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探す/君へ  作者: ちゃんぴ
1/1

第三章〜終章

どうも長くてすみません。

是非に

 三/終章 焔立つ魔都


 加藤へ


 久々の便りだったな。君も元気そうで何よりだよ。

 なかなか面白い話じゃないか。東京、私もそろそろ行こうかと思っていたところでね。書簡のやりとりは面倒だ。君らが帰ってきたら、そちらに伺おう。これを見たら返信をくれたまえ。


***


それだけが書かれた便箋が一枚、封筒に入っていた。記名すらない、簡素な便箋。封筒の裏側には、「相澤誠治」と書かれていた。

どうやら、東京行きの前に出した手紙は首尾良く届いていたらしい。

それなりに近い町とは言え、まさかこんなに早く返信まで来ているとは思わなかった。

相澤サンは伺うと書いているが、これはこちらから出向いた方が早いか。


 相澤サンとは、「北山聡美」捜索事件依頼、令和地震についての調査を進めていた。

 謎の多い地震とばかり思っていたが、それは我々に知識がなかっただけだというのはすぐに判明した。

そもそも、東京周辺、南関東は地震の多い相模トラフの上に成り立つ大地だ。大正の関東大震災しかり、過去の記録も多く、今回の令和地震についても、それなりに予想はされていたらしい。その上で謎が残るのは、異常な震度と、その範囲の狭さだった。

 相澤サンがどこからか入手してきた大正地震の資料、インターネットの記事のプリントアウトに写っていた写真には、瓦礫の山になった帝都にも一部倒壊、火災、津波を免れた建物が写っていた。浅草十二階だって、全壊はしていない。それに、現代の東京は地震に対策した建物が立ち並ぶ町、少なくとも、国一番の専門家たちが高層建築に口を出しているはずなのだ。そう簡単に壊れてしまう訳はない。

 逆に、それでも壊れるような震度の地震であれば、被害地域が狭すぎる。少なくとも、私が生き延びた川越が無事で済んで良いはずがないのだ。

 また、何より、調査によって判明した事実に見逃せないものがあった。先述した通り、あの令和地震は予測されていたのだ。そして、自然災害である以上、いつか直面するのは確定された事実である。それを未然に防ぐ手立てはまだなかった。

そうなれば、対策が考えられていなければおかしい。それがどの程度のレベルであったかは、まだ私も相澤サンも分かっていないし、ここまでの被害を予想していなかったということもあり得なくはない。しかしそれにしても臨時政府の設立までに数ヶ月は遅すぎる。それについて確認したいのは山々だが、残念なことに、臨時政府(今では新政府だが)が立ったという京都までは徒歩では遠すぎる上に、行ったところで政府にパイプがない。

 ただ、東京の復興。流行病、世界的な経済不況、後に起こる医療の崩壊、重なり合う問題があったとは言え、現代はいくらなんでも不自然である。

 生活が回ってしまった為に、今の関東では誰も復興など言い出さない。むしろ、彼らは今の生活を気に入っているのだ。単純で純粋な労働と生活。考えるのは明日、長くて翌年。令和地震以前の、終着まで人生を睨んで生き延びていく生活に、民は疲れ切っていたらしい。未来にも、周囲にも縛られず、今日を生きる。今日に絶望したら、名前ごと人生を捨てれば良い。やり直しの機会はいくらでも転がっている。そんな世界が、今では愛されていた。

 そして、そんな世界だから、東京には魔術師のような妖しい邪教団が巣くっている。

 それは、探偵屋も食っていかれる訳だった。


 ***


「藤田、私は明日、板戸の町に出かけてくる。君はどうする?」

「私ですか?」

遅い朝食を食べながら、藤田はきょとんとした目をした。

「お手伝い出来る事がありましたら、お供しますし、お邪魔でしたら、掃除でもして待ってます。」

「君、疲れはとれたかね?」

「はい。昨日も今日も寝坊してぐっすり寝かせてもらいましたし、もうすっかり。」

藤田は無邪気な笑顔を見せた。うっすらと、桜の淑やかな微笑みが二重写しのように見えた気がしたが、実際のそれらはまるで別人のように違ったものだった。そういえば、私は彼女の年齢を知らない。おそらく藤田も知らない。桜に聞いておけば良かったかなと思ったりした。

「じゃあ、君にも来て貰おうかな。今日もゆっくり休んで英気を養っておいてくれ。」


 東京から帰って、二日が経っていた。どうやら、真夏の徒歩旅行の体への負荷は予想より大きかったらしい。昨日もほとんど活動らしい活動もせず休んで過ごした。

 

藤田にあの桜都を説明するのはなかなか骨の折れる作業だった。全てを伝えるのは流石に酷だ。今の自分が「桜守りの参」という女の選択によって生まれた人格で、彼女の意識が戻るとき、藤田は消える。過去も未来も、あるようでない。そんな真実を語る事も私には出来ず、桜都の事や、終末教のことは少し明かしながらも、彼女の体は「宮司」という人間にずっと乗り移られていたのだ、と。そんな隠蔽をした。


「宮司さんって…お風呂入りましたかね?」

話しを聞き終えた藤田は真面目な顔でそんなことをいうので、私は思わず赤面してしまった。


 ***


 この数年、板戸の町は訪れるごとに景色を変えていった。相澤家は有能らしい。難しい場所にあるにもかかわらず、貿易都市として栄えていた。周囲の村々の物品を、他村へ運び、運搬代をつけて売る。やっている事は簡単だが、板戸はそれで確実な儲けを出していた。

 一つには、相澤サンがやっていた人材派遣業の存在が大きい。必要な労力を必要なだけその都度割り当てているので、他村よりも、生産以外に割ける人員が多い。そして、もう一つには相澤誠治という男の存在が大きいだろう。現代に於いて、貿易という事業は下火である。勿論、各村で過剰に生産されるもの、不足する物はあり、それらを物々交換によって補おうという働きはある。しかし、村から村への物品の移動で手間賃をとって儲けを出そうという人間は少ない。それが、現代の生産/消費の生活であり、経済的向上心の存在しない諦観の支配する世界の在り方だからだ。

 

そんな中で、相澤サンは変人のレッテルを貼られながら、確実に上を目指した。板戸が他村と比べて、地震以前の町並みや生活を残した村であったのも追い風であっただろう。

 最近は、特に相澤サンの仕事が忙しくなり、久しく私たちは直接会っていなかった。元々半年に一度程度の頻度ではあったのだが。

 私にとっては、数少ない友人と呼べる男との久々の邂逅。少しばかりの羽休めの気分だった。


 ***


「相澤サンって、ここに棲んでるんですか?」

藤田は怪訝な顔をした。

「いや、ここは寄り道さ。」

いつか以来、ここも馴染みの店だ。相変わらず今日も客はいない。

「お邪魔するよ。」

「ああ、加藤くんか。」

出会った時は初老だった店主も、この数年ですっかり老けた。好々爺じみた笑みで迎えてくれた。

「昼飯と、それから相澤サンにお土産貰っていいかな?」

「ああ、いつものね。座っててくれ。」

店主は店の奥に引っ込んでいった。

「お知り合いなんですか?」

「ああ、昔この町で仕事をしてからね。相澤サンの行きつけの店さ。」

藤田はきょろきょろと店内を見回した。

この店も、随分と古びてしまった。一部の物は、内装のテイストから外れた木製の素人の品に置き換わっている。


 店主は、二人分のシチューらしきものと、パンを盆に載せて運んできた。

「流石、板戸は栄えているとは聞いていたが、パンが出てくるなんてね。」

「まあ、全員に出せてる訳じゃないがね。…ここ、良いかな?」

店主は微笑んで、同席を求めてきた。今までにそんな事はなかったので、少し困惑した。

「勿論ですよ。どうかしましたか?」

店主は言葉を選び、いや濁しながら、少しずつその顔を険しいものに変えていった。

「いや、そのね。俺は割と彼とは親しいし、それなりにうまくやってるし、それに彼が好きだ。だから、本当はこんな陰口めいた事言いたくないんだが、一応、一応伝えておこうと思ってね。」

持って回ったような言い方だ。

「なんの事です?彼、とは?」

共通で知っている“彼”なんて一人しか思い浮かばなかったが、私は敢えて名前を尋ねた。

「相澤誠治サン、その人のことさ。まあ、気にするほどの事か、確証はないんだが。少し妙な噂があってな。一年ほど前から彼の事務所に出入りしている人間たちがいる。」

「何か、物騒な奴らなんですか?」

「いや、噂じゃ新政府がらみの役人らしい。いつも車に乗ってやってくる、数人のスーツの男たちだ。どうやら、貿易で他村に出向いた者から入手した情報を基に、相澤サンが話を持ちかけたらしい。詳細は私もよく分かってはいない。ただ、その時、仲介になった村人に金を握らせて、誰にも言わないように言ったらしいんだ。これはもう村中が知ってる秘密さ。ただでさえ、今じゃ、車なんてほとんど見ない。定期的に外からやってくる車なんて、みんなの好奇心の的だろう?」

同意を求めるような目をした店主は、急に老け込んで見えた。

「気になって当然だと思いますよ。」

「ああ、そう、俺も気になってね。村の奴から聞いてしまったのさ。だが、あくまで噂だ。気にするもしないも君の勝手だ。一応、伝えたに過ぎないからね。あと、間違っても俺がこんな話したって、相澤サンに言うなよ?そこまで馬鹿じゃないと踏んで話してるんだから。」

「勿論です。もし何か私自身で手がかりを得ることがあれば、先ほどの噂を検討してみます。なんにせよ、話してくださってありがとう。

では、私たちは相澤サンに会ってきますね。行くぞ藤田。」

「あ、はい!」

藤田は慌てて残っていた水を飲み干した。

「ああ、待ってくれ。今土産を包む。」


 店主は、サンドイッチとレモンを一つ包んでくれた。そして、受け取った私たちは相澤サンの事務所へと向かったのである。


 ***


 相澤サンの事務所は変わらず四角く建っていた。

「思ったより地味なお家ですね。無機質っていうか。お金持ちって聞いてたので…。」

藤田は不思議そうな顔をしていた。

「もっと、豪奢なのを想像していたかい?

