8、お兄様のお友達は少しおかしい
「お腹が痛い……」
近衛騎士見習いの訓練場。昼休み明けからしばらく経った頃。
アリスはお腹を抱えて、前屈みになった。
毒を盛られたわけでも、腹を蹴られたわけでも、もちろん妊娠したわけでもない。
ほんの短時間に、貴族の女性では普段食べないような量を、小さな胃に詰め込んだせいだ。しかもその直後に、訓練という激しい動きをしたから、もう胃はびっくりである。
他の見習い騎士は平然としているのが信じられない。彼らは、アリスよりももっと短い時間で、アリスより多い量を胃に詰め込んだはずなのに。
やはり普段より体を鍛えている騎士と、屋敷に籠ってずっと淑女教育を受けている令嬢の差か。
なんと情けないことか。
悔しいと思いつつも、なってしまったものは仕方ない。
腹痛に苛まれているのがバレたら、アーサーではないと気付かれてしまうかもしれない。なんとか誤魔化すしかない。
アリスは脂汗を額に浮かべながら、剣を握る。
とっとと相手を沈めれば、その分体を休める時間が取れる。必要なのは休息だ。しばらく大人しくしていれば、この腹痛も収まるはず。
だが不幸なことに、次の訓練相手はヘンリーだった。
どうしてこう、一番勘が鋭そうで倒すのに苦労しそうな相手にここで当たるのだ。
色んな意味で腹痛が倍増した気がした。
「次の相手はアーサーか。お手柔らかに頼む」
「……こちらこそ」
楽しそうに口角を上げるヘンリーに、アリスも必死に笑って返す。
上手く笑顔を作ったつもりだったが、なぜかヘンリーは訝しげに眉を寄せる。
これ以上向かい合っていたら、それこそ本当に腹痛に苛まれていることに気付かれてしまうかもしれない。
そこから、アーサーならばこの程度で腹痛を起こすはずがない、ならばコイツは誰だ、となるかもしれない。
(それこそお兄様の恥になってしまうわ! 一撃で倒す)
気合いだ。
バレルの号令とともに、アリスは音もなく地面を蹴った。一気にヘンリーと距離を詰めて、目にも止まらぬ早さで剣を突き出す。
だが、ヘンリーも俊敏に反応し、アリスの剣を自らの剣で受け止め、いなす。
金属同士の独特な高い音が耳に響く。
アリスは小さく舌打ちをした。
(やっぱり簡単にはいかせてくれない……! でもさっさと倒さないと私のお腹が持たない!!)
剣が離れて次の攻撃に移られる前に、アリスは体を捻らせて蹴りを入れる。流石に足が出るとは思わなかったのか、ヘンリーはそれをもろに食らう。
よろめいたのを視界にとめ、アリスはにやりと口角を上げた。アーサーはあまりやらないが、アリスはこういったずるが得意だった。
あとは一気に詰めるだけ。素早く構えの体制をとって、そこでアリスははっと目を見張る。
なぜか、ヘンリーが嬉しそうに笑っているのだ。
「そういうの、待っていた」
「えっ」
アリスはとうとう顔面蒼白になる。
そういうのを、待っていた。『そういうの』を、『待って』いた? 頭の中でヘンリーの言葉を反芻し、やがて思い至る。
今アリスは、ヘンリーに蹴りを入れた。今ヘンリーは、蹴りを入れられた直後に、嬉しそうに笑った。
つまり――
(お兄様に蹴られて喜ぶとか、そういう趣味!?)
