18、幕間
気付いたら数年放置してしまっていました……すみません
ガラガラと、馬車が屋敷から離れていく音を聞いて、アリスは踵を返した。
ふぅぅと、細い息を吐いて、軽く天井を仰いだ。アーサーを見送る時に浮かべていた笑顔も引っ込んでいる。
思い返すのは、昨日の王前祭のこと。
今までのアーサーを引き継ぐために、あの時に起こったことはアーサーに細かく伝えているが、ひとつだけ、隠していることがある。
男が持っていた小瓶の中身。粘り気はなく澄んでいて、水のようにちゃぷちゃぷと音をたてる。
「――マスクレア」
強烈な匂いと強い麻酔作用があり、感覚麻痺や意識喪失を引き起こすことがあるという劇薬だ。外国では手術の際など試験的に使用を認められているという話もあるが、レチアーナ王国では現在は禁止薬物に指定されている。
というのを、助けに入ってくれた二人の騎士が教えてくれた。小瓶を見てすぐに判断できたあたり、ある程度地位のある騎士らには伝えられているのだろう。
もしかしたらアーサーも知っているかもしれない。
ずっと疑問だった。
アーサーを力でどうにか出来るほどの実力の持ち主が、果たしてそういるだろうか。
その疑問は、アリスが騎士見習いとして王城に入ったあとも拭えなかった。アーサーを超えるオーラを持つ者なんて見当たらない。いや、いるとすればただ1人、家名も分からないヘンリーという男のみだ。
だが、彼がそれをする理由がない。
アリスはすんと鼻を鳴らした。
ここにはないが、蘇るあのにおい。武器庫の付近で嗅いだ、あのにおい。
小瓶から僅かに漏れでたにおいと、確かに似ていた。
素面のアーサーと互角にやりあえる、もしくは打ち負かせる相手は、アリスが調べて感じた限り、ヘンリーしかいなかった。
でも、マスクレアが使われたとしたら。
その瞬間、誰しもが犯人になりうるのだ。
方法は分かった。あとは、確たる動機を見つけて突き詰めるのみ。
アリスは何もない空間を、射抜くように見つめた。
「大丈夫、種は撒いた。あとは水をやって、芽が出てくるのを待つだけよ」
■
王宮に着いて早々、アーサーは身体中からぶわりと汗が吹き出した。暑さからではない、激しく動いたわけでもない。ただ、門前で待っていた一人の男の笑みによるものである。
その男の笑みは、あまりに爽やかすぎて、まるで極寒の雪山に身一つで放り出されたような、心の底から身の危険を感じるものだった。
アーサーは馬車から飛び降りてひれ伏したい気持ちを抑え、僅かに震える足を叱咤して、その男の前に立った。
今は薄茶色の鬘を被って姿を隠しているが、彼こそ紛れもない、レチアーナ王国の第一王子、ハインリヒ・レチアーナである。
アーサーが震える口を開くよりも先に、ハインリヒは爽やかすぎる笑顔を貼り付けたまま、挨拶でもするようにアーサーに声をかけた。
「おはよう、アーサー。昨日の王前祭で随分と人気者になったようだけど、気分はどうだい?」
限界だった。
アーサーは崩れ落ち、その場に跪いた。
「不肖の妹が、大変な失礼をしたようで、申し訳ございません……」
ハインリヒが気付いていないわけがないのだ。アーサーとアリスを、見間違うはずがない。
分かっていて、この茶番に乗ってくれていただけだ。
それでもハインリヒはアリスを守ってくれるだろうし、こうしないことにはアリスも何をしでかすか分からなかった。仕方がない措置だった、というのは言い訳でしかないが、そもそも自身の失態が招いた事だ。
「いやはや、まさか次期国王を、比喩ではなく言葉通り足蹴にするとは。将来は大物になるだろうなぁ」
はは、と乾いた笑いが、まだ誰もいない静かな城門前に響いた。
アーサーは更に頭を下げる他ない。
「妹は何も知らなかったのです。全ての責はこの私にあります。どうかこの咎は、私一人でお納めいただけませんか」
「なにを言っている。こんなことで、私は優秀な部下を手放すほど愚かではないつもりだよ。茶番はこれでしまいでいいか?」
ハインリヒを取り巻く空気が、ふっと軽くなった気がした。
アーサーは思わず顔を上げる。
先程までと違い、呆れたような笑みを浮かべていた。