相澤サンは、金を得たら、さらに金を得るためにそれを使うような男だからね。家とか、贅沢とか、そういうのはあまり興味がないのさ。」

「不思議ですねえ。あんまりお金を貯めることもない私には、分からない世界です。」

「令和地震以前には、お金にも贅沢にも色んな種類があって。相澤サンみたいな人も珍しくなかったんだけどね。」

「地震以前の世界は楽しそうですね。」

「どうなんだろうね。楽しかったかもしれない、でもみんな疲れ切っていたのさ。だから今の世界がある。多分、いつかまた、地震以前の生活に寄ってくる日も来るだろう。」


 外見では、なんら変わりなかった事務所だが、中に入ると、少しばかり見知った様子とは違っていた。

あの真四角の大きな一部屋だった一階事務所スペースは、仕切りが設けられたらしい。まず、玄関のような小部屋が現れた。

「お約束は?」

そこには、簡素だがフォーマルらしい装いをした一人の紳士がいて、そう訪ねてきた。

「ああ、失礼。約束はないんだが、相澤サンに、『加藤が来た』と伝えてもらえますか?」

「かしこまりました。現在、相澤様は先約のお客様とお話し中ですので、少々お待ち下さい。」

紳士は、不審な目をこちらに向けながら、対応してくれた。

 まさか、会うのにアポイントが必要になるほど出世するとは、出会った時には思っていなかったよ。相澤サン。


 私は藤田と並んで待機用のソファに腰掛けた。

 持ってきていた資料を確認して、私は時間を潰した。

 

***


調査資料 No.27

新規依頼:終末教 宮司

依頼内容:教祖 加藤の捜索


加藤、という男を捜せという依頼。

詳細不明。捜す訳ではない。いつか巡り会う、との事。

以下には、私が東京にて宮司から得た情報を記す。


○東京の様子について

私は、藤田桜の過去を捜す依頼によって、実際に東京へ赴く機会を得た。予定していたルートは、八王子近辺の村で一夜を明かし、翌日高尾山から東京を視察するという物だった。八王子に存在する高尾の村でも興味深い事例があったため、後ほど記述する。

高尾の山から見た東京は予想していた廃都の趣とはまるで違っていた。一面桜の木が並び、真夏だと言うのに、満開の花を咲かせていた。また、東京には、終末教を名乗る人間たちによる集落が築かれており、彼らは東京を“桜都”と呼称していた。

その集落で一泊したが、木製の住居、食べ物や風呂等の存在を確認。生活のレベルは相当高いものと見られた。


○高尾の村について。

 高尾山の麓に存在する小村について。私は高尾山に登る前日、その村で一泊した。どうやら、完全に令和地震以降に建てられた村らしく、放射状に伸びた道に沿って粗末な家々が整然と立ち並ぶ構造をしていた。また、村中央には祠(?)が設置されていた。

 彼らは極めて特殊な形で生活物資を入手している。主に彼らが生産するのは“以津真天”の木彫りの像である。それを作成し、中央の祠の中に納めておくと、食料などの必要物資に変わっているとの話で、実際に村の中もしくは、村の周囲に田畑は見られなかった。(無論だが、他村との交流はほぼないと見られた)

恐らく、例の宮司の関与するものであり、私の理解の外側にある力が働いていると見られる。


メモ:夢

私はそこで、夜を明かした際、東京・桜・以津真天の登場する夢を見た。

多少の違いはあれど、実際の東京とは奇妙な符号があった。これについてはうろ覚えな部分も多いので今後思い出したらまた追記予定。


○桜都/終末教について

 高尾山山頂にて、藤田桜の体に宮司が憑依(?)する。彼(宮司の性別は不詳だが、便宜上、彼と呼称する。)に連れられるまま、私は下山し桜都に入る。

 桜都にて、宮司本人と邂逅。彼らは“終末教”を名乗り、東京に鎮魂の桜を植え、終わりを迎える人間、新たに始まる人間に”以津真天いつまで”の像を配っている。

 驚くべきは、彼らは令和地震を予期しており、それに備えていたという点だ。終末教の教祖であり、預言者(宮司は語り部という言葉も使っていた)の加藤という男がこの地震を預言していたらしい。

 そして何らかの方法であの地震を生き延び、現代に至る。

 現在の活動については前述した通り。また目的については語らず。

 

 残った謎はおそらく“加藤”の口から語られるであろう。捜索方法については思案中。

 

メモ

 「如何にして崩壊に至ったか。」


〇今後について

 教団が何者で、地震と彼らにどんな繋がりがあるのか。そして、“名捨て人”との関係とは。

 謎は全てあの教団を指す。まずは、「加藤」を探すべきか。


 ***


 資料を読み終え、追記するべきこと。忘れていることはないか思案していると、ドアが開いた。

「植村、客人はあったか?」

そう言いながら、顔を出したのは、懐かしの相澤サンだった。

「相澤サン!久しぶりです」

「やあ、加藤じゃないか。こっちから行くと言っただろう?お前もせっかちな奴だよ。」

片手を出す相澤サンに応じて、握手を交わした。

「植村、お茶を頼んだ。さあ、入りたまえ。そちらのお嬢さんは?」

「こちらは藤田桜。妙な縁で共に行動している依頼者さ。」

「加藤が人を連れてくるとは珍しい。なんにせよ歓迎しよう。」

 相澤サンに促され、事務所の応接スペースに入る時、ちらと奥のドアから出て行く黒服が見えた、例のお役人だろうか。


「相澤サンもお元気そうで。」

「まあ、見ての通り、忙しくはしてるがね。俺はその方が性に合ってるらしい。」

「でしょうね。」

私たちは笑った。

「そちらのお嬢さんが、手紙にあった依頼主の藤田桜さんか?」

「はい。はじめまして。」

相澤サンが藤田を“さん”付けで呼んだのが、少し意外だった。仕事の付き合いが広がって、彼も礼儀というものに少しは触れているらしい。

「藤田、こちらは相澤誠治さん。私との付き合いについては前話した通りだ。我々は一緒に令和地震について調べている。もし、良ければ君と私が、共に東京に出向く事になった経緯を話してもらえるかな?」

「分かりました。」

 一応、依頼主と探偵の関係である。彼女の話は、彼女から伝えてもらう事にした。


 丁度、藤田が自身の身の上を語り終えた頃、ドアはノックされ、植村と呼ばれていた紳士がお茶を運んできた。

「失礼致します。」

慇懃無礼、といった態度で、私の方に思いっきり不審そうな視線を送ってから、彼は退室していった。

「嫌な奴だろう?」

相澤サンは笑って言った。

「まあ、良い気持ちはしませんね。」

「でも、あいつは金を貰うことに関してプロだからね。私の指示は確実にこなすし、指示以外の事は良くも悪くも絶対にしない。使い方を心得れば、便利な男なのさ。

 失礼、話の途中だったね。続けてくれたまえ。」

「まあ、相澤サンが雇った男をあまり悪く言う気はないさ。無論、褒める気もないがね。」

私は苦笑いで返した。藤田も隣で苦笑いをしているらしかった。

 さて、話そうかと思った瞬間である。私は重大な事を見落としていたことに気づいた。いやむしろ、ここまで何故忘れていたのか。藤田桜が同席しているのでは、桜守りの参のことは話に出せない。そうではないか。

 仕方なしに、藤田に伝えたのと同じ、桜守りの存在を省いた話をすることにした。今から藤田を退席させるのも、うまい言い訳が見つからなかったし、桜守りを隠してもほとんどの事実は語れるというのは先日藤田に話した時に実証済みだ。あとで相澤サンと二人の時に残りの情報は伝えれば良い。

 一瞬のうちにこれだけの計算をした私は、東京視察での体験を話し始めた。


 ***


「なかなか興味深い体験じゃないか。」

私の話を聞き終えた相澤サンは、煙草に火をつけながら、そう言った。その紫煙の特徴的な香りが、私に古い記憶を呼び起こさせた。

「相澤サン、その煙草、」

「分かるかい?昔好きだったパーラメントに似せてブレンドしたお気に入りさ。あるツテで入手してねえ。良かったら、好きに吸うと良い。」

「ああ、一本いただこう。」

パーラメント。懐かしい響きだ。真白い巻紙に、特徴的なフィルター。洋モクらしい中にミルクを思わせる甘い香り。確かに似ている。そんな気がした。だが、ほんの少しだけ、記憶と違う、妖しい甘さが垣間見えるような気もした。

