたら。
こんな風に辛い想いをしなくて済んだんじゃないかって。
「俺はあの家に戻るつもりはない。あの家はお前の好きにして良い」
重い口を開く水無瀬。
違う。
僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
「其れなら僕が出ていく」
どうして彼が出ていかなくてはならないんだ?
居座って迷惑をかけて…………彼を此所まで追い詰めたのも僕の存在があったからだ。
なら僕が出ていった方が良い。
そうすれば全てが元の鞘に収まる。
収まる…………筈だ。
「水無瀬は悪くない。何で水無瀬が出ていかなきゃ行かないの? 寧ろ出ていかなきゃいけないのは僕の方だ」
声……震えてないかな……
大丈夫、上手く話せている。
「それは違うっ!! 俺が言いたいのは――――」
水無瀬が必死に何かを話そうとする。
だけど其れは、本音を隠しているように思えた。
「杏、俺は――――」
聞きたくない。
聞いたら僕は――――
*
「……………ふぅ」
溜め息を付くと共に、私はキーを叩く指を止めた。
身体の上でグーっと腕を伸ばし、肩を回して凝り固まっている筋肉を解す。
グキッ ボキッ…………むぅ、なかなか解れない。
「そろそろ整体にでも行こうかなぁ……」
思うように動かしづらい身体は限界に来ている。
今の仕事が片付いたら、休みの日に予約を入れてこよう。
そうすれば少しは楽になるだろう。
私は壁にかけてあるカレンダーに、赤いペンで『整体』と記入する。
カレンダーには沢山の丸印と内容が細かく書かれている。
小説やイラスト。それ以外に行っている仕事の予定。友達との約束。
締め切りまで日数がある割りに、仕事は殆んど終わっている。
後は仕上げだけた。
「珈琲でも淹れてこようかなぁ……」
『仕事用に』と、杏が置いていったインスタントだけど一寸高めの珈琲がある。
どちらかと言うと紅茶の方が好きだけど、杏が持ってくる珈琲は好きだ。
「味がくどくないのよね…………ああ見えて美味しいものをよく知ってて、将来お嫁さんに欲しいー…………って、私は何を言ってるんだろう」
ふふっと笑う。
どちらかと私が杏を婿に貰えばいいのかな。
『そんなの許されるはずない』
『いい加減立場を理解せよ』
「…………分かってるよ」
直ぐに考えを否定する。
そんな事は出来ないのは周知している。
特に本宮の…………桜果ちゃんには怒られそうだ。
桜果ちゃん、杏の事を取られたくないみたいだし。
本宮の血の関係か、変に感が鋭い所があるし。
「本宮家に楯突く訳にはいかないし……ね」
浮かぶ笑みな自嘲気に変わる。
本宮に歯向かった時点で消されるのは目に見える。
これ以上天宮家に負荷を掛けられない。
だからこそ私は桜果ちゃんに壁を作って接している。
桜果ちゃんもそうだ。
『……誰もがそうなんだろうけどね。杏も綾兎君も亜梨栖ちゃんも水無瀬も…………心を許したヒトにしか心を開かない』
其れは怖いから。
知ってしまうのは良くないと思い込んでいるから。
ずっと気付かないフリをして、目を背けてた。
本当は知っている。
綾兎君も亜梨栖ちゃんも【現実世界の存在】じゃない事も。
綾兎君が現れた瞬間に、杏が変わってしまった事も。
綾兎君達に閑崎観柚が付いた事も。
『緋皇家に…………狂わされてる?』
天宮家を追い込んだ緋皇家は、更に何を望むのだろう。
亜梨栖という名は緋皇家の家系図の最期で見掛けた。
綾兎の名は無かったけど、あの時代なら双生児のどちらかが忌み子として隠されたり殺されていてもおかしくない。
緋皇家を滅ぼしたのは守り神だったと聞いた。
緋皇家が担っていた分を天宮家が補わなくてはいけなくなったせいで、一族のどれくらいの人間が犠牲になったか。
人柱・贄にされ、死んでいった。
綾兎君と亜梨栖ちゃんはもしかして…………此の世界を壊しかけてる?
二人は分かっているのだろうか。
此の世界の要は――――杏なんだよって。
「うーっ」
考えていたら頭が痛くなってきたよ…………
杏の周りは波瀾万丈なんだよーっ!!
