9、ハインリヒ王子
「なにやら楽しそうですね、殿下」
殿下、と呼ばれた茶髪の男は、鬱陶しそうに自らの髪に手を差し込むと、そのまま引っ張る。
そこから現れたのは、王族である証ともいえる青藍。その奥から覗く、シルバーグレーの瞳に、思わずため息が零れる。
騎士や衛兵らの訓練が終わり、彼らが帰る時間帯。
主に王族とその側近たちのみが立ち入りを許される青冠塔の、執務室である。
ハインリヒは青藍の髪をさらりと揺らして、目の前の男にニコリと微笑んだ。
「そうだな。『お気に入りの子』が来たからね」
「お気に入りの子……といいますと、アーサー様ですか?」
「馬鹿を言え。アーサーはずっと私の傍にいるじゃないか」
「?」
執務机に書類を置いた宰相は、わけが分からないというように、頭上に疑問符を浮かべまくる。
ハインリヒは苦笑いを浮かべた。なぜなら、宰相の反応が正しいのだ。
ハインリヒ、もといヘンリーの周囲は、以前と特に変わりがない。
朝から夕方までヘンリーに変装して訓練に打ち込み、その後はハインリヒとして王子の仕事をこなす。ヘンリーの周りには近衛騎士見習いやアーサーがいて、ハインリヒの周りには宰相や側近がいる。
ここ数日で、ハインリヒの機嫌が良くなるような出会いは全くない。
ただしそれはあくまでも、外から見れば――の話である。
口元に笑みを浮かべたまま、机をコツンと指で叩いた。
「まさか、変装してまで来るとは思わなかったな」
「はい?」
「私に膝枕されておいて、顔色ひとつ変えないとは、どういう教育をしているんだ」
「はぁ……?」
今は若干の変装をしているとはいえ、ハインリヒは数々の令嬢から熱い視線を受けるくらい、顔がいい自覚はあった。
もちろん第一王子で次期国王という立場に惹かれている者も多いだろうが、それだけでないのは彼女たちの目を見ても明らかだった。
なのにアリスときたら、この顔を前にしてもちっとも靡く素振りを見せないのだ。どうかしている。
その理由はなんとなく分かってしまうが。
「いや、気にしないでくれ。あの子のブラコン振りも変わらず、らしい。むしろ悪化しているか……?」
「はぁ……」
とうとうハインリヒの言っている意味が分からず、宰相は匙を投げる。
そして、王子であるハインリヒが騎士見習いに変装している理由の方へ、話題を変えた。
「それはそうと、もうすぐ王前試合ですが、殿下のお眼鏡にかなう方はおりましたか?」
騎士の間では、「ハインリヒ王子はそろそろ側近騎士を決めるのでは」という噂が流れているが、それは事実だった。ハインリヒは、次の王前試合で側近騎士を決めるつもりである。
それだけでなく、誰を近衛騎士へ昇格させるか、も考えなければならない。
そこで、強さだけではない、人柄や考え方もハインリヒにとっては重要なポイントだったため、こうして近衛騎士見習いのヘンリーに扮しているのだ。
手間のように感じるが、自らが一番信頼を置く騎士となるのだから、ハインリヒにとってはそれくらいする必要があった。
実際、昼間のように、第一王子に対する意見も直接聞くことができるのだから。
ハインリヒは、先程までの表情を引っ込めて、肩肘をつく。
「あぁ、そうだな。二人ほど引き抜こうと思っていたんだが……どうにもな……」
「なにか問題がおありで?」
ハインリヒは、曖昧な返答をする。
アーサーはもちろん、アーサーは引き抜くつもりだった。ずば抜けた剣術はもちろんのこと、人格、騎士としての自覚も問題ない。彼を引き抜かずして、他に誰を引き抜くのか。
そしてもう一人は、小柄な体型を活かした素早く静かな動きを得意とする人物。まだ自分の特性を分かっていないようだが、磨けば光るはずだ。そう思っていた。
しかし――
「分からないな」
ハインリヒは腕を組んで、天井を仰いだ。
何を考えているのか、分からない。それが彼に対する率直な感想だった。
「最近、我が国では認可されていない薬が出回っているようでね」
「『筋弛緩剤』ですか」
一瞬、急に変わった話題に宰相は目を瞬くが、すぐにハインリヒの話に合わせる。
マスクレア。強力な香りを発し、その香りをしばらく嗅ぐだけで意識を失ってしまう。扱い方によっては、医療で活用できるような薬にもなるらしいが、現時点で通常使用できるほどの成果は出ていない。
この薬の特性を利用して、誘拐や暴力沙汰が起こっているいることから、レチアーナ王国での使用は禁止されている。
「あぁ。それについてできる限り、情報を集めてきて欲しい。……貴族の手に渡って、さらに使用しているというのは、さすがに看過できない事態だ」
「承知しました」
宰相は恭しく頭を下げる。
現時点で、マスクレアを使用したとして捕まった貴族はいない。だがハインリヒは、予想ではなく確信で「使用している」と言っていた。ハインリヒはそう確信するだけの何かがあるのだろう。
平民であれば、すぐに捕らえて牢に入れるなり刑に処したりするのは難しくない。しかし、貴族が絡んでいるとなればそう簡単にいくものではない。
被害者が、訴える気がないのなら尚更。
「後は自分で出来るから、下がっていい。先程の件はくれぐれも頼む」
「ありがとうございます。お任せ下さい」
宰相が下がったのを確認して、ハインリヒはぽつりと呟いた。
「……まぁ、あの子が上手く動いてくれればいいのだが」
種は蒔いた。散水もした。
あとはハインリヒができることといえば、種の力を信じるだけ。
それが駄目だった時のために、宰相を動かすのだが。
口元に、笑みが浮かんだ。執務椅子から立ち上がり、窓の外を眺める。
「――さて、と。アリスがとうとう社交界デビューするのだったな。何か贈りものをした方がいいのか?」
とはいえ、アリスはハインリヒの存在を知らないだろう。急に知らぬ男――しかも王子――から贈りものをされたところで、アリスは困り果てるに違いない。
そんな姿も見てみたいが、急いては事を仕損じるという言葉もあるほどである。
ゆっくり、気付かれないように、そして気付いた時には逃げられないようにしておくべきだ。
「とりあえず、アーサーに訊ねてみるか」
窓の外が、ハインリヒの髪と同じ色に染まった。