「全く、アリスにはつくづく驚かされる。単身で男所帯に乗り込んできたかと思えば、王前祭ではあのヒーロー劇だ。一体どういう教育をしたら、あんな育ち方をするんだ?」
「重ね重ね、申し訳のしようもございません……。少しばかり、正義感が強すぎるきらいがあるのかもしれません」
「いや、あれは正義感などではないだろう。ただお前のことになると、頭のネジが何本か抜けるだけだ」
生粋のブラコンだな、という呟きに嫉妬にも似た感情が乗っていたのは、気のせいではないだろう。
そして反論の余地もない。全くもってその通りである。
アーサーは、いっぱいの苦虫を一度に噛み潰したように顔をしかめて、ゆったりと立ち上がった。
背筋を伸ばして立ち、ほんの少しだけ視線をあげた先で、シルバーグレーの双眸とぶつかる。じっと見つめられ、普段はブレないよう鍛えている体幹が思わず揺れる。
まるで魔力だ。この瞳に見つめられると、全てを見透かされるような心地になる。これも王族の素質なのだろうか。
「ふむ、やはり似てないな」
「……は?」
「お前とアリスだよ。一目見れば分かりそうなものだが、他の連中は面白いほどに騙されていたぞ」
カラカラと楽しそうに笑いながら、ハインリヒは踵を返した。
その後ろ姿を見て、アーサーは不思議な気持ちになる。王族としての矜恃なのか元々の性格なのか、ハインリヒはいつだって表情を簡単に崩すことはしない。なのに、アリスはいつだって、その仮面を簡単に割ってしまう。
双子の妹はいつだって――
「なにを突っ立っている? いつまでも門前で立ち話しているわけにもいかないだろう。久しぶりに手合わせでもしようじゃないか。腕は訛ってはいまいな?」
「は、失礼しました。謹んでお受けします」
この門を超えれば、同じ制服を見に纏う彼とは対等の関係になる。アーサーはやや駆け足で、ハインリヒ――ヘンリーの後を追った。
ヘンリーの隣に並んだところで、彼は思い出したように「ああ」と言った。
「今回のことでブロワ兄妹を罰するつもりはないが、個人的には怒っているぞ」
「……それは」
「アーサーは近衛兵――未来の第一王子の側近騎士になると思うが、それは我が身を王家に捧げたというのと同じこと。今回のように、自身の身を軽んじられては困るのだがね」
ヘンリーの視線が、アーサーの右腕に注がれる。入れ替わった理由も、怪我をした事も、怪我をした場所でさえ、彼は知っているのだ。
「申し訳ない……全て僕が招いた事件だ。まさか、こんな大事になるとは思わなかった」
「だろうな。そして、かなり無謀な行動とはいえ、今回はアリスの行動が最善だった」
アーサーはきゅっと下唇を噛んだ。
「怪我をしたまま訓練に出ていれば、確実に腕を壊して王前試合への出場はできなかった。かといって、訓練を休んで王前試合に臨んでも、誰かの策略に嵌ったという印象を残してしまう。どちらにしても、相手の思うツボだったでしょう」
「その通りだ。兄思いの妹でよかったな」
「…………ヘンリー、まさか拗ねてる、のか?」
随分とつっけんどんなもの言いに、アーサーは思わず尋ねてしまう。
だがヘンリーはその問いには答えなかった。図星だったのかもしれない。
「その兄思いの妹は、まだ何かやらかす気だぞ」
「…………は?」
「あれは、簡単に変な輩に捕まるたちではないだろう」
「…………あの、仰っている意味がよく……」
ヘンリーの言葉が理解できず、王城内にも関わらずつい口調が戻ってしまう。そんなことも気にならないほど、何か妙なことを聞いてしまった気がした。
ヘンリーはくるりと顔を向けて、にやりと笑った。面白いイタズラでも思いついたような、無邪気で、無邪気だからこそ危機を感じる、そんな笑みだった。
「次の夜会が楽しみだな」
「夜会で、僕の妹が何かすると言ったの?」
「さあ? 何も言っていないからこそ、アリスが何をするのか楽しみなんじゃないか」
アーサーは確かに、屋敷を出た時から、やけに聞き分けのいいアリスに、漠然とした不安を感じていた。それが、確固たる不安に変わった瞬間だった。
(アリス――どうか大人しくしていてくれよ)
きっとこの願いは、聞き入れられないのだろう。