本当にややこしくなってきたと感じるよ。
「…………ま、天宮家にとって私は【役立たずの用無し】なんだけど……ね」
自分に言い聞かせるように口に出す。
本当はそんな事は言われてないのに。そんな生易しいものじゃないのに。
もっと凄まじい暴言を吐く事しか出来ない人間の集まり。
天宮家は私にとって……実家とは呼べない、存在を否定したい位嫌な所。
居場所なんてない。肉体・性格ではなく、魂を受け付けられていないのだからどうしようもないのだ。
ふと視線がカレンダーで止まる。
『そういえば……もう八月。葉月の…………』
役立たずで用無しな私の傍には、かつて病弱の兄が居た。
天宮葉月。
年が離れた兄は私にとって父・母でもあった。
親愛していたのだ。
小さい頃、一族の中では妾の子である私は忌み嫌われていた。
義母は自分の子供が可愛く、私の存在を受け付けなかった。
義母は後妻だった。
あちこち女に手を出していた父は私を厄介者扱いした。
兄弟は何人か居る。
後妻の子供は私よりも優れていた為、益々私の居場所は減らされた。
だけど、葉月だけは違くて。
彼には誰も敵わなかった。
病弱で、女として育てられていた葉月の雰囲気は何処と無く杏に似ている。
線の薄さ、儚さ、そして強い意思の持ち主。
彼に葉月を重ねる事で私は心の穴を埋めていた。
今も。そう。
そんなの、ずっと理解している。
初めて彼に会った時からずっと――――
杏の事は好きだ。独占したいほどに。
もう少しお金が稼げて、自分の居場所を確実に創れたら、杏を婿さんに貰いたいほどに。
大好き。其れは此処では言う事が出来ないけれど。
葉月の次に、私自身を見てくれた。
天宮家じゃなく、私自身を。
…………だからこそ、彼に近づく邪な存在は認められないのかもしれない。
「もう二度と、失わないように…………此処では私は彼を……」
葉月は私のせいで居なくなった。
杏を失ったらきっと私は狂ってしまうだろう。
だから私は彼を護りたい。
今度こそ、救いたいのだ。
一度目は無理だったから。
理由も知らずに喚いて、杏の事を傷つけてしまったから…………
葉月は許してくれるかな。
貴方を犠牲にしてしまった私を。
彼を救う事で、許してくれるなら。
私は彼の為に何だってする所存だよ。
ピリリリリッ 「っ!?」
そんな私の思いをぶち壊すように携帯電話。
個人個人で着信を変えている私の携帯で、この音に設定しているのは。
ディスプレイを見る。
最悪な…………実家【天宮家】からだった。
ゴクリと息を呑む。居留守してるのに着信は止まらない。
私が此処に居るのを知ってるからか。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、天宮睦月です」
簡潔に自分の名を告げて、電話の主の声を待つ。
《久しぶりだな。睦月》
「お父さん…………」
数年振りに聞く父の声。
今まで私に直接電話をかけてくるなんて無かった。
実家で何かあったのだろうか?
其れとも…………
《お前が次の儀式の贄に決まった》
「……え?」
《今度こそしくじるな。しくじったらお前を殺す》
「っ!?」
ブツッ ツーツー
一方的に告げられ切れる電話。
父との会話が一方通行になるのは毎度の事だから許せる。
だけど、違った筈なんだ。
「どうして…………っ…………次の贄は神流の筈なのに、何で私なの…………」
其れは葉月を失った時に、あの神様が直々に告げたじゃないか。
私は天宮家以外の力を持ってるせいで存在そのものを拒否したのに。
其のせいで、代わりに葉月が贄になった。
一族の中で一番力を持っていて、魂が清んでいたから。
其だけの理由で。私は大切な兄を失った。
私の目の前で海に引きずり込まれて、還って来なかった。
更に次は異母姉弟に当たる神流が選ばれ、私は一族の中で役立たずの厄介者になったのに。
其処で受ける仕打ちに堪えられなくて、才能を開花させた私は天宮家を出た。
大学まではお金を出してもらうかわりに、収入が入ったら借りてる分を返しながら。
だけど――――
「贄になったんじゃ、もう仕事は出来ない………か」
手を付けている仕事を見る。
無駄になってしまいそうな物達。
私のお付き編集者の早苗ちゃんも、天宮家の血は引いてるから状況を察してくれるだろうか。
終わった筈の死への恐怖が迫ってきている。
其の事実は直ぐに受け入れる事は出来なくて、私はギュッと身体を抱き締めた。
*