31、王前試合
(ど、どどどどうしよう!?)
表情には出さないものの、アリスの心中は大嵐に見舞われていた。
息を呑むような美貌が、アリスの目の前まで迫ってくる。少しでも顔を動かせば、触れ合ってしまいそうな距離。ゆえにアリスは顔を動かすこともできず、吸い込まれるようにハインリヒの瞳を見つめている。
どうしてこうなった?
ハインリヒの意外な幼少期を知った。アーサーとハインリヒの仲も、そこから始まったのだろう。そしてまさか、こてんぱんにしていた生意気な令息らの中に、第一王子であるハインリヒがいたなど誰が思うか。
もう少し小出しに教えてもらいたかった。一日の情報量が、許容範囲を超えている。
目を白黒させるアリスに、ハインリヒはふっと笑った。
「私はあのときからずっと、アリスの虜だよ」
事もなげによく言うものだ。
幼少時代を語るよりも、ずっと恥ずかしいことを口にしている自覚はないのだろうか。
エスティナが口走った「憧れの人」というのも、今の話で合点が行く。アリスなのだ。ゆえに、ハインリヒの行動から言動まで、アリスに向けられたものとして一貫している。
とくんと、胸がひと際大きく打たれる。陥落の合図だった。
アリスは諦めて、目を瞑ろうとしたとき――
――さぁ、次は今回初登場にして、決勝まで勝ち上がってきた期待の新星……剣の天才と謳われる、アーサー・ブロワの登場です!!
司会の声に、アリスは弾かれたように目を開け、目前に迫るハインリヒの胸を押し返した。
「――っ」
怯んで上体を崩したハインリヒをすり抜け、落下防止用の柵に手をかけて身を乗り出す。みなも今か今かと待ち望んでいたのか、空気が割れんばかりの声援が響く。
後ろから、言葉になっていない呻き声が聞こえる。これは後で怒られるな……と思いつつも、闘技場から目を離せない。
左手側から演舞場中央に向かって、背筋を真っ直ぐに伸ばしたアーサーが入場してくる。遠目でもわかるほど、自信と決意に満ちている。
黙って演舞場を見つめるアリスの左手に、そっと手が重ねられた。顔を上げると、ハインリヒが微笑んで隣に立っていた。
吹っ切れたのか、もはや遠慮の文字はなさそうである。
「相手も、相当の手練だ。去年の王前祭で、準優勝した者だったはず。だがアーサーの腕はずば抜けているからな。いい勝負になるだろう」
もしかして、アリスが不安に感じているとでも思ったのだろうか。
アリスを労るような、触れるか触れないかの優しいスキンシップ。ハインリヒにとっては、精一杯のスキンシップなのかもしれない。エスティナに言われた「ヘタレ」「駄目男」という言葉を気にした可能性もある。
そう思うと、なんだか急に、ハインリヒの事が可愛く思えてきてしまった。悪戯心が擽られたといってもいい。
アリスは空いている右手を、ハインリヒの手の上に重ね合わせる。そのまま指を、指と指の間に絡ませて、えいっと握った。
「――っ!?」
ハインリヒの身体が、面白いほどに跳ねる。アリスは不敵に笑って見上げた。
「私が、お兄さまの心配をしてるとお思いですか? お兄さまは、勝ちます」
一体何がスイッチを押したのか。
ハインリヒは表情を消したかと思うと、アリスの頭に手を回して引き寄せた。普段であれば避けることなど余裕なのに、殺気がなかったせいかアリスは簡単にハインリヒのなすがままになってしまう。
アリスのおでこに、柔らかい何かが触れる。ちゅ、とリップ音がした。
「っぁ……」
流石のアリスでも、何が起こったのか瞬時に理解する。キスだ。ハインリヒは、アリスのおでこにキスをしたのだ。
(なんっ、――――――――――!?!?)
