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30、過去の記憶

すみません、体調崩してて遅くなりました

 レチアーナ王国の第一王子であるハインリヒ・レチアーナは天才だ。

 ひとたび授業を行えば、一を聞いて十を理解する。剣を握らせれば、大人顔負けの剣技をを放つ。外交に連れ出せば、短時間で最大の利益を引き出す。

 ゆえに、彼は周囲から畏怖と憧憬の視線を受ける。

 聡いハインリヒは、理解する。

 ――自分は特別な存在なのだ、と。


 周囲の態度が、本人の確信が、ハインリヒの行動を助長させた。

 エスティナは深いため息を吐く。


「本当に生意気な子供だったわ。授業を抜け出すわ、騎士の練習場に顔を出したと思ったらひと暴れしてそのまま逃げたりとかね」


 今のハインリヒからは想像が出来ない幼少時代だ。チラリと様子を窺ってみるも、項垂れたまま石像のように固まり、びくりとも動かない。


「あるとき、青冠搭の中庭に『剣の天才』が現れたという噂が聞こえてきたの」


 アリスは眉を寄せる。突然始まった、ハインリヒの幼少時代暴露話ではなかったのか。

 なんだか雲行きが怪しくなってきた。


「自分が天才だと疑わないハインリヒは、その噂の天才に挑みにいった。もちろん、本物の天才は誰かを見せつけるためにね」

「…………」


「剣の天才」は気まぐれに中庭に来るというので、ハインリヒは城の者に見張らせ、その者が現れたら知らせるように手配した。知らせが入ったら、ハインリヒの舞台が始まる。

 剣を握り、中庭に降り、「剣の天才」に勝負を挑む。

 ひとつめの誤算は、その「天才」は自分と同い年くらいのご令嬢だったこと。はちみつ色の髪をさらりと流し、琥珀色の瞳がまっすぐと射抜いていた。


『そこの者、私と勝負をしろ!』


 割って入ってきた闖入者に、周りにいた令嬢令息は冷めた視線を向けた。しかしすぐに王太子だと気付き、慌てて頭を下げる。

 勝負を挑まれた「天才」は、薄く微笑んだ。

 ふたつめの誤算は、その少女は王太子のことを知らず、一切の手加減がなかったこと。


『――よろしくてよ』


 雰囲気が変わった。

 ピリリとした空気が、ハインリヒの足を竦ませた。そんな感覚は初めてだった。紛れもない、恐れ。

 相手が地面を蹴った――と認識した刹那、目の前に剣が迫っていた。


『――っ!』


 すんでのところで受け止めるが、どこにそんな力があるのか、とても重い一撃に手が震える。

 反撃する暇も与えず、「天才」は素早く体勢を変えては弱いところを的確に突いてきた。常であれば、既にハインリヒが勝っている頃だった。なのに、完全に後手にまわり、防戦一方のまま。いや、攻撃を受けているだけなのに、息が上がる。

 

(おかしい、おかしい、おかしい! 相手は子供、しかも女だぞ!?)


 ハインリヒは息が上がり、汗も滲み出ている。なのに「天才」は呼吸が乱れるどころか汗ひとつかかず、涼しい顔で剣を自在に操っている。まるで、身体の一部であるかのように、自由で自然な動きだった。

 ふと、攻撃の手が弱まった。チャンスだと思った。これを逃せば、ハインリヒは一太刀も浴びせることなく負けてしまう。

 焦りと勢いに身を任せ、心臓目掛けて剣を突き出した。

 ――そのときの「天才」の表情、言葉を、忘れることはないだろう。

 細められた目は、侮蔑の感情を雄弁に語っていた。


『あなたの剣、とってもつまらないわ』

『なん――ぐぅっ!?』


 一瞬だった。

 踊るようにハインリヒの剣を避け、そのまま腕を掴む。足払いされ、青空が見えた――と思った時には、背中に強い衝撃を感じる。

 固唾を飲んで見守っていた令嬢令息が、気まずそうに視線を逸らした。「天才」は、なんの感慨も見せない表情でハインリヒを見下ろしたあと、無言で踵を返す。

 初めて味わった敗北だった。

 起き上がることもできずに呆然と空を眺めていると、「天才」とよく似た顔の、はちみつ色の髪をした少年が駆け寄ってくる。血の気が引いた顔色で、がばっと勢いよく頭を下げた。


『僕の妹が、大変な失礼をしてしまい申し訳ございません! あの子に悪気はないのです、どうかご容赦を!』

『妹……』


 ハインリヒはむくりと起き上がる。


『お前の妹の名前は、なんと言う』

『――――アリス、と申します』

『アリス……』

 

 何も言わずに去っていった「天才」――アリスの姿を探す。すでに別の青年と剣を交えており、もちろん青年の方が押されていた。

 それを目にとめた瞬間――

 ハインリヒは、金縛りに遭ったかのように動けなくなった。雷に打たれたような衝撃が、身体中を走る。

 視線も、心も、思考も、細胞の全てが、アリスに惹き付けられた。顔を引っぱたかれて、髪を掴みあげられて、強制的に理解させられた心地だ。理解しざるを得なかった。

 ――紛れもない、「本物」はいるのだと。


 一生を騎士の道に捧げた者でも、習得できない力。彼女には、手に取るように分かるのだ。

 取るべき距離、詰めるべき距離、相手の癖も、重心も、どこを攻めたら効果的なのかも、自分がどこに動きどこに打ち込むのが最適なのかも、相手に自分がどう映っているのかも。すべて、一瞬で、アリスという「天才」は見抜いてしまうのだ。