考えてみれば、初めて朝練をしたとき、ヘンリーはつまらなそうにしていた。あれはもしかして、アリスが下手を打ったんじゃない。彼の『趣味』に付き合わなかったからではないか。
なんということだ。騎士なのだから、正々堂々と剣で戦え精神のアーサーが、まさか、ヘンリーという男にだけは特別待遇をしていたとでもいうのか。
純粋な騎士のアーサーに、なんてことを。
やはり、ヘンリーは何としてもアーサーから引き剥がさねば――
そんなことに頭をめぐらせていたからだろうか。ヘンリーの動きに気付かなかった。いや、気付きはしたが、体の奥底からじくじくと暴れるような痛みがアリスの動きを遅くし、間に合わなかったのだ。
まっすぐに向かってきた一閃は、鈍くも庇おうと動いた剣のせいで軌道をずらし、アリスの腹を突いた。
「がはっ……」
予想外の衝撃に、目を見開く。
胃の内容物が喉元までせり上がってきたが、さすがのアリスでもここで吐くのはまずいことは理解しているので、喉に力を込めて無理やりに胃の中に戻す。
しかし立っていることは難しく、腹を抱えながら地面にゴロゴロと転がった。
「ア……アーサー!」
心配と後悔を織り交ぜたような顔で、ヘンリーが剣を投げ捨ててアリスに駆け寄る。表情筋があまり動かない男だと思っていたが、どうやら外れていたらしい。
笑ったり焦ったり、忙しい男である。
だが今、心配されても困るのだ。
しかもヘンリーが叫んだことにより、周囲の騎士たちも何事かとこちらに注目してしまっている。
急に大量の食べ物を胃に詰め込んで運動したら腹痛を起こしたなんて、言えない。かといって、手が滑って運悪くヘンリーの剣を食らってしまったとも、言い難い。
なぜならアーサーは、そんなヘマやらかさないはずだから。
(どうしようどうしよう……!?)
その間にも、ヘンリーは近づいてくる。
なんとかして立ち上がらないと。誤魔化さないと。
外に漏れでて聞こえてしまいそうな程に、心臓が大きく打つ。
「大丈夫か!? 怪我は――」
ヘンリーの言葉が不自然に切れる。
それもそのはず。自分の喉元に、剣先が向けられているのだから。
アリスは、ふと目を細めた。
「……僕の勝ちだね、ヘンリー」
立ち上がることは叶わなかった。だが、剣を握ることはできた。一方で、ヘンリーは剣を投げ捨てている。
アリスは素早く状況を判断して、上半身だけ起こし、そばに寄ってきたヘンリーに剣を向けたのだ。
しばらくの沈黙の後、ヘンリーは「は」と小さく声を漏らした。
「一本取られたな」
怒らせたかと思ったが、ヘンリーの浮かべる表情を見て違うと悟る。悔しい、とも違う。安堵、とも違う。
それがアリスには分からなかったが、まあいい。
決着がついたおかげで、こちらに注目していた見習い騎士たちも、「よく分からないがアーサーが勝ったらしい」という認識で、アリスとヘンリーから逸れたらしい。各々の訓練を再開している。
アーサーの体面も保てたし、ヘンリーの目も、周囲の目も誤魔化すことができた。
地面に剣を突き立てて、杖代わりにしてよろよろと起き上がる。もともと腹痛があり、更にそこに攻撃を食らっているのだ。
自然と、息が上がる。
ヘンリーはすいとアリスから離れ、先程投げ捨てた己の剣を拾う。鞘に戻すと、迷うことなくバレルの元へ足を進めた。
(まさか、バレル様に告げ口する気――?)
しかしヘンリーが放ったのは、アリスが思っていたこととは異なる言葉だった。
「バレル様、どうやら先程の手合わせで、剣が欠けてしまったようです。倉庫から別のものを、取りに行ってもいいですか」
「剣が? ……そうか、許可しよう」
「ありがとうございます」
練習用の剣は、人の体を傷つけないよう多少脆くは作られているだろうが、今の衝撃で欠けるだろうか。少なくとも手元の剣はなんともない。
アリスは眉を寄せるのに反して、バレルは納得したように頷いた。もしかしてアーサーとヘンリーの間では、よくある事なのだろうか。
どちらにせよ、僅かではあるが休息する時間が取れる。ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、ヘンリーはアリスの腕を掴んで無理やり立ち上がらせる。
「え、なに」
「君の剣も、欠けてしまっている。替えた方がいいだろう」
「いや、僕のは無事――」