叫ばなかったのは、アーサーの晴れ舞台に泥を塗るわけにはいかないという理性が辛うじて働いたからだ。王族席で騒げば、否が応でも注目を集めてしまう。
「油断したな?」
にんまりと、したり顔で笑顔を浮かべるハインリヒを、アリスは睨みあげる。
これまで散々無礼を働いてきたのだ。あと一撃くらい食らわせたところで、アリスの罪は大して変わらないだろう。
■
アーサーは頭上を見上げる。観客席が埋め尽くされている。尋常ではない熱気が、アーサーの元まで届く。
――だが、観客の声が遠い。
身体が軽い。頭がすっきりしている。いつになく、コンディションがいいみたいだ。
対向から、今回の対戦相手が姿を現した。騎士団の服を身にまとった男は、服を着ていてもわかるほど立派な筋肉で盛り上がっている。
筋肉男はアーサーを見て、鼻で笑った。
「はっ、天才だの最強だのと持て囃されてるからどんな男が出てくるかと思ったら、こりゃ随分な優男が出てきたなァ」
「屈強な剛腕男が出てくるとでも思った?」
挑発しているつもりなのだろうか。
もしかしたら、大層な肩書きには反して大したことない相手だと、舐めた可能性もある。
アーサーはその挑発に乗ることなく、にこりと微笑んだ。
「でも、安心していいよ。僕は見た目ほど柔じゃない」
剣の柄に手を置き、表情を削ぎ落とす。
鋭い殺気に変わった気配に、男は怯んだように目を丸くした。しかしそこは歴戦の騎士。その怯みを隠すように、ぐっと片側の口角をあげる。
「決勝まで勝ち抜いてきた男だ、そうでなくちゃなァ!」
「当然だ。――僕は、誰よりも近くで、誰よりも多く、天才の剣を見てきたんだから」
「……あ? お前が天才なんだろ?」
男が怪訝そうな顔をする。
思わず、口角が上がってしまう。だって、そうなるように仕組んだのは、本物の天才自身なのだから。
周囲の人間は、アーサーを剣の天才だという。でもそれは、本物を見たことがないから言えること。
アーサーにとって剣の天才は、今も昔もただひとりしかいない。
(アリス――)
ひとたびアリスが剣を握れば、天才の名はすぐさますげ変わる。アリスの剣を一度見てしまえば、目が離せなくなる。心を奪われてしまう。
ただ、アリスがそれを望まないだけ。
彼女は太陽そのものなのに、自ら雲に隠れ、アーサーを導くためだけの存在に徹してしまった。
それに甘えすぎたのだ。みなはアリスがアーサー離れできていないと言うが、アーサーは逆だと思う。アーサーが、アリス離れできていないのだ。
ずっと妹の一番でいられると思った。アリスはそう振る舞ってくれていた。
でも、アリスはひとりでも歩いていける。自由に羽ばたかせるべきだ。
そのために、アーサーはなんとしてもここで、優勝しなくてはいけない。
互いに様子を窺うように、じりじりと足に力を込める。
試合開始の号令とともに、騎士団の男は先手を打つかのように、矢のような速さで剣を繰り出した。アーサーは身をひるがえし、剣を交わす。
男が悔しそうに歯噛みするのが見えた。
(やっぱり、調子がいい)
アーサーは危なげなく軽快に着地をし、踏み込む勢いで剣を突き出した。刃がぶつかる金属音が響き、受け止められたことを悟る。この程度、想定内だ。
今までのどの試合よりも見応えのあるこの試合は、白熱を極める。
攻撃をしては受け止められ、受け止めれば攻撃に転じる。そんなぶつかり合いの中で、仕掛けたのは騎士団の男だった。
「舐めんじゃねェぞ!」
アーサーの攻撃を受け止めるのではなく、渾身の一撃で跳ね返す。あまりに重い反撃は、アーサーの剣を上空に弾きあげた。
男は勝利を確信したように、高らかに笑った。とどめを刺すべく、剣が振り上げられる。
「ははははっ、おしめぇだなァ! 悪いな、ぼっちゃん!」
「――言っただろう」
剣が振り下ろされると同時に、アーサーは重心を下げ、素早く男の懐に潜り込んだ。そして、その腕を思い切り蹴り上げる。
反動で、男の腕が跳ね返った。ガッと鈍い音が響く。
「がァっ!?」
「僕は誰よりも近くで、誰よりも多く、天才の剣を見てきた。――それこそ、真似できるくらいに、ね」
タイミングを見計らったかのように、先程弾き飛ばされた剣がアーサーの手の中に収まった。
心の中で、アーサーは「ごめんね」と謝る。
「僕は、どうしても勝たなきゃいけないんだ」
愕然とした表情の男に、一閃。アーサーは横薙ぎに剣を払い、その巨躯を吹っ飛ばした。
場内が、水を打ったように静まり返る。男が地に倒れる音が、やけに響く。
「な、なんだ、今の……」
「足? アーサー様が、足技を使った?」
「あんな技、見たことないぞ……!!」
会場のどよめきは漣のように広がり、どっと賞賛の騒ぎに一変する。
アーサーは改めて観客席を見上げる。ようやく、歓声が耳に届く。
王族席の方に目を向けると、アリスの姿が視認できた。表情までは、アーサーのところからはよく見えなかった。
喜んでいる? 怒っている?
(アリス、僕はやったよ。君は――どうする?)
次話で完結となります




