5、お兄様の貞操の危機では!?
「あの、アーサー。よ、よかったら、この後ご飯とかどう?」
一日の訓練が終了し、ローマンはアリスにちょこちょこと近づいてきた。
アリスは、汗を拭いていた手を止める。アーサーは随分と、このローマンという男に懐かれているらしい。
誘われるのは嬉しいのだが、残念ながらこの後は犯人探しのために動く予定だ。アーサーの怪我の具合も心配なので、早めに帰りたい。
何より彼の目の前にいる人物は、『憧れのアーサー』ではなく、『その妹のアリス』だ。
うーん、と一度視線で宙をなぞる。
「お誘いありがとう。でもごめん、家で妹が待ってるから、早く帰らなきゃ」
ローマンと関係を築くことよりも、本来の目的を優先することにした。ここで誘いを受けて長く一緒にいることで、ボロが出て普段のアーサーと違うと怪しまれることも避けたかった。
なので、遠慮がちに断ったのだが。
その言葉を受けた彼の、瞳の奥に走った感情はなんだったか。即座に、どろりとした感情をまぶたの裏に隠して、ローマンは微笑んだ。
「わかった。アーサーは妹さん想いだもんね」
「ご、ごめんね。また今度、一緒に行こう」
ぞくりとしたものが、アリスの頭からつま先までを駆け抜けた。無理やり笑顔を作って返すしかない状況だ。
人は見かけによらない、とはよく言ったものである。腐っても、近衛騎士の見習いなのだ。爵位も低く、ただ鈍臭いだけの男が入団できるはずがない。彼にも何か使えるものがあって、入団を許可されたのだろう。
第一印象など当てにならないなと、アリスは頭の片隅で思った。
微妙な気持ちのままローマンと別れ、アリスは両手を上げてぐーっと伸びをした。
そのまま視線を上にあげると、空はオレンジと紫が混ざったような不思議な色合いが瞳に映る。アリスがいつも、屋敷の窓から眺める空の色だった。
このくらいの色合いになると、アーサーがもうすぐ帰ってくるのだと思い、胸を躍らせ始める時間帯。
今から馬車を走らせれば、空はすっかり紫紺に染まり、いつも屋敷でアーサーを出迎えている時間になるだろう。
アーサーは毎日、訓練が終われば寄り道することなく、アリスの元へ帰ってきてくれていたらしい。
でもアリスはまだ、帰るわけにはいかない。
ひとまず、アーサーが襲われた場所くらいは見当をつけておきたいのだ。
アーサーが帰ってきたのは、いつもとあまり変わらない時間。訓練場には、この時間でもまだ人がいるため、ここではないのだろう。
「誰かにどこかへ誘われた……? でもそれだったら、誰にやられたか忘れるはずがない」
やはり、白翼塔の近辺だろうか。ここから門まで向かう途中に、とか。
「アーサー」
「うわっ!?」
急に後ろから声をかけられ、アリスは飛び跳ねる。
振り返れば、片手を中途半端な位置まで上げていたヘンリーが不思議そうにアリスを見ている。
「そんなに驚くか?」
「お、驚くよ。で、なに?」
アリスは忙しい。ヘンリーに構っている暇はないのだ。
しかしヘンリーはアリスの様子などどこ吹く風で、何かを指さした。
「それ、倉庫にしまわないと」
それ、とはアリスが手に持っている、刃を潰した剣だ。朝練のときに、ヘンリーが持ってきたもの。
言われてみれば、この剣は借り物なのだからもとある場所へ戻さねばなるまい。ヘンリーは倉庫と言っていた。
なるほど、探検するにはいい口実だ。
「そうだね、ありがとうヘンリー。それじゃあ、また明日」
「いや、私もついていこう。こっちだ」
「は」
(はぁぁぁ?)
