19、ついに社交界デビューです!
ふわふわ、キラキラ、ひらひらり。
胸に広がる緊張を和らげるように、美しいドレスを纏って舞い踊る。
驚くほどに動きやすい。アリスの複雑な足のステップを邪魔しない軽やかさと、どんなに動こうと損なわれない美しさ。
跳ねれば、鳥が羽ばたいていくように。回れば、花が開くように。
動きをつけるほどに、ドレスは美しく広がる。ネックレスやピアスは、僅かな光を取り込んでキラキラと瞬く。
部屋の小さな明かりでも、これ程輝くのだ。王城のダンスホールの大きなシャンデリアの光を浴びたら、どれほど美しいだろう。
「でもきっと、このドレスの本来の美しさが、日の目を見ることはないのでしょうね」
それが少し、残念だった。
とはいえ、見せたい相手がいる訳でもない。アーサーはこの後迎えに来てくれるだろうから、その際に見てもらえばいい。ヘンリーはそもそも夜会に来ないと言っていた。
そこではたと、アリスは思考と共に動きを止めた。アリスが静止すると、一拍遅れてドレスのスカートが空気を含みながらさらりと落ちる。
(え? ちょっと待って)
なぜここでヘンリーが出てくるのか。
彼とアリスの間に、面識の事実はない。たとえヘンリーが夜会に参加するとしても、向こうはアリスのことなど分かりもしないだろう。ダンスなどもってのほかだ。
それどころか、あれだけの好青年である。既に相手がいるかもしれないし、それでなくとも他の令嬢が目をつけて離さないだろう。
胸のうちに広がるこのもやもやを、なんと表現するべきか。気持ち悪くて掻きむしりたい衝動に駆られていると、部屋のドアが控えめに叩かれた。
「アリスー? どう、準備できた?」
「はい、お兄様!」
元気に返事をすると、ドアがゆっくりと開かれる。
そこから姿を現したアーサーの正装に、アリスは目を奪われる。
アリスのドレスに合わせたのか、光沢のある黒い生地のタキシード。さりげなく、アリスのドレスと同じ偏光ラメが施された白いチーフを挿している。
固まっているアリスを目に止め、アーサーは目を見開いた。そして瞬時に、顔を綻ばせた。とても、幸せそうに。
「あぁ、アリス。とっても綺麗だよ」
甘やかなその言葉に、アリスの身体はまるで甘い毒に犯されたかのような酩酊感が襲う。思考の何もかもを奪い取られ、アリスは呆然と、その花のような笑顔を見つめた。
(――とても、しあわせだわ)
そうだ。幸せなのだ。
愛しい兄がいて、愛しい兄が笑ってくれて。それだけで、アリスの何もかもを犠牲にして構わない。そう誓った。
だからアリスはやらねばならない。例えアーサーが望んでいなくても、アーサーのために。
そのための双子なのだから。
「お兄様、私と一曲踊ってくださいませんか?」
「それ、男の台詞だからね」
アーサーは、仕方ないなという顔で笑って、アリスの手を取った。どちらともなく、ステップを踏み始める。
無音だけれど、最初で最後の一番幸せな晴れ舞台だ。
■
満月の夜。あたたかな月光が降り注ぐ、夜会におあつらえ向きの夜だった。
豪奢に飾り付けられたいくつもの馬車が、ガラガラと音を立てながら王城へと急ぐ。コテコテの箱の中には、様々な思いを巡らせた貴族が入っている。
身分の高い貴族と繋がりを持とうとする貴族、素敵な出会いを夢見る令息令嬢、裕福さを見せつけたいがために、痛い財布を叩いて着飾る者、他人を陥れようとする者、他人をはめようと画策する者。
夜会と聞けば美しく楽しい想像をしがちだが、その水面下ではたくさんの思惑が渦巻いている。
「デビュタントなんて儀式、いったい誰が決めたのかしら」
例に漏れず、ブロワ家の馬車も王城へむけて走る。箱の中で、アリスは大袈裟にため息を吐いてみせた。
これからの事が、とても憂鬱だった。