 さてこれは、どこの“ツテ”から手に入れたものか。それについては、今は聞かずにくことにした。


「君らの体験を疑うわけじゃないんだがね。」

相澤サンは、そう言って一呼吸置いた。

「実は俺も数ヶ月ほど前に、部下の一人に東京の視察を頼んでね。いや、自分で行ったわけじゃないんだ。俺もそれなりに忙しくてね。」

「それで?」

「ああ。その男が見てきた東京は変わらず瓦礫の山だったと、そう報告を受けているんだ。しかし、君らの見た東京、桜都だったか?は一面桜の海だったという。どちらを信じるべきかと聞かれれば。無論、君らの方なのだが。しかし、あの男に嘘をつく必要があっただろうか?」

相澤サンはうーんと唸ってしまった。

「数ヶ月前と言いましたが、いつごろの事ですか?」

「丁度、冬が開けた頃さ。三月の末ほど。むしろこっちで桜が咲いてきた頃だったはずだ。」

妙な話だ。

「考えられるとすれば、まあ、その男がどんな奴かは知らないが、そいつが東京を見ていない。もしくは、私たちが夢を見ていた。あとは、私たちの見ていたものが宮司の作った幻想だった。」

「じゃなければ、あの男が見た瓦礫の山が幻想だった…か。」

現実的に考えたら、あの崩壊した都を数年で桜の海に作り替えるなんて不可能である。しかし、私と相澤サン、藤田が目にしたあの宮司の存在を現実の記憶として扱ったら、廃都も、桜都もどちらも幻想として有り得るだろう。

 さて、どうするべきか。


「加藤、ちょっとすまない。」

相澤サンは席を立ち、ほんの少しの間、待合いの部屋へと出て行った。そして、戻ってくるなり、私に問うた。

「加藤、君、来週は空いてるよな?」

「ああ、はい。今は特に依頼は入ってませんけど。」

「じゃあ、決まりだ。七日後、私自ら東京を確認したい。君らもついてきて貰おう。」

「来週ですか?」

「あまり時間を置いてしまっては、君の見た景色と違っていてもいくらでも理由付けが効くようになってしまうだろう?」


 そんな訳で、私は先日行ったばかりの東京に再び赴く事が決定したのである。


 相澤サンは、来週の予定の調整が忙しいからと言って、事務所に籠もってしまった。

 私たちは、二階の居住スペースの一部屋を渡され、そこで一泊していくこととなった。


 ***


 「なあ、君。」

「どうしました?」

「君は、私と同じ部屋で眠る事に抵抗はないのか?」

寝る準備をしていた藤田に、私は戯れに話しかけた。

「どうしたんですか、急に。」

藤田は恥じらいを隠すように笑った。

「いや、別に。勿論、何かするような気はないんだが。気になってね。」

「そうですね。加藤さんの事は信頼してますし、ちなみに最初は、依頼人相手だし大丈夫だろうって考えてました。それに、正直、全く知らない町の知らない人の家ですから、知ってる人と一緒の方が一人より安心です。」

「君と会ったのは、ほんの数日前のはずだが、なんだか…、随分と長いこと一緒にいた気がするよ。」

なんだか、気恥ずかしさを感じていたら、妙な返答になってしまった。

「私も、そんな気がします。私、最近夢で見るんです。加藤さんと、私にそっくりな二人が桜の木の下で話しているんです。でも、見えている私にそっくりな女性は私ではなくて、私はその姿を少し遠くから眺めていて。私には、昔の記憶がないので、こういうのは変かもしれませんけど、懐かしいようなそんな気持ちがして。なんでしょうね。突然こんな事言って、困りますよね。すみません。」

彼女は微笑んでいた。

「いや、構わないさ。君の感情は君のものだ。何を考えたって、何を思ったって。そしてそれは私にとって十分に価値の有る話だよ。」

藤田が見ている、藤田にそっくりな女性。私は桜を思い出していた。

彼女も自分の知らないところで、桜のことを感じているのだろうか。

 彼女は、恥じらいを隠すように再び笑顔を見せた。

「もしかしたら、私、あの夢が本当に私の思い出で、昔加藤さんに会ったことがあるのかもって、そんな風に妄想するんです、最近。そうだ、良かったら加藤さんの昔の話聞かせて下さいよ。」

「私のか?そうだな。私は、あの地震の日、たまたま仕事で川越にいてね。『土師堂』で生き延びたんだよ。」

「地震以前は何のご職業に?」

「地震以前はね…。」

地震以前は…、地震以前は…

何をしていたんだ。俺は?


「いや、私の人生は語る事が多すぎて、寝物語には向かないだろう。いつかゆっくり話そう。今日は寝たまえ。私は少し出てくるよ。」

「いつか聞かせてくださいね。おやすみなさい。加藤さんもちゃんと寝て下さいね。」

藤田は笑っていた。どうやら私の動揺はうまく誤魔化せたらしい。

 私は一人、外へ出た。


 相澤サンがカートン分も分けてくれた先ほどの煙草を取り出し、火をつけ、いつものように煙を吸う。

 何故、思い出せないのだろうか。いや、そう言うことじゃない。今の今まで自分の過去を思い出せない事実に気づかず生きてきたなんて、そんなことがあるのだろうか。どう考えたっておかしい。

 確か私は、何か仕事で埼玉に訪れていて、取引を終えて、喫茶店を捜して、その流れは覚えている。いや、問題はそれ以前、少なくとも私に家族はいなかったはずだが、それすらも怪しい。生まれも育ちも思い出せない。私は加藤平成だが、加藤平成と名付けた親すら思い出せない。何故。仕事の事や、生活のことなら、多少思い出せなくともいい。令和地震から経った年月、その日々の密度を考えれば言い訳が立つ。ただ、生まれも親も思い出せないなんて、そんなことがあるのか?そして何より、その事実に今の今まで気づかなかったなんて。

これでは、これではまるで…私自身が名捨て人のようではないか!


 吸っても吸っても煙の味が分からなくて、強く吸ったら今度は咳き込んだ。

 夜の闇が急に恐ろしいものに見えて、だから私は、うまいとも感じられない煙草に火を灯し続けた。


 ***


 私は、暗闇の中を歩いていた。これは夢だと、私は直感的に理解した。闇の中で、おかしな話だが、世界は紫色の煙で満たされていた。高貴で妖しい甘い良い香りがした。

 終末教絡みで明晰夢をよく見たせいで、私はすっかりその感覚が分かるようになってしまっていた。

 好都合だ。私の過去について、きっと奴は何か知っている。怪しい話は今のところ大体奴につながっている。


 しかし、呼べども呼べども宮司から応答はなかった。好きな時に出てくるくせに、呼ばれた時は顔を出さないとは流石、不遜な男だ。

 私は出し抜けに地面を殴った。冷静な思考を保つには、怖ろしい想像を力と共に何かにぶつけるしかなかった。

苛々するほど甘い香りに包まれて、私は再び意識が消えていくのを感じた。


 ***


 翌日、私と藤田は、相澤サンの顔も見ずに帰路に就くこととなった。東京行きのための無理な予定調整の結果、相澤サンは一週間の間に多くの仕事を抱え込むことになったらしい。

 私たちが目覚める前から、大勢の客人の対応で、事務所から出られなくなったそうだ。

植村がそう教えてくれた。


 相澤邸を出て、例のレストランにて食事をしていると、店の前を黒い車が一台通り過ぎていった。

 昨日今日実際に目で見て、相澤サンと、黒いスーツの男たちとの間に何らかの関係があるのは確かに確認出来た。内容までは確認出来なかったのが残念だが、宮司に聞けば良いだろう。どうせ知っているはずだ。昨日は出てこなかったが、こちらからの呼びかけには答えない気だろうか。

「語るべきことは語る」のが奴のスタンスだ。私の過去には語る価値もないとでも言いたいのか?