反論は聞かないというように、腰に手を回すとそのままずるずると押し歩かせる。エスコートのように取れなくもないが、そんな優雅な感じではない。そもそも男同士である。
この人は、何かと倉庫に一緒に行きたがるよなぁと考えながら、されるがままに倉庫にたどり着く。
さっさと剣を変えて戻るのかと思ったが、ヘンリーは倉庫ではなく近くの木の根元にどしりと座った。当然、腰を持たれたままだったアリスも道連れになる。
「うわっ」
衝撃を覚悟していたのに、アリスを襲ったのは別の感覚だった。視界にはヘンリーの顔と木と青空。頭の後ろはなにやら暖かい。仰向けに寝転んでいる形になっているようだ。
そう、ただ地面に寝転がっているのではない。――ヘンリーに膝枕されている。
「はっ? ちょ、いったいなにを」
未婚の女性が、見知らぬ男性に膝枕してもらうなど。
完全に慌てたアリスは、起き上がろうと暴れるけれど、ヘンリーに押さえつけられる。
「少し休むといい」
「休むって……剣を変えるだけなのに、それ以上に時間かかったら怪しまれるでしょ。騎士としてなってないよ」
「はは、アーサーらしい意見だね。だが、まともに構えも取れないような状態で訓練に挑むのも、騎士としてなってないんじゃないか?」
ごもっともなことを言われて、アリスは口を噤んだ。気付かれていたらしい。
その反応に満足したのか、ゆるりと目を細めた。
青空を背景にして、深夜にしんしんと降り積もる雪のような瞳がアリスを見下ろす。
(まともに見たことなかったけど、凄く顔は整っているわ……)
切れ長の目に、高い鼻梁。滑らかな白い肌に、ほんのり色付いた桜色の薄い唇。ひとつひとつのパーツが整っていて、さらにその配置も完璧。まるで神様が、心を込めて作ったかのような造形。
ひとたび微笑まれれば、女性はもちろん、男性でもコロリと堕ちてしまいそうなほどの美貌の持ち主。
それに、見習いとはいえ近衛騎士に属しているのならば、爵位持ちということになる。
ヘンリーの家名を知らないが、所作を見ているとそれなりの家格ではありそうだ。
(この美貌でそれなりの家格。しかもそこそこ気が回るようだし、ご令嬢の間でも噂のひとつやふたつ聞きそうだけど……)
残念ながら、ヘンリーという名前は、アーサーからしか聞くことがない。
今まではさして興味がなかったために気にしなかったが、一度考えてしまうと気になってくるというのが人間の性。
アーサーに確認するのもありだと思うが、変に詮索されそうでなんか嫌だ。絶対に、惚れた腫れたの話ではない。敵を知るために重要な情報である。
悶々としていると、ヘンリーは何かを思い出したように口を開いた。
「もうすぐ、王前祭の警備も始まる。今からあまり無理をしないように」
「え」
意識が引き戻される。
彼は、王前祭の警備と言ったか。
王前祭とはその名の通り、王前試合にあやかっていて、王前試合の一週間前くらいから王都でお祭り騒ぎとなる。酒や食べ物を中心に、小物などが露店で立ち並ぶ。
城下は、普段は穏やかで平和な場所だが、王前祭は各地から人が集まってきてどんちゃん騒ぎとなるので、暴力沙汰や時には犯罪なども起こる。
それを阻止、被害の拡大を抑えるため、衛兵はもちろんのこと、近衛騎士見習いも経験を積むために警備へと駆り出されるのだ。
「王前祭の警備では、本物の剣を帯剣することが許される。玩具じゃない。今みたいなことが起きたら、ちょっとした打撲、では済まされないからな」
「…………心配してくれてるの?」
「違う。怒ってる」
「はいはい。当日はちゃんとやるから安心して」
腑に落ちない顔をしている。
過保護か。アーサーは見た目はぼんやりしているので、面倒を見たくなる気持ちも分かる。けれど見た目だけの話であって、中身はしっかりしている。
それに、今回のように予期せぬ腹痛などが起きなければ、アリスはまぁ、余程の事態が起こらない限りは大丈夫なのだ。
ヘンリーの瞳に見つめられるのが辛くなり、ごろりと寝返りを打つ。神秘的なシルバーグレーから、大地の土色に。
近衛騎士がよく使うからとはいえ、訓練場ほど使用頻度が高くないからか、手入れはそこそこといった感じらしい。所々に雑草が生えており、木も生い茂っていることから日当たりが良くないのか、若干の湿り気も感じる。
アリスは目を瞬いた。
(あれ――?)