アーサーとの入れ替わりの代償として、アリスは今夜夜会デビューを果たすことになったのは仕方ない。
でも、嫌なものは嫌なのだ。
「それが連綿と続いてきた慣例なのだから、仕方ないよ。大丈夫、すぐ終わるよ」
「それはそうですけど……」
女王陛下だって、毎回毎回同じような格好をした女性に同じ言葉をかけるのは大変だろう。女王陛下を引き合いに出すのはのはずるい気がして、アリスは口を噤んだ。
デビュタントとして夜会に立つことは、「私は今日から大人の仲間入りです。どうぞ、殿方のパートナーとしてお考え下さい」ということだ。
家のために、女性が他家に嫁ぐのは当たり前のことだ。デビュタントはその一歩にすぎない。
でもアリスにとって、それは兄と離れる日までのカウントダウンでもある。他家に嫁いでしまえば、アーサーとそう簡単に会えることはなくなる。
アーサーが、アリスの全てだ。アーサーと離れるということは、まるで半身を引き裂かれたような苦痛。自分が何者なのか分からなくなる不安。
その事実が、アリスの気持ちをより鬱屈とさせるのだろう。
中にいても分かるほどに鳴り響いていた馬車の車輪の音が、次第にゆっくりになって、止まる。王城に着いたのだ。フットマンが、扉を慇懃に開いた。
途端、あたりの喧騒がわっと吹き込んでくる。きらびやかな衣装を身にまとった貴族らが、楽しそうに笑いながら王城に吸い込まれていく。
アーサーが先に降り、アリスに仰々しく手を差し伸べる。月光を背景にして微笑む姿は、
「お手を。マイレディ」
まるで王子様だ。そんな風に言われたら、アリスはその手を取るしかない。考えるより先に伸ばした手を、アーサーはしっかりと掴んだ。
手を引かれ、人の波から少し離れて、ゆったりとホールの前まで歩みを進める。ホールの入口には、騎士が立っていて誰何をしていた。
招待されているか確認をし、その身分と名を紹介しながら入場する。人の目が一身に集まる瞬間でもある。目立ちたがり屋の貴族らは、並んでから入場するギリギリまで、服装やら髪型やらを闇雲に撫で付けていた。
アリスとアーサーは、軽く衣装をはたく程度で済ませた。
「お次の方、大変お待たせしました。招待状を……」
入口までたどり着くと、騎士が恭しくお辞儀をして迎えた。だが、彼が顔を上げてアリスを視界に入れると、目を見張って言葉を止めた。ぽかんと口を開いている。
騎士らしからぬ対応に、アリスは不安になる。なにか、騎士を驚かせるような格好でもしてしまっているのだろうか。まさか、葉っぱが髪についている? それとも化粧が落ちてしまった? いきなりの失態など、笑えなさすぎる。
アリスがパタパタと髪に触れたり顔に触れたりしていると、アーサーがわざとらしく咳払いをする。
「招待状はこちらに」
アーサーが招待状を騎士に差し出すと、騎士ははっとしたように目を瞬いた。
「しっ、失礼しました。はい、招待状は確かに確認しました。ブロワ侯爵家の方々ですね」
それからは流れるように手続きが進んだが、騎士の瞳はゆらゆらと揺らぎ、アリスに向けては逸らすという挙動不審さだった。
アーサーは分かりやすく、ため息を吐いた。
「お兄様、私……」
「まったく、不躾な奴だったな。アリス、嫌な思いをさせてごめんね。あとで言いつけておくから」
「え?」
「アリスがあまりにも綺麗だから、見惚れてしまったんだよ」
アーサーはアリスを慰めるように、優しく頭を撫でる。それだけで、アリスはもうどうでもよくなってしまうのだ。
「ブロワ侯爵家の、アーサー様とアリス様のご入場です!」
掛け声とともに、アーサーに手を引かれて会場へ足を踏み入れると、ざわめいていた会場がしんと静まる。
琥珀の瞳を隠すように、長いまつ毛が震える。白皙の肌に映えるような桜色の唇は、緊張からかきゅっと引き結ばれていた。儚げな少女が一歩進む度、彼女の纏うドレスはふわりふわりと揺れ、シャンデリアの光を浴びて輝く。非の打ち所がない、とはこのこと。