 帰り道、私はあまり自分自身のことを考えたくなかった。私自身のことが分からない。私は一体誰なのだろうか。そんな事を考え続けたら頭がおかしくなりそうだった。鏡に向かって喋り続けると、人間は発狂するという。しかし今の私には鏡に写る自分すら見つけられないのだ。

 だから、他人の顔と言葉と相対する事が必要だった。

「なあ、君。板戸の町はどうだった?」

「え、板戸、ですか?」

藤田は驚いた顔をした。

「ああ、急にすまない。何か考え事でもしていたかい?」

「いえ、私っていうか、加藤さんずっと難しい顔してたので、何か考えていたのかと。」

「ああ、そう言うことか。あまり気にしないで良いさ。」

「板戸は楽しかったですよ。相澤さんも良い人でしたし。」

「それは何よりだよ。なかなか刺激的な男だろ?」

彼女は、今度は吹き出して笑った。

「そんなに相澤サンを気に入ったかい?」

「いや、違うんです。」

「どうした?」

「相澤サン、言ってたじゃないですか、東京が私たちの見ていた世界と違うかもしれないって。色んな話を聞いてきたのに、もうあんまり印象もなくて、少し前まで私普通に平和に暮らしてたので、なんか、自分が謎に慣れてきているのすごい面白くて。」

「君は元々太い女だよ。いや、気持ちがね?謎があれば謎があるだけ食い扶持が増えるのが私みたいな人間だからねえ。妙な依頼を持ちこんでくれて有り難い限りさ。」

軽口を叩く。頭を回転させて、引っかかる言葉を繋ぐ。いつも通りの会話が、少しずつ自分を再確認させるのを感じた。

「いいですよ。別に、確かに私大きいですし…。でも、加藤さんにお願いして良かったです。これは本当に。」

「嬉しい事を言ってくれるじゃないか。」

 藤田桜は、良く喋るようになった。考えて、まとめて、語る。最初は、事実以上の事を語ることは少なかった。おそらく彼女自身もあまり意識はしていないだろう。

「加藤さんと出会って、私の人生は、何て言うんでしょうね。難しいですが、加藤さんが、色んな人が、私のために、それも少し違いますね。」

「なんだい、唐突に。」

「なんでしょうね。私にもよく分かりません。このところ、喋りすぎている気がします。でも、こんなに伝えたいことがあるの始めてて、喋ってないと、頭の中いっぱいになっちゃって。」

「君は、きちんと今を生きているねえ。」

「ああ、それかもしれません。そうです。私のお願いで、色んな事が起きて、私はなんだか、私の人生を生きている気がするのかもしれません。」

「君は…、美しい人だよ。とても。さあ、頑張って帰ろうか。」

藤田は不思議な顔をした。

 彼女は、きっと何か計算をした訳でもないだろうし、私の今の悩みなんて、きっと知りもしない。

 彼女は、藤田桜なのだ。かつて、桜守りの参という女性だったとしても、それを彼女が知らないとしても、彼女は今、自身の過去を捜す藤田桜として生きている。羨ましくなった。

 だから、こんな風に考えることにした。私は、確かに加藤平成である。そして私は今、「教祖・加藤」を捜すという依頼を抱えている。過去を捜す女も、そこから始まった東京の謎も終わっていない。

 謎があるなら、解かなきゃいけない。それが私の現在を証明する唯一の手立てかもしれないから。


 ***


「最近は、忙しいようだね。」

「まあ、飛び回ってますよ。」

「ここを継いでいればもう少しのんびり暮らせただろうに」

土師さんは、そう言って笑った。


 川越に帰ってから数日、私は土師堂に通った。至急やるべき事もなく、整理するべき情報と、考えるべき謎だけが手元にあったので、ゆっくり考えをまとめる時間が必要だった。


 「いらっしゃい」

土師さんの声につられて、入り口を見ると、来店したのは懐かしの北山翁であった。

 私は、なんとはなしに立ち上がった。煮詰まった頭に、丁度良い気晴らしにと思ったのだ。

「どうもご無沙汰しています。北山さん。」

「君は、ああ、久しぶりだね…?」

北山翁は眉間に皺を寄せて、私の顔を凝視した。しかし、私の表情が曇ったのを感じたのだろう、今度は慌てて目を逸らした。

「いや、申し訳ない。もう私も老いぼれでね。君の名前を失念してしまったらしい。」

「こちらこそ申し訳ない、随分ご無沙汰してますね。私、加藤と申します。数年前、まだ便利屋だった頃に、北山さんからご依頼を受けました。」

少しばかり、意外だった。私が、北山翁から受けた依頼を考えれば、流石に忘れているというのは違和感がある。

「ああ、加藤君か、加藤…、待ってくれ。」

北山翁は眉間を揉みながら、しばらくの間俯いていた。

「私は、君に依頼したんだ。数年前、誰かを捜してもらった…そうだな?」

「覚えていらっしゃらないんですか?」

「いや、思い出した。娘の北山聡美だ。私には、娘がいたんだ。そして聡美は失踪して、そして君に…。」

北山翁は青い顔をしていた。

「まさか、北山さん。あなたは、」

「いや、待ってくれ。分からない。しかし、今日までそれを忘れて生きていた。私には娘なんていないと思って生きていたんだ。だが、違う。聡美はかつて私の娘で…」

目にうっすらと涙を浮かべて憔悴した北山翁にかける言葉が、私には見つからなかった。


 土師さんがコーヒーを持ってきたタイミングで、私は一礼し、席を辞した。北山翁は恐ろしい何かに怯えながらも、私の背中に向かって、「ありがとう」と一言投げてよこした。


 ***


 翌日、私は藤田を残して、再び板戸の町へ向かった。一つだけ確認しなきゃいけない事を感じたからだ。失われた記憶の謎は、今の私を何よりも惹きつけた。

 北山翁は、北山聡美の事を忘れていた。名前を捨てて、家出した娘。しかも、探偵を雇ってまで捜した娘。

 普通、忘れるものだろうか。

 名前を捨てて、時間か、何か一定の条件を満たすと、捨てた名前の人間は消滅し、新たな名前の人間としての存在が、自然に確定されていく。

 なかなか面白い仮説である。もし、北山聡美/古川仁美が記憶を失っていたとしたら。何か分かるかもしれない。ただし、それは自身の過去を追い求める為だけにするのではない。私の抱える謎も、世界に溢れる謎も等しく扱う。それが世界の中の私を形作るから。私の中の謎だけに固執したら、今の探偵として生きる私さえ失ってしまうかもしれないという恐怖があった。

 まあ、名捨て人の話だ。どうせあの教団が絡んでいる。なんとかして、語るべき時と言わせる段階まで進めていかねばならなかった。だから私は慌てて板戸に向かっているのだ。

 そんな思考が全て建前かもしれないと、私は私の存在に固執しているのだと、そんな考えに、気づかないフリをする自分を許せるくらいに、その瞬間の私はこの手がかりに魅了されていた。


 ***


夕刻、彼女は鼻歌を唱いながら帰ってきた。幸いなことに住処は変えていなかった。

「古川仁美さんですね。」

「はい、そうですが、あの…、あなたは?」

古川仁美は不審な目で私を見た。この時点で、私が欲しかった情報はほぼ手に入ったようなものだった。

「私のことを見て、何か感じる事はありませんか?忘れていることは、ありませんか?」

「なんですか?人呼びますよ?」

丁寧な接触を心がけるだけの余裕は、私にはなかった。これから言おうとしていることが、もしかしたらとても残酷なことかもしれないと私は北山翁の顔を見て確かに知っていた。しかし、私は彼女に突き立てる“名前”を持っていた。残酷な真実というのは、探偵が持ち合わせる最大の贈り物でもある。


「私は北山聡美さんを知っています。」

「北山、聡美?」

彼女の反応は、北山翁にそっくりだった。それが答えだ。

「それだけです。失礼します。」

震える女性を一人残して、私はその場を去った。

 おそらく、彼女は思い出したのだろう。

私は探偵であり、抱えているのは世界の謎。真実を打ち明けるまでが仕事だ。その後のフォローを考えている余裕などなかった。


***


夜の闇に紛れて歩く。

いつもだったら、一泊して行くところだ。今は何だか人に会いたくなかった。特に知っている人間には、何故だろう。この興奮を独占していたかったから?時間がないから?自分が今うまく笑えないのが分かっていたから?

どれも正解でどれも不十分だ。私は単に煩わしかったのだ。誰にも知られていない場所でこっそりと一人の女性を傷つけた私に向く、何も知らない人々の好意が。


 たまにふと冷静になって、私の連続性を考える。いや、単に丁寧な対応、丁寧な態度に疲れただけだ。私は今だって私だ。

「そう。君はそういう男さ。」

突然、そんな声が聞こえた。

「そろそろ、物語は中盤だ。奴の代わりに俺がサポートキャラクターを務めようじゃないか。」

言葉を紡いだのは、私の口であった。筋肉が動き、声帯が震え、舌が踊る。

 流石に、驚きがあった。体を取られるというのはこんな感覚なのか。

 私は金縛りのように、動けなくなった。

夜の暗さは少しずつ濃さを増し、月明かりに照らされた世界は少しずつ闇に沈んでいった。どうせ、奴らの力だ。世界を改変してるのか、それとも私の感覚を操作しているのか。

視界が闇に飲み込まれた時、私の体は自由を取り戻し、視線の先に小さな火が現れた。


「なかなか面白い体験じゃないか。君と会合するなんてねえ。」

火の主はそう言った。妙に聞き覚えのある声だった。

 闇の中を這う煙が、私の嗅覚を刺激した。

「お前は、宮司ではないな?」

「ああ、アイツは今、手出しが出来ないからな。代わりに登場したわけだ。但し、俺はアイツほどには饒舌じゃない。久々の煙草を吸い終えるまで。これが君に許された時間だ。」