声には出さなかったが、心の中では盛大に叫んだ。
有無を言わさず、アリスに背中を向けてどこかに歩き出す。全くもって意味がわからない。
というか、倉庫に行くといいつつ、何か仕掛けてくるつもりなのでは? もしかしたら、昨日もアーサーとヘンリーのあいだでこんなやり取りがあったのかもしれない。
アリスの中で、ヘンリーは既に信用ならない人間だ。警戒心を持ちつつ、距離を開けてついていく。
一度、ヘンリーはちらとアリスの方を気にして振り返ったが、変に開いた距離などは気にとまらなかったのか、また前を向いた。
(本当に犯人がヘンリーなら、この状況は絶好のチャンスだろうな。私がうち負かせるかも怪しい。どうしたものか……)
そんなアリスの心配をよそに、ヘンリーは普通に倉庫の前まで来て止まった。
「ここだ」
「あぁ……うん」
ヘンリーは木製の扉を開けて、アリスを中へ促すと、当の本人は中に入ることなく入口の端に立った。まるで護衛のように、ピタリと動かない。近衛騎士の心得なのだろうか。
ヘンリーの様子を尻目に、アリスは倉庫の中へ足を踏み入れた。
倉庫とは言っても、キレイめな小屋のようだった。中は開放的な空間で明るい。
今持っているような練習用の刃の潰れた剣や、盾、防具、普通に使えそうな剣などがずらりと並んでいる。
アリスは眉を寄せて、すんと鼻を鳴らした。そして、剣が綺麗に並んでいる列のぽっかり空いているところに、手に持っていた剣を立てた。
ヘンリーは、アリスが出てくるのを外で待っているらしい。迷子になるはずもあるまいし、放っておけばいいものを。
ひとつため息を吐いて、倉庫をぐるりと見回す。あまり使われていないのか、剣や盾に目立った傷もなく、動かした跡もないため、若干ほこり被っているところもある。
それだけ確認すると、スタスタと倉庫を出た。もう少しじっくり倉庫の中を見たかったが、監視されているようで居心地が悪い。
「何も、ずっと外で待ってなくたっていいじゃないか」
入口の端で腕を組んで待っていたヘンリーの横に並んでそう言うと、 きょとんとしたように目をぱちりと瞬いた。子供のような表情もするのだな、と何となく思った。
今日一日の感想だが、ヘンリーという男は表情が乏しい気がする。不機嫌かといえばそうではないが、常に無表情であまり変化がない。
朝練といって剣を交わした時くらいしか、笑顔はなかった。あの表情を笑顔といっていいのかも怪しいが。
「一緒に中まで入る必要もないだろう?」
「待たずに帰ればいいのにって意味なんだけど」
全くもって的を得ない回答に、つい本音が漏れてしまう。剣を倉庫に戻すだけなのに、ここまでする必要性が感じられない。
アリスは白翼塔に来るのが初めてだが、アーサーは毎日通っている慣れた場所だ。そんなアーサーを守るように傍にいる必要はないと思う。
よく一緒にいる人物だとアーサーは言っていたが、まさか四六時中一緒にいるわけでもなかろうに。
そう思っての発言だったが、ヘンリーの瞳はそれを理解しないというように細められた。
(まさか、本当に?)
ヘンリーの様子だと、これが当然という振る舞いである。アーサーとヘンリーは常にこういう距離間ということだ。
なるほど、と髪をかきあげようとして、短髪だということを思い出す。今はアーサーになりすましている。
ならばできるだけ、アーサーに近い行動と発言を意識するべきだろう。普段からこの距離間なら、アリスはそれに合わせるしかない。
「なんでもない、気にしないで。用事は終わったから、帰ろうか。それとも、ご飯でも食べに行く?」
ヘンリーとご飯など絶対に嫌だったが、アーサーが彼とこういう付き合いをしているならば仕方がない。投げやりに問いかければ、返ってきた答えは否だった。
「アーサーがご飯に誘ってくるなんて珍しい。いつもは、妹が待ってるからって私を置いてさっさと帰るのに。何かあったか?」
楽しそうにアリスを覗いてきたヘンリーに、顔を歪めた。しまったという感情と、これほど仲のいいヘンリーよりもアリスを優先してくれていたという喜びの感情を抑えるための精一杯の表情だ。
ついでにヘンリーが笑顔になるポイントも分からない。
どうもヘンリーとは反りが合わなさそうだと、アリスは心の中でひとりごちる。
「アリスが待ってるから帰る」
「ご飯はいいのか?」
「忘れて」
ヘンリーに見向きもせず、来た道をずんずんと突き進む。
「そうむくれるなよ」
ヘンリーがアリスの手をぱっと握って引き止める。
なんだと振り返れば、前置きもなく顎を掴まれて、自分より背の高いヘンリーを無理やり見上げさせられる形になる。あろうことか、ヘンリーの顔が近づいてきた。
改めて見ても、端正な顔立ちをしている。特に、この瞳に見つめられると、深い雪の世界に引きずり込まれるかのような錯覚に陥る。目が離せない。
じゃなくて。
「……お」
「お?」
(お兄様ぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!)
叫ぶのはなんとか堪えた。
ここが王城で、アーサーがいつも訓練している白翼塔で、アーサーのためにここにいる。それがなんとかアリスを繋ぎ止めた。
でなければ、目の前の人物がヘンリーだろうがなんだろうが叫んでいたはずだ。
アリスは、ヘンリーの手を思いっきり振り払い、そのまま駆け出した。
(お兄様の、貞操が危ない!!)
すぐ近くに、昨日のように傷つける人間がいて。すぐ近くに、あのように男同士の友情を超えるような行動をする人間がいる。
もともとは犯人探しのために入れ替わったが、また別の問題が浮上してしまった。
(あの状態のお兄様をヘンリーに近付けたら、何されるか分かったもんじゃない!)
傷つけた犯人も、ヘンリーかもしれないのだ。いつも妹のもとへ行ってしまうアーサーに焦れて、無理やり言うことを聞かせようとしたとか。
アリスはますます、アーサーをまだここには戻せないと思うのだった。