17、お兄様と選手交代です!
侯爵令嬢アリス編、始動。
「あーあ、お兄様に変装するの楽しかったのになあ」
ソファに腰掛け、駄々をこねる子供のように足をぶらぶらとさせる。
約束通り、王前祭初日が終わった今日からは、髪の長い、つり目がちの、アーサーの妹アリスの姿だ。騎士服に慣れると、部屋着のドレスでも動きにくく感じてしまう。
むくれるアリスに、騎士服を着たアーサーは呆れ顔である。
「アリスは社交界デビューするんだから、そろそろ人前に出て恥ずかしくない程度には仕上げなくちゃでしょ?」
「うっ……でも、騎士の礼儀作法では褒められました! 騎士が向いてるってことでは……? 次の夜会、お兄様が私に変装しませんか? エスコートはもちろん私が」
「ないからね」
にべもない。
「それにこれ以上、アリスに騎士をやらせてたら、とんでもない事が起こりそうだし」
「どういう意味ですか」
ですか、の辺りで、アリスの言葉はくぐもって消えた。聞かなければよかったと、顔を顰めて後悔するがもう遅い。
一方のアーサーは、朝の爽やかな空気を十倍くらい爽やかにしたような笑顔で、何枚かの紙を取り上げた。待ってましたという体勢である。
「どうやら王前祭初日、凄いことをやった騎士がいるみたいでね」
目の前に掲げられた新聞に、アリスはそっと目を逸らした。すると、逃げるのは許さないというように、次々に新聞やただのチラシなどが出てくる。
『王前祭初日、白の王子誕生!? ――近衛騎士見習い、お手柄!――』
それらはすべて、アリスが警備として参加した王前祭初日の話題で持ちきりである。
バサバサと現れる新聞やチラシの内容は、『白の天使、宙を舞う』『屋根を駆けるのは、白の騎士!?』『すべてアドリブ! 犯人捕縛劇!』など、昨日のアリスの活躍を褒め称える記事ばかりだった。
タイトルセンスはどうにかならないのか、というクレームは、聞き入れてもらえるのだろうか。
聞き入れてもらえないのだろう。アーサーの目は、アリスのそんな言葉を待ってはいない。
「そ、それが、どうなさったのですか? 立派な騎士もいるものですね」
「とぼけても無駄だよ。これ、アリスでしょう! 僕が気付かないとでも思った? 無茶はしないでねって言ったよね!?」
「無茶などしていません! 周囲の環境を利用して、私の持ち味を活かしただけです! 騎士として当然の対応です!」
ちなみにヘンリーも、『周囲の環境』のひとつである。立派な踏み台だった。
あの踏み台がちゃんとしていなければ、騎士二人で地面に激突するというなんとも情けない姿を、周囲に晒していたことだろう。鍛えていたヘンリーに感謝。
アーサーは、疲れたように額に片手を置いた。
「普通の騎士は、空を飛ばないし、屋根を走らないし、靴も投げないの! まったくもう……街の子供たちに、昨日のやって〜って無邪気に言われたらどうしたらいいのさ」
「ならやはり私が行きましょう。求められれば何度でも、ええ、何度でも空を飛んでみせます!」
「それは大丈夫」
普段は暖かい琥珀色の瞳が、今は深海で冷え切ったような目をしている。
なんという目で、実の妹を見るのだ。いや、ある程度自分の非は認めているので、アリスも強くは出れない。
アーサーの氷点下の視線を受けながら、アリスは昨日の出来事に思いを馳せた。
あの後アリスは、騒ぎを聞きつけた第二地区の担当騎士に事情を話し、気絶した男を王城まで連行するのを手伝ってもらうことになった。
そうして王城に向かう途中に、ヘンリーと遭遇する。
彼はどうやら、意識のない女性と少年を馬車に乗せ、王城まで運ぶ手はずを整えていたらしい。その後は、アリスの後を急いで追う予定だったと。
なので気絶した男を視界に入れたときには、たいそう驚いていた。本当にお前がやったのかという視線を、いたたまれない気持ちで受け止めながら王城へと戻ったのだ。