煙草の火は男の顔をぼんやりと照らすが、俯いているせいでその造形は窺えない。

「お前たちは、どうしてそう回りくどいしゃべり方しか出来ないんだ?」

「謎があれば解くのが君の仕事だろう?君には役目を果たして貰わなきゃ困る。」

「お前もあの教団絡みの人間なんだな?」

「そうとも。終わりを願う者達の集まり。名前を捨てて、夢を抱いて死ぬ者の集まり。懐かしいねえ。」

「教団の詳細についてはもう聞いたよ。それよりも、私の過去について聞かせてもらおうか?」

「分かっていて聞いているんだろうが、今はまだ語るべき時じゃない。ただし、約束はしよう。その時が来たら、きちんと話すさ。」

「まあ、お前たちにこちらの要望が通るなんて期待はしていないが。弱みを握られてるってのは気分が悪いな。」

「殴りかかるほど馬鹿じゃないようで安心したよ。ご名答だ。君の過去に辿り着きたいなら、俺たちに協力するしかない。俺は全てを知っている。」

「じゃあ、質問だ。捨てられた名前が、人々の記憶から消滅してる。これについて、説明してもらおうか?」

「ああ、ダメだね。今の君には語る事はない。」

彼は背を向けたらしい。火が動いて、うすぼんやりとした背中のシルエットだけを照らした。

「どういう事だ?」

「手がかりを追って真実を観測するのが、君の役割だ。誰かが言ってただろう?俺たちの役目はパン屑を残す事さ。」

「お前らの飼ってる怪鳥が喰らい尽くしているんじゃないのか?」

「そうそう、戯れ言に付き合うくらいの余裕を忘れちゃいけない。あまり俺に真面目な話をさせないでくれ給えよ、君。」

「お前は一体、何を語るために現れたんだ?さっきからだらだらと会話を続けて。」

「じゃあ、仕方ない。既に君の気づいていないところで、ヒントはいくつか与えてあるんだがね。もう一つだけ教えてあげよう。時間もぎりぎりみたいだしな。これは煙草代にとっておけ。」

確かに、照らされた世界は少しずつ狭まっているようだった。

「いいかい?良く聞きたまえ。今対面している男、即ち俺はただ軽口を叩く謎の男じゃあない。もっと偉大で、強大で畏怖すべき存在。

 即ち、終末教開祖にして予言者、魔王・加藤だ。」


ふっと火が消えた。


「お前があの加藤か。満を持して姿を現してくれた訳だ。」

私の言葉は闇に吸い込まれた。返答はない。どうやら、あの男は煙草の火とともに本当に消えたらしい。

 ついに辿り着いた“予言者・加藤”、と言えば聞こえはいいが…、また妙な男との繋がりが増えたわけだ。持ってた謎が何か解かれた訳でもない。ヒント、とは一体。あの会話にどんな情報があったというのだ。


 東京の謎、私の過去、名前と共に消えていく記憶。そしてあの予言者・加藤の存在。

 全てあの教団が絡んでいると思えばそうとも言える。しかし、全てが全て繋がってしまうせいで手がかりとも言いづらい。

 頭の中にうっすらと何かが浮かぶような気もするし、何もないような気もする。

 

私は知っている。頭の中を情報が交錯する時は、必ず、無意識のうちに何か不都合な条件をはじいている。それを分析し、理を詰め、自身が排除していた不都合なものを把握し分析する。

ああ、ダメだ。私は今、自分の思考について考えている。違う、そうじゃない。考えるべきことは他にある。


頭の中を忙しく回る独り言と、そんな自分を俯瞰して眺める自分と、こうなったらもうダメだ。閃きを待つほかない。

とりあえず紙とペンが欲しい。さっさと帰ろう。

しかし、待てども闇は消えなかった。闇の中、自覚のないまま私は眠りに落ちていった。


***


明け方、やっとの思いで私は川越に帰ってきた。

気がついたとき、私はきちんと道の真ん中に寝ていた。加藤は宮司ほど親切ではないらしい。

仕方なく歩いたわけだが、いつもと違う時間に変に寝てしまったせいで、妙に体が重かった。一刻も早く風呂に入って、ゆっくり寝たかったが、路上ではそれは叶わない。残り一時間ほどの道のりを暗鬱たる思いで歩いた訳である。

 しかし、やっとの思いで村に辿り着いた私には、どうしても確かめておきたいことがあった。いや、どうしてもというほどでもなかったのだが、効率を考えた時に、そして安息に辿り着くために、必要な仕事をどうしてももう一つ終えておきたかった。

私は、明け方の動き始めた町を闊歩し、山桐の家へ向かった。


「おはようございます。山桐さんいらっしゃいますか?」

扉をノックする。中で人の動く気配があった。良かった。まだ家にいるらしい。

 数秒の後、扉は開かれ、山桐が顔を出した。

「どちら様でしょう?」

「私、探偵屋の加藤平成と申します。数年ほど前にとある依頼で山桐さんに“名捨て”についてお話しを伺った者です。」

「加藤さん、ですか。すみません、失念しているようでして、何故私にそんな相談を?」

どうやら、この男も既に“山桐“になっているらしい。だったら次の確認が必要だ。確か、アレは玄関にあったはず。

「ちょっと、失礼致します。」

「何ですか?」

私は無理矢理山桐宅の玄関に押し入った。

 果たして、いつかの日にそこで初めて見た“以津真天”の木像は置かれていなかった。

「何なんですか?流石に、非常識ですよ。」

山桐は怒りを見せた。

「いや、失礼。申し訳ないついでにもう一つだけ質問を、これで最後ですので。」

「どうぞ?」

山桐は苛立ちを隠そうとはしなかった。だが私は長年の探偵稼業で、「最後の質問」という言葉が有用であることを知っていた。

「ここに、鳥の木像がありませんでしたか?」

「なんのことだ?あなたの発言は、さっきから全く意図が分からない。」

「申し訳ありません。私の思い違いだったようです。」

 収穫は十分だ。怪訝な顔をしている山桐を後に、私は風呂屋へ歩き出した。

 これでやっと休める訳だ。


 ***


 早朝の風呂には爺さんが二人ほどいたが、案外と空いていた。

 私は湯船に座り込んだまま、しばし考えを巡らせた。正直、湯船は熱いし、さっさと出ないと風呂を上がったあとに、また一汗かきそうな気もしていたのだが、座ったらどうも立ち上がる気力まで湯船に溶けてしまったのである。

 

それにしても、古川、山桐の元での収穫は十分だった。

“捨てられた名前“は次第に人々の記憶から消える。そして、新たな名前と作られた過去を持った人間に成り代わって行く。そして、あの”以津真天“の木像は過去と共になかったことになる。

 つまり、最早“名捨て人”は判別不可能なのだ。私が依頼を受けて記録している人数などたかが知れている。

 世の中には、消えていった名前、作られた名前が数え切れないほど存在している。


 注目すべき点は、一つ。北山聡美/古川仁美は北山翁に手紙をしたためていた。あれは、北山聡美の存在を裏付ける確実な物的証拠である。しかし、北山翁は北山聡美の存在を忘れていた。そして、私は北山聡美を覚えている。記憶が消失する条件はまだ分からないが、私が北山聡美を覚えている理由はおそらく単純に記録によるものではない。

 それが、何を意味するのか。加藤は、教団は、一体どんな真実を描いているのだろうか。


 ***


 目が覚めると、もう外は暗かった。体が妙に重い。やはり肉体は徐々に衰えつつあるらしい、無理はするもんじゃない。

 やはり夏の昼寝は好まない。体中汗にまみれていた。それにひどく喉が渇いた。水が飲みたい。

 暗さに目が慣れて来た頃に布団を這い出し、寝室を出る。事務所のソファでは藤田が寝ていた。そして、机の上には水差しにグラス。私は「ありがとう」と小声で呟いた。


「おかえりなさい。加藤さん。」

「ああ、ただいま。」

私が帰った時、藤田はいつも通りの笑顔で迎えてくれた。私は善人ではないらしいが、どうやらそう悪人でもないらしい。自身に向けられる笑顔、好意がとても安らかに感じられた。

あるいは、もしかすれば、彼女のせいだったかもしれない。

「私はしばらく眠らせてもらうよ。歩きっぱなしでね。やっと布団で寝られる。悪いがしばらく起こさないで貰えると助かる。」

「奥の部屋に布団が敷いてありますから、そちらでお休み下さい。」

慎ましく微笑む藤田に、桜の俤が重なった。名前では変わらないものもあるのかもしれないなんて、詩的なセリフが浮かんだりした。


 そんな事を思い出しながら、ベランダで一人風に当たった。涼しいと言えるほどでもなかったが、夜風が私の汗を乾かしていった。

 夜空に登っていく煙を眺めながら、私は一人、これから数日のほんの少しの休息を思って長く息を吐いた。


 ***


 調査資料 No.27

○追記:名捨て人の記憶について。

 北山翁と久方ぶりに邂逅した際、興味深い現象に遭遇。北山翁は娘の北山聡美/古川仁美の存在を忘れていた。翁の記憶は、自身には娘などはいなかったという形に上書きされていた。

 その後、板戸の古川仁美や、川越の山桐など、幾人かの“名捨て人”と接触をはかったが、彼らも等しく名前を捨てる以前の自身の過去を忘れていた。おそらくそれらは、世界から“なかったこと”になっている。

