7、お兄様の騎士としての覚悟
「はあ……」
アリスの心に反して、憎たらしいほどの快晴。本日も晴天なり、とは大声にして言えるような気分ではなかった。
「どうした、アーサー。元気がないじゃないか」
曇天の心に、次いで来たのは、ヘンリーである。当然のように、優しく背中を叩くのをやめて欲しい。励まそうとしているのだろうが。
アリスはヘンリーをじとりと睨んだ。
「そう見える?」
「どう見ても、そうにしか見えない」
その責任の一端は、ヘンリーが担っているのである。他人事のように言わないでいただきたい。だが、アーサーの姿であるアリスは、そんなことを彼に言えるはずもなく。
ふいと片手を振って、さっさと彼から逃れようとした。
「僕にも色々あるのさ」
「もしかして、妹のことか?」
「な、なんで」
妹、というよりは本人なのだが。細かいところはいいだろう。
難なく図星を当てられて、アリスはたじろぐ。ヘンリーは人の心を読む力でもあるのだろうか。
「アーサーがそうやって悩むことなんて、剣のことかアリスのことくらいじゃないか」
「そ……」
そうなのか。
というか、さらりとアリスの名を呼ぶのは一体どういう了見だ。
仮にもアリスは、淑女教育を受ける侯爵令嬢。見ず知らずの男に名前で呼ばれるというのは、いくら親友の妹でも馴れ馴れし過ぎないだろうか。
「で? なにがあった?」
逃がさないぞというヘンリーの無言の威圧に、アリスはとうとう根負けした。この男に話したところで、特に問題もないだろうと判断してのことだ。
「……アリスが、社交界デビューするんだ」
「! それは……めでたいことじゃないか」
「いやぁ、どうかな」
「優秀な近衛騎士見習いアーサーの妹であり、ブロワ侯爵家の花園に隠されたご令嬢が、いよいよ皆の前に姿を現すんだ。各所の子息もお目にかかるのを心待ちにしていることだろう。めでたい以外になんと言うんだよ」
アリスは半眼になる。
なんだその二つ名のようなものは。
優秀な近衛騎士見習いアーサーの妹は分かる。花園に隠されたご令嬢って、なんだ? 各所の子息に心待ちにされているのか?
アリスの知らぬ間に、一体どのような印象が広まっているのだろう。変なことは言えないとそのまま黙っていると、ヘンリーはまた口を開いた。
「だってあの――」
「近衛騎士見習いの諸君、おはよう! さぁ、今日の訓練を開始しよう!」
なにか言いかけたヘンリーの言葉を、バレル教官の快活な声が遮った。
バレルの、空をも割るような通る声は嫌いじゃないが、今はもう少し抑え目にして欲しかった。
ヘンリーは何を言いかけたのだろう。「だってあの」なんだ。その言い方からして、アリスの何かを知っていそうである。アリスはヘンリーを知らないが。
「だってあの、落第点で有名なアリスだよ」なのか、「だってあの、アーサーの妹で有名なアリスだよ」なのか、はたまたアリスが思い浮かばない何かを噂されているのか。
分からない。分からないが、バレルが来てしまった以上、今は訓練だ。
バルコニーを正面に、前からバレル、その後ろに見習い騎士が一列に並ぶ。訓練の前に必ず行うという、忠誠の儀である。
昨日と同様、そのバルコニーに王族の姿は見られない。姿は見えなくとも、忠誠を誓う。それが近衛騎士のあり方なのだろう。
それを見習いの時から植え付けていくために、毎朝行っているはずだが、どうやら形骸化されてしまっているようで、一部の近衛騎士見習いにはその意図が伝わっていないらしい。
それが分かったのは、昼の休憩時間だった。
近衛騎士と見習いでは、昼食の時間がずれている。白翼塔の食堂で、見習いたちは精力をつけるためたらふく食べる。
アリスが、淑女らしからず肉を頬張っているときに、一人の見習いがぽつりと呟いた。
「今日も、ハインリヒ王子殿下はお見えにならなかったな」
ハインリヒ王子殿下。昨日アーサーとの話にも出てきた、第一王子のことである。「お見え」になる場所といえばバルコニー。
どうやら昨日今日の話ではなく、長いこと、もしかしたら一度も、ハインリヒは彼らに姿を見せていないらしい。
また一人、口を開く。
「そりゃ王子殿下だしなぁ。見習いなんかに時間割いてらんないだろうよ」
「でも、そろそろ側近騎士をお決めになるかもしれないんだろ? 多少は、目をつけとくとかするんじゃないのか?」
「正式な近衛騎士から選ぶんじゃないか? 俺らなんか、所詮見習いだしな。王族は興味ないってことだよ」
不満、というよりは不信感だろうか。
王族に忠誠を捧げる近衛騎士の見習いが、そんなことを言ってよいのか。そうは思っても、周りの見習い騎士たちは便乗していく。
