15、お兄様、事件です
それから王前祭までは、アリスの予想通り平和に過ぎていった。
アーサーを襲おうという不審な行動をする輩もいない。アーサーの怪我も完全に快復し、もう剣を握っても良いだろうという診断が下された。今はリハビリのために、屋敷で剣の稽古をしている。
デビュタント用のドレスも完成している。髪飾りには生花を使うようで、楽しみにしててねとアーサーに言われた。
ドレスを着るのはとても楽しみであるが、あのドレスを纏うということは立派な淑女として、社交界デビューする日が着々と近付いていることを意味していた。騎士として、最後の日になる。それがアリスにとって、ぽっかりと心に穴が空いたような虚無感をもたらした。理由ははっきりしない。
大好きな剣を触れなくなることからなのか、あの人の良い近衛騎士見習いの面々と肩を並べられることがなくなるからなのか。ただその中でも浮かんでは消えるのは、ヘンリーの顔だった。誰よりも近くにいたからだろうか。
「アーサー、降りるぞ」
「あ、ああ、うん」
馬車に揺られて着いたのは、事前に視察したときと同じ場所だった。扉が開き、片足を地面に下ろすと同時に身体を包んだのは、賑やかな声と熱気。前回とは比べものにならない。その雰囲気に圧倒されながら、アリスは馬車から降りた。
裏道でこの熱気なのだから、大通りはもうどんちゃん騒ぎだろう。
「ここにいるだけでも感じ取れると思うが、王前祭の盛り上がりはすさまじい。この騒ぎに乗じて、悪いことをしてやろうという輩の気持ちも、まあ頷ける」
「そこは頷いちゃだめなんじゃないかな」
ヘンリーは、そうだなと真面目に頷いた。
とは言っても、ヘンリーの言いたいことは理解はできる。
お祭りムード一色で浮かれている人間ばかりなので、多少の悪さをしたところでごまかし通せると考える人間も出てくるのだろう。人の集まる場所では、どうしても起こりうる問題だ。
「事件は現場で起きているって言うし、ずっとここに突っ立っていても仕方がないよ。行こう、王前祭の会場へ!」
「なんか、テンションが高くないか……?」
げんなりとしつつも、ウキウキと進むアリスの後を追う。初めてのお祭りにはしゃいで我を失う子供を、心配しつつも見守る親のように見えなくもない。
実際、アリスは初めての王前祭にはしゃいでいる。
「だって凄いじゃないか。 人、人、人! 食べ物に、なんかよく分からない小物に、綺麗なガラス細工に。この国の至る所にあるものを集結させた感じがするよ」
「それは、そうだが……私たちは警備が仕事なのだから」
「寄り道はできない、でしょ? 大丈夫、それくらい理解してる」
無邪気な子供の顔から、街を守る騎士の顔に変わる。その変化の大きさには、ヘンリーも驚きを隠せなかった。ヘンリーの反応に首を傾げながら、アリスは大通りの雑踏に踏み込んだ。
大通りに面する家には、花やオーナメントで装飾がされている。行き交う人々も、花を身につけることで華やかにしているようだった。花輪の首飾りを付けた犬が、尻尾を振りながら人混みの中をスタスタと歩いていく姿を見かけたときには、アリスもヘンリーもくすりと笑ってしまう。
犬も人も浮かれムードのようだ。
「あ、見て。おもちゃかな? 綺麗な色だね」
アリスの視線の先にあったのは、カラフルな手のひらサイズの小物が並ぶ露店。極彩色の花や動物、小さな建物を形つくっている。おもちゃのようであるが、あんな繊細そうなものを子供が扱って大丈夫だろうか。
もっと近くで見たかったが、これは『仕事』だと分かっているので、遠くから眺めるだけである。
「あれはシュガークラフトだな。砂糖でできたお菓子。食べられるぞ」
「食べ……られるの?」
「あぁ、そのままでもいいし、紅茶に浮かべたりケーキに飾ることもある。見たことないか?」
あるような気もするが、アリスの記憶にあるのは白い花が乗ったケーキくらいだ。こんなカラフルで、多種多様の形があるとは思わなかった。それに最近は重量制限とかで、甘い物はからっきし食べさせてもらっていない。
社交界デビュー後は、常識の範囲内で食べていいとのことだったので、この砂糖菓子を頼んでみようか。
遠巻きながらもじっと見つめているのに気付いたのか、男性店主は笑顔を浮かべて軽くお辞儀をした。
恥ずかしい。
アリスは答えるように苦笑いを浮かべて頭を下げ、本来の仕事である警備に戻る。
他にも、若干の目移りはしつつも、ヘンリーとアリスは至極真面目に周囲に注意を払い、歩いていた。
あれだけヘンリーやバレル教官に脅されていたが、第一印象としては平和そのものだった。毎年、この雰囲気を壊すような何かが起こるなんて、さっぱり思えなかった。
まだまだ祭りは続くので、本物のアーサーにバトンタッチした後に、ということは考えられる。でもアーサーなら、上手くやってくれるはずだ。むしろ手柄なんてあげちゃって、王族の覚えめでたくなるかも。
そんなことを考えていたときだった。
「お姉ちゃん! どこぉ!?」
耳をつんざくような、幼少特有の甲高い声が響いた。迷子にでもなったのだろうか。
ヘンリーと僅かに視線を合わせ、声のした方へ進んでいく。人混みをかき分けるのは、大分苦労があった。すみません、すみませんと人とぶつかりながらたどり着いたその先。
「何をしている!」
ヘンリーが早かった。何かに気付いたように、アリスを背後に置いて、裏道に繋がる細い道へ滑り込む。
その間にアリスは、少し離れていたところにいた、先ほどの声の主であろう少年を保護した。彼が言うには、隣で一緒にお祭りを楽しんでいた姉が、急に、一瞬で消えたのだと。そんな神隠しみたいな話があってたまるか。手にはお菓子を持っているし、夢中になっている間にはぐれたのだろうとアリスは推測した。
「そっか、じゃあ、一緒にお姉さんを探しに……」
背後で、男の騒ぐ声がした。ヘンリーの声も聞こえる。
「お、お姉ちゃん!!」
危ないからと声をかける間もなく、少年は泣きそうな顔でそちらへ走って行く。振り返れば、意識のない女性を抱えたヘンリーと、腕から血を流しながらも、人をなぎ倒して反対方向に逃げていく男。
アリスは、慌ててヘンリーの元へ駆け寄った。