 付随して、記憶の上書きが完了している“名捨て人”の元から“以津真天”の像が消失しているのも確認された。

 名前を捨てれば、理想の過去を持つ理想の人間になれる。そんな世界がついに実現してしまった訳だ。


○魔王・加藤との接触

 終末教教祖・加藤から接触有り。闇の中で現れ、消えていった。宮司の代わりに現れたと言っていたが、宮司は一体どんな状況にあるのだろうか。そして、加藤は今どこに存在しているのだろうか。

彼は教団を「終わりを願う者達の集まり。名前を捨てて、夢を抱いて死ぬ者の集まり。」と称した。夢を抱いて死ぬ者の集まり、とは一体何を意味するのか。

それから、手がかりとも言いがたいが、彼の声を、私は確かにどこかで聞いた気がする。既に頭の中であやふやな記憶に成り果てているが、他に手がかりらしい手がかりもない。

彼のヒントがその言葉にはないとすれば、もし、私の仮説が正しいとすれば或いは…。

 

 ***

 

調査資料を書き終え、頭の中に書き留めておかなくてはいけない言葉を吐き出した私は、今度は白紙に単語を並べだした。


『令和地震』

『名捨て』

『終末教』

『宮司』

『桜守り』

『桜都』

『魔王・加藤』

『藤田桜』

『“以津真天”』

『記憶』

『相澤誠治』

『臨時政府の黒服たち』

 

 思いつくままに単語を書き連ねる。一つ一つの情報を、関連させながら。何が見えるのか。何が浮かぶのか。何があって、何が足りないか。


「何してるんですか?」

珍しく、藤田が机に向かう私に声をかけてきた。

「いや、最近起こった色々について考えていたんだが…。」

「私にも見せて下さい!」

「なんだい君、妙に楽しそうじゃないか。」

「探偵の助手みたいで、ちょっとワクワクしますね。」

「じゃあ、君にも手伝ってもらおうかな。」


 私は二人分の茶を淹れた。そして我々は応接机を挟んで向き合って座り、考える体制を整えた。表から『桜守り』の文字だけこっそり消してから。

「どう思うかね?書かれていることは分かるね?」

「はい。今の加藤さんのお仕事って、確か宮司って人からの依頼で、予言者・加藤を捜すとか、そんな話でしたよね?」

「まあ、そうだね。加えて、君の過去についてもまだ依頼は完遂できていないが。」

「そして、そこに辿り着く手がかりとして、令和地震と、相澤さんが聞いた東京の情報と、色んな謎がある訳ですか?」

「いや、間違っていないが、正解でもない。加藤捜索の依頼は私が抱える仕事であって、令和地震とその周囲の謎を探るのは私の趣味みたいなものさ。それにおかしいだろう?確かに、予言者加藤の捜索は、あの終末教という謎の組織と確実に関連はある。しかし、あの教団に手がかりがあるのなら、奴らが私に依頼をする必要がなくなる。」

喋りながら、私の頭は整理されていた。そう。どう考えたって、奴らは私より“予言者・加藤”について情報も、捜索手段も持っている。しかし、それを私に依頼した。「いつか加藤と巡り会う」そう、言ったのだ。宮司は。

 そして、過去がまやかしであると分かった時点で“私”は最早信頼に足る存在ではない。

 作られた存在。名付けた親も知らない名前“加藤平成”。

まるで世界が崩れていくような感覚がした。つい先日、自身の存在を揺らがされ、今度は、自分が自分である事すら否定されるというのか。

私は舞台装置だと言うのか?

 先走り、空回りする思考を藤田の笑いが止めた。


「それにしても、面白いですよね。探偵の加藤さんが、預言者の加藤さんを探しているなんて。」

「まるでミステリだな。」

「私、小説って読んだことないんですよね。」

「まあ、もしかすると今になって小説を読んだら、君はがっかりするかもしれないね。直面している現実の方がよっぽど小説みたいだからさ。」

藤田は笑った。

 世界は不思議で溢れている。世界は謎で溢れている。しかし、この世界の謎に、もし仮に、それを“仕組んだ”人間がいるとしたら。

 もし、この符号が偶然でなく必然だとしたら。


 ***


 それから数日の間、私はとある幻想に憑りつかれた。

 姿を見せた魔王・加藤。なんらかの理由で現れなかった宮司。聞き覚えのある声。私の過去。偶然の符号。

 一刻も早く、桜都に出向いて全てを宮司に問い正したかった。

 そんな私を止めたのは常に藤田桜の微笑みだった。

 もし、この世界から謎が消えてしまったら、幻想によって生まれた彼女はどうなるのか。私の中で、彼女を思う気持ちと、自身の過去を求める気持ちはぶつかり合って中和した。

 彼女は、決定的に他の名捨て人とは違う。他の者は、古い名と新しい名が同じ意識に混在する瞬間が存在し、理想の人間、新たな名前を持つ者に成り代わって行く。しかし、彼女は桜守りの参という存在によって意図的に作られた人格。その二つの意識は地続きではなく、次元の差がある。だから本来、彼女には名前がない。藤田桜は後付けの名前。それは理想とは違う。ただの記号でしかない。

 彼女の純粋さ、彼女の優しさ、それには底がないのだ。人の根底を形作る記憶。そんなものがなくても美しく生きることはできる。彼女は、そう証明する存在である。彼女は探偵じゃない。私とは違う。だから真実は隠されている。

 美しくあることは幸せか。彼女は空虚か。彼女に救われる私は偽物か。彼女に信実を隠す私は悪人か。

 そんな思いが勇む私の足を止めていた。


 ***

 

「君、今日は少し出かけようか。」

私はその日、藤田を町に連れ出した。


「今日は、どんな用事ですか?」

「すぐそこまでちょっと散歩さ。行けば分かるだろう。」

夏の日差しに照らされながら、私たちは川越の町を歩いた。

 私は、あとどれだけ一緒にいられるかも分からない彼女の現在に少しばかりの彩を添えてあげたかった。


「さあ、着いたぞ。」

「胡蝶庵?」

「仰々しい名だが、ただの古書屋さ。君、小説を読んだことがないって言っていただろう?家にいても暇な時間は多いだろうし、探偵の助手として、一冊くらい読んでおきたまえ。」

どうしてか、押しつけるような言葉になってしまった。どうせ、私の勝手な思いだから間違ってはいないのだが。

「本屋さんなんて、私初めて来ました!」

「まあ、近頃じゃなかなか見ない店だろうね。ほら、好きに見てきたらいい。」

私は彼女に財布を手渡した。

「いいんですか?」

「必要経費だ。」

藤田は書棚の並ぶ店の中に消えて行った。

私は店の外に置いてあった椅子に腰かけ、置いてあった団扇で仰ぎつつ、煙草をふかした。うだるような暑さの中、何故私は気分が悪くなりながらも煙草を吸ってしまうのか、考えたりした。


 ***


「やあ、加藤。旅の準備は整っているかね?」

相澤サンは、約束通り七日後にやってきた。

「勿論だよ、相澤さん。」

「コーヒー飲みたいんだが、あるか?それだけ貰ったら行こう。」

彼は無遠慮に事務所に入ると、応接用の椅子ににどっかりと腰を下ろした。

 不遜な態度がこれほど似合う男もなかなかいないだろうと思うと、私はこの悪友にニヤニヤしてしまった。

「今淹れよう。」

『土師堂』から分けてもらったコーヒーにはまだ貯蔵があった。

「藤田、君も飲むかね?」

「はい!いただきます。」

 

 真夏の昼間だと言うのに、相澤サンはうまそうに熱いコーヒーを飲んだ。砂糖をたっぷり入れて。

 藤田がブラックで飲んでいたのは少しばかり意外だった。

「君は、砂糖やミルクはいいのかい?」

「むかし、私が放送局にいた頃は、みんな水みたいにコーヒーを飲んでいて、私も飲み慣れまして…」

「美味しいものは多いに越したことはない。なかなか良い職場だったらしいな。」

相澤サンはそう言って笑っていた。

「それにしても、相澤サン。この時間から出たら、流石に夜までに高尾を超すのは難しい。どんなルートを予定しているか聞かせてくれるかい?」

「ああ、そうだ。言っていなかったね。探偵よ。俺の姿をよく見たまえ。」

相澤サンは両手を広げて胸を張って見せた。

「なんだい?相澤サンの体に何か変わった点でも…?」

「お前がそんなじゃ先が思いやられるねえ。ほら、お前達の首には何が掛かっている?」

私の首?かかっているものは汗を拭うタオル。

「ああ、汗か。相澤サン、汗をかいていないね。」

「そういう事さ。汗をかかない移動手段を用いて来たというわけだ。極秘のとある筋を使ってね。車を一台調達してきた。今から行ったって夕方には着くだろうし。それに、最悪、一晩くらい車中でもいいだろう?」

