29、憧れの人って、どなたですか?
演舞場に辿り着くと、中では既に試合が始まっているのか、歓声に包まれていた。とはいえ、決勝戦はまだ先なので、アリスは焦ることはなかった。
確信している。アーサーはもう大丈夫なのだ。
王族席に繋がる門の前に行くと、守衛は変な顔をしたが、名前を伝えるとすんなりと扉が開かれた。ハインリヒが話を通していたらしい。
門を潜り、その先にある階段をゆっくり上る。演舞場内部に近づくにつれ、コツコツと響くヒールの音は、大きくなっていく歓声の音にかき消される。
王族席の入口に立ったとき、歓声の震えとは別の、空気の僅かなヒリつきを肌に感じた。
アリスがふっと重心を下げると同時に、ヒュンッと頭上を剣先が滑った。
「なっ!」
まさか避けられるとは思っていなかったのだろう。相手は驚いたように声を上げた。
相手が可能な限り気配を消していたこと、動きも最小限にして悟られないようにしていたことから、不意打ちを狙うつもりだったようだ。
だが、アリスの方が一枚上手だった。
剣が滑った勢いで、相手が僅かに体勢を崩した。アリスはすかさず反撃しようと腰に手を伸ばすが、今は剣を持っていないことを思い出す。
足払いをしようにも蹴り上げようにも、Aラインのドレスは広がりにくく、動きが制限されている。
(なんって動きづらい……!)
アリスは心の中で舌打ちをする。
こんなとき、ハインリヒが用意してくれたあのドレスだったなら、と考えてしまう。あれは、アリスの身軽さを十分に発揮させられるつくりだった。
「ここから先は王族席だ。無関係者は立ち去ってもらう。それとも――なにか目的が?」
「まさか! 呼んだのはそちらでしょう!」
アリスがもたついている間に、相手は体勢を整えたようだ。再度剣を振りかぶったのが見えた。
いっそドレスを破いてしまおうか。そう覚悟を決めたときだった。
金属同士がぶつかる音が、目の前で響いた。僅かに火花が散る。
驚いて顔を上げると、アリスを庇うように立っていたのはハインリヒだった。男の刃を受け止めたらしい。
アリスは思わず声をあげる。
「……殿下?」
「彼女は私が呼んだ。剣をおさめなさい」
ハインリヒに諌められてなお、男は剣を引くことなくアリスを睨み続ける。ギリギリ……と、刃同士が擦れる音がする。
王太子相手にこの態度、男は何者なのだろう。
アリスは改めて男の顔を見る。
夕日が沈む前を連想させる真っ赤な髪を、うしろでひとつに結んでいる。それに、三白眼の赤い瞳。かなりの訓練を積んでいるのか、がっしりとした体型。
綺麗な身なりをしているものの、王族というには、些か動きに粗雑さが見える。
――守衛か?
「おやめなさい、ルーカス」
彼らの後ろから、凛とした声が突き抜けた。ひとりの女性が姿を現す。
青藍の髪を一纏めにし、髪色と同じドレスを身にまとっている。宝石が縫い付けられているのか、夜空に星が散りばめられたように輝く。
思わず跪きたくなるような気品だった。
「……王女様」
そうか、彼女が王女なのか。エスティナ・レチアーナ。近衛騎士見習いの間で一瞬話題にあがった、訓練を見て側近騎士を決めたという方だ。
ならば、彼女の側近騎士というのは。
ルーカスと呼ばれた男は、エスティナに諌められると先程までの威勢はどこへやら。しゅんと花が枯れるようにみるみると萎み、剣を引いて鞘に収める。
ルーカスが剣を収めたのを確認すると、ハインリヒも剣を下ろす。エスティナに目を向け、呆れたようにため息を吐いた。
「まったく、あなたの騎士は、血気盛んでいけない」
「あら、ルーカスはたしかに少し喧嘩っ早いところはあるけれど、優秀な騎士よ? ……でもそうね、アーサーみたいに紳士的な騎士もいいわね。この王前試合で声をかけてみようかしら」
「――王女様!」
「姉さん!」
ルーカスとハインリヒが同時に吠えた。
なるほどアーサーは、王子だけでなく王女の覚えもめでたいらしい。流石はアリスの自慢の兄だ。
「それよりも」
エスティナは、どこから出したのか扇を手に持って、ハインリヒとルーカスの額を小突いた。
「いつまで女性に膝をつかせているつもり?」
「え?」
アリスははたと顔を上げる。
そういえば、ルーカスの剣を避けたあとに体勢が立て直せず、地に片膝をついたままだった。王族を前にしているのだから正解な気もするが、エスティナは男ふたりを押しのけて、アリスの前に跪いた。