 かなうはずがない。

 環境に恵まれ、ちょっと体格に恵まれただけの凡夫が、一体なにを勘違いしていたのか。


 ハインリヒと同じように、アリスに魅入る少年に声をかける。アリスを妹と言ったのだから、彼は兄だ。剣を腰に差していることから、騎士の家系かなにかだろう。

 それなのに、あんな化け物がずっと近くにいるのだ。


()()がそばにいて、辛くはないのか」


 アリスによく似た青年は夢から覚めたように、琥珀色の瞳をぱちりと瞬いた。そして問われた言葉の意味を噛み砕く為の時間をかけ、ゆっくりと首を傾げた。


「誇らしいです。彼女の振るう剣は、伸びやかで強かで美しい。誰よりも間近で見られる幸福を、どうして辛いと感じるでしょう」

「そうか……」


 理解できるような、できないような。

 少年と話しながらも、ハインリヒの視線はアリスに釘付けだった。

 勝敗が決まったらしく、青年は肩で息をしながら、悔しそうに地面に膝をついていた。やはり、アリスは呼吸の乱れひとつない。

 ふと、アリスがこちらを見た。そして、まるで太陽の日差しのように眩しいほどの笑顔を浮かべたのだ。


 ハインリヒの心臓が高鳴る。

 だが、アリスがその笑顔を向けたのはハインリヒではない。傍らに立つ少年に向けて。


「お兄さま――!」


 王太子であるハインリヒなど、眼中にないのだ。アリスにとって今のハインリヒは、他の令息と変わらぬ愚かな貴族に過ぎない。認識する価値も、覚える価値もない。


 そのとき、ハインリヒの中に芽生えた感情。

 ――アリスが欲しい。

 あの笑顔が、あの心が、あの声が、あの瞳が。全てが自分だけに向かったなら、なんと幸せなことか。

 しかし今のハインリヒの剣では、彼女を手に入れることは疎か、振り向かせることすら、認識されることすらできない。

 肩書きなど、「天才」にとっては無用の長物なのだ。

 ハインリヒは、ぐっと唇を噛み締めた。


「で、その女の子にこてんぱんにやられて、すごすごと戻ってきたのよ。それからは人が変わったように、勉強も剣術も政治にも真面目に取り組むようになった。あの鼻持ちならなかった弟に、喝をいれてくれた女の子には感謝したくらいよ……って、あら?」


 話し終えたエスティナは、アリスの方を振り向く。しかし、エスティナの目に映ったのはアリスの後頭部のみ。

 ハインリヒと同じように両手で顔を覆い、石像のように動かなくなっていた。

 石像が、ふたつ。

 エスティナはくすりと笑う。


「わたくしが話すべきことはすべて伝えたわ。あとはおふたりで話しなさいな」


 弾んだ声で言いながら、エスティナは立ち上がった。

 遠ざかっていく足音に、ハインリヒは心の中で深いため息を吐く。

 自らすすんで話したい内容ではなかった。だから代わりに話してくれたエスティナには、感謝しなければならない。

 ただ、アリスの反応が恐ろしいのは事実だ。呆れられたら、幻滅されたら――

 長い沈黙のあと、口火を切ったのはアリスだった。


「…………まさか」


 びくりと、ハインリヒの肩が揺れる。

 

「まさか、そんなところでも、お兄さまにご苦労とご心労をおかけしていたなんて……!」

「……感想はそこなのか!?」

「そんな頃から殿下に無礼を働き、お兄さまに後始末をさせていたなんて……! お恥ずかしい限りです!」 


 斜め上の回答に、ハインリヒは思わず顔を跳ねあげる。

 反応が怖いとは言ったが、ここまで華麗にスルーされるのも微妙な気持ちだ。アリスらしいといえば、アリスらしいのかもしれない。

 ふつふつと何言か呟いた後、アリスははっと顔をあげた。

 

「でも、その人、本当に私ですか……? 殿下ほどの剣術の持ち主、一度やり合えば忘れないような気もするのですが……」


 言い訳を探す子供のように苦笑いを浮かべながら、アリスはハインリヒを上目遣いに見る。

 ぞくりと、ハインリヒの背中を何かが駆け抜けた。それは紛れもない、歓喜だった。

 ああ、やっとだ。

 アリスはハインリヒを()()した。有象無象の男のひとりではなく、ハインリヒとして認知したということ。

 自然と、口角があがる。

 

「…………光栄だな」

「え?」


 ハインリヒが、椅子から身を乗り出す。

 驚きに満ちたアリスの顔が、目の前にある。少しでも顔を動かせば、唇が触れ合ってしまいそうなほどの距離。はたから見れば、キスしているように見えてしまうだろう。


「でん、か……?」


 琥珀色の瞳が震え、水の膜が張り、光を取り込んで凄艶に輝く。逸らされることなく、ハインリヒだけを映している。

 一目惚れだった。鳥のように自由に羽ばたき――決して、撃ち落とされも捕まりもしない。自由に、気まぐれに、見るものを魅了させる。


「私はあのときからずっと、アリスの虜だよ」


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