極秘の筋ってどこだい?という疑問は飲み込んだ。使える物は使ってから、そうしよう。

「東京へドライブとはまた洒落てるじゃないか。」

「この俺が運転手を買って出るんだ。ありがたく思えよ?」


 数十分後、私たちは荷物を抱えて、村の外れに止められた黒い自動車に乗り込んだ。

「シートベルトはしっかり締めておきたまえ。」

「意外だな。ルールは守る主義とは。」

「いいや。それは文字通りお前達の命を繋ぐベルトだ。」


 相澤サンはアクセルを思いっきり踏み込んだ。

 次の瞬間、開け放たれた窓から、生ぬるい風が恐ろしい音を立てて飛び込んできた。


 ***


 「ああ、もう腰が全くダメだ。相澤サン、あんたドライバーは向いてないよ。」

私は車のドアに手をついて腰をさすった。

「日が傾き始めたこの時間に、ここに着けているんだ。文句は言うな。」

相澤サンは、悠々と伸びをしていた。

「それに、俺はちゃんと下調べをしているからな。高尾山には複数の登山コースがある。おそらくここから登るのが最短だろう。ちょっと急だが、体力は余ってるよな?」


 相澤サンは最初、悪路を出来るだけ直線で進んでいった。目指す先は東京、武蔵野か三鷹あたりに着くだろうと言いながら、兎に角進んでいった。

「加藤お前、高尾の山から桜の海が一望出来たと言っていたね?」

「ああ、間違いない、が、」

「見えてきた景色は、一面灰色だな。復興も再生もない。崩壊した東京だ。」

「しかし、私の見た桜は、視界いっぱいに広がっていた。距離はあるとは言え、障害物もないこの瓦礫の世界で視界にも入らないなんて、そんなはずはない。」

「まあ、一筋縄で見つかるとも思っていないさ。次は、お前の行ったとおりのルートで行こうか。」

「高尾か。…相澤サン、ここからはもう少し優しく運転してくれないかな?」

「ほら、見たまえ。藤田君なんか後ろでぐっすりだ。君もあの図太さを見習うと良い。」

「あれはまた違う作りの人間なんだよ多分」

「さあ、行こう」


そんな話で、結局私たちは高尾を登りだしたのである。

相澤サンが指定した登山道は確かに速かった。

「本来であれば、ロープウェーがあって、スイスイ登れたらしいがね。」

「まあ、相澤サンには必要だったかもしれないな。」

「大丈夫ですか?相澤さん。」

実際に登山を始めた時、最も登りが遅いのは相澤誠二その人だった。

「先ほどまでの余裕がないじゃないか。」

「いいから黙って先を進みたまえ。先陣を切るのはお前らに任せているんだ。」


 次第に日は落ちかけ、あたりも薄暗くなってきた。

「ほら、相澤サン、山頂はもう少しだ。」

「加藤、腰痛いんじゃなかったのか?」

「私はむしろ元気になってきた気がするよ。」

相澤サンは返事をする気力すらないらしい。


 やっと山頂にたどり着いた時、周囲はほぼ闇の中に沈んでいた。

「どうだ?何が見える」

「ほら、相澤サンも早くこっちに来ると良い。」

相澤サンは肩で息をしながら遅れて追いついた。

「ああ…。こいつは見事だ…。」

 

果たして、眼前に広がる世界は真っ白に輝いていた。

「それで、ここから下るのかい?」

「いやあ、ここまで来れば、ヤツが接触してくると思ったのだが…。」

私が藤田の方を見やると、彼女は首を傾げた。

「自力で下るしかないらしい。」

仕方なしに、我々は山を下り始めた。

 

山の中腹に至ったころ、視界の先に、小さな灯が動いた。

「待て。何か来る。」

私たちは身構えたが、現れたのは宮司その人であった。

「やあ、加藤君。君は本当に、そういう所は、変わらないね。いつも急だ。」

宮司は肩で息をしていた。珍しく焦った様子である。汗ばんだ髪をかき上げる仕草が相も変わらず艶めかしかった。

「いつもみたいに魔術めいた力を行使すれば良かったじゃないか。」

「君ねえ、色々言いたいことはあるが。まあいいさ。そちらは相澤誠二だろ?随分と久しぶりだ。私が“終末教”宮司さ。」

「やっと会えたらしいな。」

「そして、藤田君だ。先日は長々と体を借りて悪かったね。お風呂には入っていないから安心してくれたまえ。」

宮司は私の方に小さくウィンクした。全て聞いていたぞ、とでも言いたいのか。

 藤田の方はおそらく赤面して俯いていたことだろう。それくらいはもう見ずとも分かる。

「さあ、下山しよう。」

宮司の火が我々を先導した。

宮司はかなり早いペースを保って下って行った。藤田はそれなりについてきていたが、相澤さんは少しずつ遅れをとった。

「宮司、悪いが少しペースを落としてやってくれないか?」

「加藤君。悪いが、あまり時間がない。私の話に付き合ってくれ」

「じゃあ尚更、ペースを落とそう。話しながら降りるには些か厳しい。」

「悪いが、今の私には君に話すべきことと、君に隠すべきことの両方がある。しかし、時間がない。兎に角聞きたまえ。」

宮司の言葉には、いつもの余裕がなかった。「世界から、記憶がなくなりつつある。これから世界は夢の中に眠る。人々は理想の夢幻の中に生きていく。私たちの目指した終末が訪れようとしているんだ。

 そして、終末が訪れた世界に、“私たちはいらない”。」

「待て、記憶というのは、“名捨て人”の事だな?それは知っている。ただ、もう少し噛み砕いて話してくれないか?理想って、お前たちがいらないってどういうことだ?」

「安心したまえ、君は私の言葉をすぐに理解する。そういう定めなのさ。いいかい?もう一度言うが、終末が訪れた世界に私たちはいらないんだ。だから君が必要なのさ。探偵が。」

「やはり私も含めて、全てがお前たちの描いたシナリオ通りな訳か。」

「君、加藤に会ったね」

「会ったと言うのかも怪しいがね。」

「君は賢いから、気づいただろう君自身の謎に。しかし答えは出ていない。」

「流石だな。今日はそれを聞きに来た。」

「安心したまえ。君はついに辿り着いたよ。我らの全てを打ち明けるべきところまで。ある男が全ての答えと共に君を待っている。」

「あいつか。」

体が、心が奮えた。全てを語るに足る男には、ただ一人以外に心当たりはなかった。

「世界を描く男さ。君はもう知っているね。その男に会って、君は啓示を受けなきゃならない。さあ、あまり待たせると私が怒られてしまう。

 今日だけは、桜は夢を抱いて咲き誇る。さればこそ、夢と現は抱擁する。別れの挨拶は残していくものに、そして旅立っていくものに。美しき幕引きと行こう。加藤。」

宮司は祈りのようなポーズを取った。すると私の意識が体を追い越し、一瞬の後に眼前には桜の幹が現れた。

 私はまるでそれが作法であるかのように右手でその幹に触れた。触れた途端、視界はホワイトパズルのピースが噛み合っていくようにパタパタと白く消し飛んだ。


 ***


 純白の世界の中で、男は以前と同じく俯いて紫煙を燻らせていた。

「やあ、来たかい?平成。」

「やはり、他人を加藤と呼ぶのには抵抗があるのか?」

私は魔王を笑った。

「君の嫌味な性格を、否定する権利を持ち合わせていないのが無念だね。さあ、答え合わせの時間だ。君の手に入れた真実を聞かせてくれ。」

 私はゆっくりと深呼吸した。私が見てきた世界を思い、私が向き合った謎を思い、手に入れた手掛かりを思った。

 この数日、この瞬間を考え続けた。言うべきことは決まっていた。


「預言者、教祖、魔王、いくつもの呼び名を持つ男、加藤よ。


…お前は私だ。」


魔王は面をあげた。

「ご名答。」

そこに表れた顔は、私そのものだった…。

「なかなかいい答えだ。『お前は私だ』。順序を考えたら普通、『私はお前だ』って言うんじゃないか?だがまあ、それだけ言えれば安心だ。やっと、辿り着いたな。」


私の手に入れた真実は、ついに肯定された。その事実に興奮した私も一本の煙草に火をつけた。

「だが、分からないこともある。お前たちの描いた絵を、きちんと説明してもらおうか?」

「いいだろう。ゆっくり聞き給え。」

魔王はあっさりと私の要求を呑んだ。

「いつもみたいに、語るべき時ではない、とか言わないのか?」

「残念だが、そんな時間は残されていない。それにお前は十分に資格を手にした。まあ、大した話でもないのだ。ある男の夢の話しさ。


その昔、世界の終末を望んだ男がいた。彼は初め、自殺を望んだが、そう簡単にはいかなかった。彼には家族があり、友があり、生きてきた人生があったのだ。何か理由が欲しかった。彼の死を彼ら全員が納得するような理由が。そこで気づいたのだ。彼は死にたいんじゃない。正しくは彼という存在をこの世から消してしまいたいんだと。

 しかし、そんなことが出来る筈はない。当たり前に、世界は複雑だ。仕方なしに、彼は望む世界を原稿用紙の中で描いた。現実逃避だな。

 すると、不思議なことが起こったのだ。彼は自分が描いた小説と全く同じ内容の夢を見るようになった。そこでは、私はとある教団の教祖をやっていて、東京の隅で桜を愛でてくらしていた。そして、少しずつ少しずつ私は眠っている時間が多くなった。私は恐ろしくなった。この夢の世界は、現の世界で私が描いた世界を基になりたっている。もし、現の世界の私に帰ることが出来なくなれば、この世界はある一定のところから先に進めない世界になってしまう。それを回避するためには物語を他者に明け渡す必要が出た。