男を牢屋に投げ入れ、状況を説明すればあとはアリスの出る幕はない。気絶した女性の意識は戻って、ヘンリーに大変感謝していたらしいし、少年は嬉し涙で床をびちょびちょにしたという。
終わり良ければすべてよし、のはずだった。
しかしアリスにとって想定外のことが起こる。第一地区第二地区にいた人々が、お祭りそっちのけでアリスの雄姿を語り出したのだ。
口伝えの恐ろしいところは、人から人へ渡っていくうちに、本人の意思関係なく、雪道を転がる雪玉のようにゴロゴロと大きくなっていくことである。
果てには足が生え、尾ひれや背びれや顔がつき、もう自由気ままに一人マラソンをしている。
その結果が、この新聞やチラシなのだろう。
苦笑いするしかない状況である。
「……まぁ、アリスの行動は褒められたことじゃないけど、間違っていたとも言えない」
「え?」
「あの辺りの地区は、毎年何かしらがある。それは住民も理解しているよ。だからといって、慣れるわけじゃない。そういった住民の恐怖を拭うのには、良い対応だったと思う。この地区を、強い騎士が守ってくれているって見せつけたわけだからね」
それに、悪事を働こうとする人間の牽制にもひと役買っている。屋根を駆けて靴を投げてくるような騎士が守る地区で悪さを働こうなんて、そうそう考えないだろう。
タイトルセンスのない大々的な記事は、アーサーの活躍を讃えるだけでなく、そういう人間の排除のためでもある。
どちらかといえば、アーサーの活躍を讃える意味の方が比重はかなり重いだろうけれど。
アーサーは、深く、深くため息を吐くと、手に持っていた新聞をテーブルの上に置いた。そして、アリスの前に跪く。
「え、あの、お兄様……?」
アリスと同じ琥珀色の瞳が、上目遣いにアリスを見た。その瞳に冷たさはもうない。
「アリスは勇敢な騎士だった。その意思を、僕はちゃんと引き継ぐよ。任せて。アリスの守った街を、ちゃんと最後まで守り抜くから」
どん、と胸を突かれたようだった。
多分、いや間違いなく、あの時のヘンリーの指示が正しかった。でも、必死に怒りをぶつけてくる少年を見て、恐怖に怯える人々を見て、いてもたってもいられなかった。
楽しみにしていたお祭りを壊される悲しみは、痛いほど伝わってきたから。
だからアリスが優先したのは、祭りを楽しみにしていた街の人の心だった。それを守る力を、アリスは持っていた。
そういうアリスの意思を、アーサーは理解してくれている。守ってくれるという。
自然と、笑みが零れる。
「……お兄様に、守れないものなんてありませんよ」
「それは持ち上げすぎだよ。でも、妹の願いを叶えられないほど、甲斐性のない兄でもないつもりだからね」
「当然です! 私のお兄様なんですから。……行ってらっしゃいませ」
アリスは立ち上がり、目の前に跪くアーサーに手を伸ばした。アーサーは応えるように、その手を取った。
選手交代だ。
玄関ホールまで見送りに来たところで、アーサーはふと足を止める。何かを探るような、確かめるような表情で、アリスを振り返った。
「? どうかしましたか?」
「いや……」
アーサーは何度か口を開閉して、結局閉ざした。
行ってきます、とアリスに告げて、アーサーは玄関ホールを出る。名残惜しそうなアリスの表情が、扉の奥へと隠れてしまう。
閉ざされた扉を眺めてから、アーサーは王城へと向かう馬車に乗り込んだ。
「こんなにあっさり、屋敷に戻ってくるとは思わなかったんだけどな」
先程、言うか否か悩んだ言葉である。
殴り倒すまでは戻りませんくらいの勢いで、王城に乗り込んで行ったのだから、もうちょっと粘るかと思ったのだが。
「変なこと考えてないといいんだけどなぁ」
アリスは何をしでかすか分からない。
久しぶりの王城までの景色をながめながら、アーサーはため息を吐いた。