25、そんな噂はどうでもいいのです!
ブロワ侯爵家のご令嬢が、社交界デビューしたその日に、違法薬物を所持していた貴族を捕らえたらしい。
この噂は瞬く間に社交界に広まった。
「ねえねえ、聞いた? アリス様が、違反した貴族を捕まえたって」
「あら? どこぞの殿方と抜け出したのではなかった?」
「それは、犯人を騙すためにわざと流したデマだそうだよ」
「確かに、夜会の終盤あたりに、ハインリヒ殿下とアーサー様と一緒にアリス様が戻って来られたのを見たわ。もし殿方と抜け出してたなら、そうはならないものね」
様々な噂、憶測が流れる中で、誰もが確信していることがひとつあった。
――ブロワ侯爵兄妹は、この王前試合の期間で、確かな功績をあげている!
兄のアーサーは、王前祭初日に盛大なパフォーマンスで暴漢を捕らえた。あの捕縛劇以降、犯罪は目に見えて減った。
妹のアリスは、社交界デビュー当日に違反した貴族を捕らえた。
これで、王前試合でアーサーが優勝したらどうなる。
まさに、神に愛された双子に違いない!
■
「まあ、そんな噂に?」
ブロワ侯爵邸のアーサーの部屋で、アリスとアーサーはソファに寛いでいた。正確には、寛いでいたのはアリスだけで、アーサーは眉根を寄せていた。
アリスはソファにもたれかかり、片手を頬に充てた。驚いたように目を見開くが、もう片方の手は、机に置かれた紅茶のカップをティースプーンでぐるぐる混ぜている。
正面にはアーサーが座っていて、アリスの他人事のようなのんびりとした反応に、小さくため息を吐いた。
「アリス、お行儀が悪いよ」
「あら、失礼しました」
アリスはティースプーンをソーサーに置いた。優雅にカップを持ち上げて、コクリとひと口飲む。
ローマンと対峙した日、ダンスホールではローマンが流した「アリスはデビュタントで、いきなり見知らぬ男と抜け出した」「あまりに奔放だ」という噂が囁かれていた。
もちろん、まったくのデタラメである。しかし、貴族は噂好きだ。楽しければ、真相がどうであろうと気にしない。ローマンはそういった貴族の特性を上手く使ったのだ。
「全く……あのままじゃ、アリスは社交界で悪く言われてたんだからね」
「私は別に、それでも構わなかったのですけれど。そうすれば、ずっと屋敷に居る理由ができますし」
嫁がない理由にもなるし、アーサーの側にいる正当な理由にもなる。アリスとしては、どうでもよかった。むしろ、アーサーの側にいられる分、野卑た噂が広まってくれた方がよかったかもしれない。
ローマンに感謝しなくてはいけない。
そんなことより、アリスの中ではハインリヒの方が問題だった。まさか、ヘンリーとハインリヒが同一人物だったなんて、考えもしなかった。
結局あの夜は、アリスに怪我がないことを確認して、後処理はこちらでやるからと、とっとと帰されてしまった。変装していたことを追及する余裕も、アリスがアーサーに成り代わっていたことを弁明する暇もなかった。
いや、もしかしたらそれでよかったのかもしれない。ヘンリーのことを尋ねれば、自ずと男装して王城に潜り込んでいたことも言及されてしまう。ハインリヒはとっくに気付いていただろうが、あの場ではアリスの気持ちが整っていなかった。
だって、どう弁明する?
ハインリヒ殿下を謀っていただけでなく、随分砕けた調子で接してしまっていたし、それよりもなによりも大きな問題がひとつ。王前祭初日に、アリスはあろうことかハインリヒを踏みつけたのだ。
あまりに不敬である。
さすがのアリスでも、これについては大変不味いことになったと心中穏やかでない。
打首か、よくて牢獄行き。ここにきて詰むとは思わなかった。せめて、アーサーの足手纏いにならないことを願いたい。無理かもしれない。
自分についての低俗な噂などすでに彼方に押しやって、アリスはただただ自己嫌悪に陥っていた。
しかし、アーサーの中ではまだ納得していないらしく、眉を釣り上げた。
「アリスはよくても、僕が良くない!」
「何がですか?」
アーサーの声に、はたと顔を上げる。どうやらまだ、アリスの奔放だという噂について話しているらしかった。
「いい? これだけは覚えておいて。僕にとって、アリスは何より大切な妹なんだ。どうして、周囲にとやかく言われて黙っていられる?」
ドクン、アリスの心臓が大きく跳ねた。
いま、アリスはとんでもない告白を聞いてしまったのではないか?