「陛下や女王陛下は、たまにお見えになるのにな。王女殿下も、近衛騎士や近衛騎士見習いの訓練を見て、側近騎士をお決めになったらしい」
「俺らの訓練なんか、王子殿下にとって見るまでもないってことかね」
「近衛騎士とは王族の手と足。信頼関係だ。次期国王となるハインリヒ王子殿下は何より、気にするべきなんじゃないのか?」
「訓練なんか見るまでもなく、優秀な人材を選び取れるご心眼でもあるんだろうよ」
黙っているのは、アリスとローマン、ヘンリーだった。それ以外の見習いたちには、少なからず今のハインリヒのありかたに不信感を抱えているらしい。
王族の身近を警護する近衛騎士にとって何より重要なのは、忠誠心と信頼関係だ。決して、反乱を起こさない。最後まで、王族の手と足であり続ける必要がある。
だが見習いである彼らには、その意識はまだ薄い。
「アーサーもそう思わないか?」
全員の視線が、アリスに集まる。
なぜここで、話を振るのだろう。
王城に勤める騎士にとって、かなり危ない会話だと思うが。誰が聞いているか分からないこの城で、今のアリスに変な発言は許されないのである。アリスの発言は、アーサーの発言と取られてしまうから。
とはいえ、彼らがこうして不信感を抱いてしまうのも、ハインリヒの行動のせいもあるだろう。
近衛騎士が王族に忠誠を捧げるのは当然のこと。そのための近衛騎士だ。しかし、だからといって王族は、それに甘えてふんぞり返っていいわけではない。その分、近衛騎士の忠誠に反しない行動をするべきだ。
「僕には、王子殿下の崇高なお考えなんて全く分からないけど」
というか、アリスにとってはどうでもいいことだ。ハインリヒの考えなど毛ほども興味がない。あるのは、アーサーを側近騎士にしなければ許さないぞ、という気持ちだけだ。
けれど今はアーサー。できるだけアーサーの考えと離れない言葉を選ばなくてはならない。
「僕たちは、王族と、その先の国民のためにある。心から忠誠を誓い、その名の通りこの身を全て捧げるんだ。みんなの気持ちも分かるけど、じゃあ、今ここに王子殿下が来たとして、心から『我々は近衛騎士だ』って胸を張って言える?」
アーサーを見ていた目が、ハッと見開かれる。いや、ヘンリーだけは変わらず読めない表情でアリスを眺めている。
それぞれの視線を感じながら、思考をめぐらす。アーサーはよく、近衛騎士はなんたるか、という話をしてくれていた。
「僕は王族のため、ひいては国民のためにここにいる。王子殿下の行動など、僕の志に関係ない。だから僕は、近衛騎士になる」
関係なくはない。ハインリヒには、アーサーを引っ張ってもらわなければならない。アーサー以外に適任などいないからだ。
だが今言うべきは、そうじゃないことはアリスにも分かっていた。まずは彼らの指揮上げだ。それがアーサーの評判にも繋がるはず。
「君たちは、どうなの?」
食堂は、しんと静かになる。
さすがに、王子殿下の行動など、と言うのはまずかっただろうか。
アリスが冷や汗を流していると、この話題を最初にあげた見習い騎士が感心したように息を吐いた。
「さすが、アーサーだな……」
「え?」
「最近、ハインリヒ王子殿下の側近騎士の噂をよく耳にするから、つい意識がそっちにいっていたんだ。でも、そうだよな。俺は王子殿下だけの騎士になるために、近衛騎士見習いになったわけじゃない」
「なんつーか、アーサーってどこまでも騎士って感じだよな」
見習い騎士たちは、すっかり毒気を抜かれたように肩の力が抜け、アーサーには尊敬の眼差しを送っている。
「す、凄いやアーサー。空気を一気に変えてしまったね!」
そしてなにより、アリスに痛いほどキラキラしたオーラを投げてくるのはローマンだった。
彼は、何も言わずに成り行きを傍観していた。ちょっと不思議に思いつつ、アーサーを褒められて満更でもないアリスは、にこやかにその褒め言葉を受け取った。
ローマンより気になるのが、ヘンリーだろうか。ヘンリーも傍観していた一人だが、物言いたげにアリスを見ているのが怖い。
アーサーの振りに失敗したら真っ先に気付くのが、この男だろう。このシルバーグレーの瞳に見つめられると、何かを見透かされているような気分になる。
だが、自分から突っ込んでいくこともないだろうと、アリスは目の前の肉に集中することにした。
こんな話をしているうちに、昼休みの時間が終わろうとしていたのだ。
アリスだけではない。他の見習い騎士たちも手が止まっていたため、今の時間を認めて慌てて手と口を動かすのだった。