――まるで、女神の来訪を告げるようだ。
人々は、時が止まったかのように、ホールを歩くアリスに釘付けになる。
そんな彼らの心情を知る由もないアリスは、顔色悪く口を開いた。
「お、お兄様、私、ちゃんと歩けてるかしら。皆が私を見ている気がするの。やっぱり落第点のアリスだって、心の中で笑っているのかしら!?」
「大丈夫、完璧だよ。皆、アリスに見惚れてるんだ」
「まさか、そんなはずありません。結局、今日まで合格が貰えませんでしたもの……」
「うーん、まぁそのうち分かるんじゃない?」
意味がわからない。
今はそんな謎かけで遊んでいる余裕はないのだ。
このままそそくさとホールの端へ避難したかったが、残念ながらアリスはデビュタントだ。ホールの中央に立って、他のデビュタントとともに女王陛下に挨拶をする必要がある。
相変わらず周囲の視線が突き刺さったまま、国王陛下と女王陛下の入場を待つ。
こんな苦痛な時間が、いくばくか続いた頃。しんとしたホールを割くようなラッパの音が、国王陛下と女王陛下の入場を告げた。
前方につくられた重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。ホールにいる貴族全員が、拝礼の姿勢を取った。
両陛下が玉座につくと、楽器の音が止む。
アリスは、冷や汗がこめかみを伝い落ちるのを感じた。ついにきてしまった。
ここで少しでも粗相をすれば、アーサーの面目は丸潰れだ。逆に、ここさえ乗り切れば、あとはどうとでもなるといってもいい。
やるしかない。勝負は一瞬だ。
アリスはこの後の流れを反芻する。
一人ずつデビュタントの名前が呼ばれ、名前を呼ばれた者はエスコートと共に女王陛下の少し前まで歩く。そこでエスコートの手を離れ、デビュタントは女王陛下の元まで行き、淑女の礼をする。
あとは女王陛下が「あなたを淑女の一員として認めます」と形式的な言葉をデビュタントに贈り、儀式は終了する。
(大丈夫。ヘマをするような隙はない)
アリスはアーサーの腕に縋り、きゅっと力を込める。アーサーはそれに応え、安心させるようにアリスの手の甲を撫でた。
それだけで、アリスの心は浮き立つ。アーサーの鼓舞を受け、すっと顔を上げる。
次々にデビュタントの名前が呼ばれていき、アリスの番が回ってきた。
「ブロワ侯爵家、アリス嬢」
「おいで、アリス」
「はい」
アーサーのエスコートを受け、アリスは前へ出る。
アーサーの手が離れる瞬間は不安に駆られたが、顔に出すことはせず、アリスは女王陛下の前に深くお辞儀をした。
あとは女王陛下から形式的な言葉を賜って、この儀式は終わりだ。晴れて社交界デビュー。アーサーの顔に泥を塗らずに済むはずだった。
だが、アリスに降ってきたのは形式的な言葉ではなかった。
「あなたが、アリス・ブロワ侯爵令嬢ですね?」
とはいえ、女王陛下は定型文以外を口に出してはいけないという決まりもない。
自然と表情が強ばる。動揺が気付かれないよう、アリスは静かに俯いて返答をした。
「はい、女王陛下」
「そうですか」
女王陛下は、品定めするようにアリスを上から下までしらじらと眺める。
何か気に食わない事でもあるのだろうか。それとも礼儀作法を間違えただろうか。アリスは頭を垂れたまま、ダラダラと冷や汗をかく。
永遠とも感じられる時間が過ぎた後、女王陛下は再度口を開いた。本来なら、一言めに賜るはずの言葉である。
「アリス・ブロワ侯爵令嬢。あなたを淑女の一員として認めます」
「ありがとうございます」
晴れて、アリスは社交界デビューを果たした。
なによりアリスの思考は、「アーサーの顔に泥を塗らずに済んだ!」程度でしかなかったが。