「アリスは……凄いよ。王宮に乗り込んで、丸く収めてしまった。僕が捕えられなかったローマンをアリスは捕まえた。なんでもできる、それは認める。だけど、心配くらいさせて」
「まあ! お兄さま、それは買いかぶりすぎですわ!」
アリスは驚いたように眉を上げ、両手をテーブルに乗せて立ち上がる。
「私は暴漢を捕らえることはできます。でも、後始末はできません。お兄さまを傷つける輩を排除することはできます。でも、それによって私がどう言われるかなど、考えもしません。お兄さまにできないことは私が、私にできないことはお兄さまが。当然でしょう、双子ですもの」
アリスはとにかく「動」の人間だ。思い立ったら、後先考えずに身体が勝手に動いてしまう。
あのときだってそうだった。剣を捨てれば、アーサーのためになると思ったから、躊躇いなく捨てた。その瞬間は間違いなく、二度と剣を握らないという覚悟もしていた。
でもきっと、アリスは剣がなければ生きられない。アーサーはそれをわかった上で、アリスが剣を捨てると公言したあとも、こっそりと手合わせに誘ったりしてくれた。アリスと剣を、繋いでくれた。
「お兄さまがいるから、アリスは今のアリスでいられるんです」
それは、紛れもない事実だ。
アーサーが剣を握らせてくれなければ、アリスは淑女教育で箱詰めになり、とっくにどこかの貴族に嫁いでいただろう。
考えただけでも恐ろしい。
アーサーと手合わせすることも、王城に乗り込むことも、ヘンリーに出会うことも、王前祭の見回りをすることも、デビュタントで剣を振り回すことさえ、経験することはなかっただろう。
「ああ、そうか。アリスは、そんなふうに僕のことを想ってくれてたんだね」
アリスの言葉に、アーサーは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「足りないところを補い合うのが、双子――か。アリスができなくて、僕にできることがあったんだね」
「当然でしょう? むしろ、お兄さまは完璧ですわ。私なんて、淑女教育もまともにできない、令嬢失格ですもの」
「いや、だからそれは――まぁいいや。そのときになったらね」
「?」
アリスは理解ができず、首を傾げる。
しかしアーサーの中では幾分か溜飲が下がったのか、先程よりも柔らかい表情でアリスを見ていた。
言葉の意味は分からなかったが、アーサーがいいと言うのならいいのだろう。納得して、再度ソファに腰を下ろした。
「とはいえ、無茶をされると心配するんだからね。あまり勝手な行動はしないように」
「はい、お兄さま。反省しております。以後気をつけます」
疑いの目を向けられるが、アリスは神妙に頷いた。気持ちは分からなくはない。正直アリスですら、自分自身の言葉を疑っている。
多少のことは我慢できても、アーサーのこととなればやはりアリスは同じような行動をするだろう。
でもそれでいい。それが、アリスだ。
アーサーは諦めたように、ソファにもたれかかった。
「まあ、いいか。アリスのしでかしたことの後始末は、僕がやればいいってことだからね」
まったくもってその通りなのだが、アーサーに尻拭いをさせるようで、アリスはなんとなく居心地が悪く感じて身を捩った。
アーサーは、ふと表情を消して、アリスを見た。
「でもね、いつまでも僕たちは一緒にいられるわけじゃない」
ぴくりと、アリスの指が跳ねる。
「僕は王前試合で勝って、ハインリヒ殿下の側近騎士になるつもりだから。そうなれば、アリスとは簡単に会えなくなる」
「……………………」
アリスは何かを訴えたいかのように、ぱくぱくと口を動かす。だが結局、言葉が出てこない。
そのまま、にっこりと口角を上げる。
「はい、お兄さまが王前試合で優勝すること、殿下の側近騎士になることが、私の願いでもありますから。そのために、私は変装してまで王宮に乗り込んだのです」
アリスは祈るように両手を組んで、頭を下げた。
「アーサー・ブロワのご活躍を、心よりお祈り申しあげます」
「…………ありがとう、アリス」
一瞬の沈黙が、二人の間に流れる。
先に動いたのはアーサーだった。極力明るい声で、アリスに声をかけた。
「そうだ、アリス。久しぶりに手合わせでもしようか?」
アリスはぱっと顔をあげ、アーサーを見上げた。その表情に浮かぶのは、喜びなのか悲しみなのか、読み取れない。
返すのは、いつもと同じ返答。
「はい、喜んで」