ハインリヒによく似た美しい顔が目の前にきて、アリスはギョッとする。
エスティナは躊躇うことなく、アリスの手を取った。やわらかい手だった。なんならいいにおいもした。
「わたくしの騎士がごめんなさいね。怪我はない? せっかく綺麗なドレスを着ているのに、汚れてしまっていないかしら」
「けっ、怪我は、ありません。ドレスはそんな、王女様の気にされることでは」
最初の一撃は避けたし、その後はハインリヒが受け止めてくれた。かすり傷ひとつついていない。それにドレスなど、つい先程まで、破いてしまおうと思っていたくらいだ。白い生地なので多少は汚れたかもしれないが、払えばなんとかなるだろう。
アリスの返答に安心したのか、エスティナはにこりと笑って立ち上がった。手が繋がれたままだったので、アリスも釣られて立ち上がる。
「そこの男ふたり。ぼーっとしてないで、彼女を中にお通ししなさい」
ルーカスははっとしたように頭を下げ、入口の柱に控えた。あそこで侵入者がいないか見張っているのだろう。アリスは見事に、侵入者と認識されたわけだ。
「アリス、すまなかった。ルーカスに上手く伝わっていなかったようだ。私の伝達ミスだ」
「いえそんな……大したことでは」
「わたくしも謝るわ。危険な目に遭わせてしまってごめんなさい。ただ、侵入者が多いのも事実で……ほら、この男、顔はいいでしょう?」
「姉さん、余計なことは言わなくていい」
顔がいいからなんだというのだ。まさかご令嬢の侵入があとを絶たないとでもいうのか。
あれよあれよと話しながら、王女と王子に手を引かれ、アリスは中に案内される。とんでもない状況だが、ふたりはだいぶ強引で、恐れ戦く余裕もない。
通された王族席は他の観客席とは違い、高い位置で突き出していた。場内がよく見渡せる。今も、名も知らない騎士同士が戦っていた。あまり心は惹かれない。
「でも、ルーカスの剣を避けられるなんてすごいわ! 彼はね、不意打ちが得意なの。あなたはきっと、とても強いのね。ハインリヒが憧れるのも納得――」
ハインリヒが慌てたように、エスティナの口を塞ぐ。よく見ると耳は赤く染まり、だらだらと冷や汗を流している。
エスティナはぱちりと目をしばたたいた。視線がハインリヒを見、それからアリスに流れて、自身の口を抑えている手に戻った。扇でその手をびしりと叩く。
「やだ、まだ言っていないの? そういうの、なんと言うか知っていて? ヘタレって言うのよ」
「…………うるさいぞ。頼むから、余計なことは言わず、黙っていてくれないか……」
「余計なことではないでしょう。何のためにここに呼んだのよ。全部話してるものだと思うでしょう」
アリスは首を傾げる。
(ハインリヒ殿下が、憧れる人?)
それはどう考えてもアリスのことではない。ハインリヒがアリスに憧れる要素など、ひとつもない。しかし、アリスと間違えるのだ、どうやらその憧れの相手は女性らしい。
もやっとした感情が、アリスの胸の中を巣食う。
(妃になれだの、思わせぶりなことばっかり言っておいて――?)
アリスの心の変化を正確に感じ取ったエスティナは、半眼でハインリヒを見やった。
「ほうら、ご覧なさい。女の子を不安にさせるなんて、駄目男のすることよ」
「ぐっ……」
先程から随分な言われようである。普段のエスティナとハインリヒの力関係がみてとれるようだ。
「こんなヘタレ駄目男の代わりに、わたくしがお話ししてあげるわね。さあ、あちらに座りましょう」
エスティナに促され、王族席の椅子に腰をかける。ふかふかしていて、腰が沈む。もちろん、演舞場もよく見渡せる。
アリスを挟むかたちで、エスティナとハインリヒが隣に座った。エスティナは清々しいほど美しい笑顔で、ハインリヒは渋々といった様子だった。姉には逆らえないらしい。
飲み物や軽食も用意されたが、とても口にできる状況ではなかった。
「どこから話しましょうか。――あぁ、そうね。ハインリヒは今はこんな感じだけれど、子供の頃はね、高慢で、すっごく腹立たしい子だったの。なんていうのかしら、傲岸不遜?」
「はぁ…………。………………?」
いきなり、理解できない流れになってしまった。
アリスは反応に困ってハインリヒに助けを求めるが、両手で頭を抱えて沈んでいたため、エスティナの話の続きを待つしかなかった。
残り2~3話で完結です。