だから、一人の男を作り出した。私であって、私でない存在。世界の中に在って、世界を紡ぐ存在。名前には終わりゆく時代を選んだ。

 そしてあるとき、遂に私は元の世界に帰れなくなってしまった。

 だが、世界は順当に私が書いた小説の筋に沿って進み、人々には救いが訪れた。東京は崩壊し、人々は繋がりの社会から解放され、世界には不思議があふれ、そしてやっと、この世界の人々の夢それぞれが現実を書き換えるまでに至った。

 そして今日、君は私に辿り着き、世界の秘密を知った。

そして、今日こそが、私の書いた最後の章、『焔立つ魔都』が終わりを迎える日だ。私も、教団も、この世界から消え去る。


ここまでが、私の描いたこの世界の秘密の全てだ。」

話し終えたとき、魔王の指に挟まれたタバコから、燃えつきた白い灰がポトリと落ちた。

私は、しばらくの間、彼の指の間に挟まれた吸殻を呆然と眺めていた。


「どうだ?理解は追いついているか?」

魔王は、気楽な調子で語りかけてきた。まるで、肩の荷を下ろしたかのような態度が妙に気に障った。

「…追いつくわけないだろう?俺は今、自分が作りものだって、そう言われているんだぞ?」

「いいや。違う。」

「違わないじゃないか。今、お前が自分で語ったんだ。まさか、魔王の荷を下ろして、記憶まで捨てたのか?」

「いいや。違う。この世界はもう、私の手を離れて君のものになっているんだ。」

「お前は、そういうしかないだろうよ。この世界から消えた後、私に未来を託すしかないんだから。」

「落ちついて聞けって。違うんだよ。俺が書いた世界はもう終わってる。お前の世界は始まっているんだ。その証拠がある。お前、さっき俺に答えを聞かれたときなんて言った?」

「なんの話だ?」

「お前はな、『お前は私だ』って言ったんだ。でも俺が書いたセリフは『私は、お前だ』だった。これは確かだ。既に、これは君の物語だという確固たる証拠だ。お前を生み出したのは確かに俺だが、最早、お前は俺の産んだ登場人物ではない。」

「そんな事で、私の慰めになるとでも思ったか?」

「悪いが、君には理解してもらう他ない。それに、君は生き続けなきゃいけない。君は、相澤に、藤田桜と桜守りの参の事を言っていないままのはずだ。だから、今夜の桜都崩壊の中で、彼女は藤田桜として生き延びる。悪いが、君の持っている彼女への好意だけは、きちんと書かせてもらった。彼女を捨て置いて死ぬことは出来ないだろう。」


 言葉も出なかった。頭が一杯なのに、奴の言葉を理解し、飲み込んでいく作られた自分がいた。そして心には強い怒りと、虚しさと、悲しみと、そして恐怖だけがあった。全てが偽物へと変わっていく恐怖はやがて理性を上回り、私を支配した。

 絶叫した。

 絶叫して、地を蹴った。真っ白な世界をまっすぐに進み、そして私は拳を目の前の魔王に叩きこんだ。

 拳にあたった感触は、私の予期していたものとは、全く違っていた。

 魔王の肉体は、弱々しく私の腕にしなだれかかった。

「俺の夢を、繋いでくれ。探偵、加藤平成…。」

崩れ落ちた体が次第に世界に溶けていくと、白く輝く結界は上空からばらばらと崩壊していった。


「謎が解かれた世界で、探偵に何をしろって言うんだ…。」

出てくるのは皮肉の言葉だった。私はそういう存在として設定されているのだろう。握りしめた拳の中で、手のひらに爪が食い込んだ。

 どれだけの怒りをもってしても、食い込む爪は痛かった。

 しかし、私には痛みは、本物か、偽物かそれすらも分からなかった。

それでも、開いた手の平には赤い血が滲んでいて、それだけは本物と信じたかった。


だが、私が私の事を考えるために費やせる時間は長くはなかった。

真白い壁が崩れ去って、姿を現した桜都の桜は、そこかしこで赤々と燃えていた。


***


 最初に頭をよぎったのは、「藤田はどこだ」の文字だった。

 悔しいが、確かに私はあの純粋な女を好いていた。その思いについて考えるのは、後だ。まずは、彼女を探さねば、救わねばならない。

 私は藤田の名を叫びながら桜の森を駆けた。


 駆けながら分かったのは、どうやらこの火は上空から落とされているらしい。しかも、何故か火矢で、ということだ。

 時折、轟音を立ててヘリが飛ぶのが見えた。しかし、乗り物がヘリだと言うのに爆撃や射撃の類いはしない。開け放たれた窓から細い線が飛び、そこから火の手が上がる。敵が何故こんなに馬鹿げた組み合わせで襲撃しているのか分からなかったが、火の手が遅いのは私にとって好都合だった。


 走り疲れて、息を整えているとき、桜の木々の間に相澤サンの姿が垣間見えた。

 その時、余りに情けなく走る相澤誠二の姿によって私は悟った。この襲撃者、桜都に破滅を齎す者たちの正体を。

 奴らは、おそらく相澤誠二が手引きした新政府の者たちだ。桜都に敵を招き入れたのは、元を正せば言えば紛れもない私だったのか。

 しかし、ショックを受けている余裕はなかった。

 相澤サンの情けない走り方は、何かを追っている狩猟者の走りではなかった。あれはその手で誰かに止めを刺した逃走者の姿だった。


 私は、相澤サンが駆けてきた方向を目指して駆けた。足がもつれ、胃の中の何かが込み上げてくるほどに息も乱れていたが、私は走った。


 辿り着いた一本の燃え上がる桜の根元には、白い作務衣姿の美しい人が目を瞑って倒れていた。作務衣の胸には矢が一本深々と突き刺さり、真っ赤な染みを作っていた。

 私は、疲れも忘れて、死を迎えようとしているその人、宮司に駆け寄った。

「おい、!」

起きろ、という言葉は、続かなかった。走り続けて、急に止まったせいで、吐きそうになった。宮司の体を再び桜にもたれかけ、私は呼吸が整うのを待った。


「ああ、加藤君…だね。」


背中に投げられた言葉は弱々しく、いつもの饒舌なその人のものとは思えなかった。

「生きているか、宮司。」

「まあ、…すぐ死ぬがね。魔王には会えたかい?」

「ああ。会ってきた。全て聞いたよ。」

「なら安心だ。私の愛すべき友人の最後の頼みだ。よろしく頼むよ。それから、君、桜守りを、頼んだ。」

「…、ああ。任せろ。」

歯と歯の間から絞り出すように、そう答えた。死を目の前にした人間に、長々と文句を吐くのは、私の美学に反した。

「あと、最後に教えておこう。私は女だ。」

宮司は、ニヤリと笑った。まるで死の気配など感じさせない、美しい幸福の象徴のような傲慢な笑顔だった。そして、そのまま私の腕の中で彼女は息を引き取った。

 私は桜の根元に彼女の遺体を横たえ、小さく手を合わせた。彼女らの作法など知らない私はただ、宮司と名乗ったその人の死に寂しさだけを贈った。

 彼女は、どこまで何を知っていたのだろうか。

 

いや、今は藤田を、探さなければ。


 ***


 私は、さらに森を駆けた。いくら遅いとは言え、いい加減、火の手も回ってきている。そろそろ見つけないと、二人ともお陀仏だ。


 めちゃくちゃに走りすぎたせいで、もう自分がどれくらい深いところにいるかも分からなくなってしまった。

 立ち止まって、息を整えて、周囲を見渡す。前も後ろも右も左も、見えるのは赤々と燃える桜の木だけ。

 藤田…、お前はどこに…。もしかしたら、まだ桜都に入る前にこの襲撃が始まって、既に逃げてるかもしれない。もしかしたら、相澤サン、いや相澤に既に…。

 幾つもの可能性が頭の中を回った。

 

 絶望の中で、私は膝をついた。希望を失った途端に、全身が萎えてしまって立ち上がれなくなった。

 喉が渇いていた。手足が震えていた。呼吸の音がおかしかった。

 

 空から、何かが降りてくる羽音がした。しかし、私には上を向く気力もなかった。

 私の視界まで降りてきたのは、小さな怪鳥だった。

 グロテスクな鬼の面、竜のような鱗のある体に鳥の羽。“以津真天”だった。

 崩壊していく桜都に残された、最後の使者だろうか。

 怪鳥は、私に向かって嘴を開いた。

「以津真天!」

「お前は、本当にいつまでって鳴くんだな。」

怪鳥は、羽を広げてほんの少し羽ばたいた。いつまで、座り込んでいるんだ、とでも言いたいのか?

「藤田桜の基へ、私を導いてくれるか?」

今度は鳴かなかった。代わりに、怪鳥は飛び上がり、数メートル先のまだ火の手に侵されていない一本の木に留まった。

 私はまだ、生きている。どうせ大した命じゃない。行けるさ。

 太く長く息を吐いて、膝を押して立ち上がる。奮えて、行くのだ。


 ”以津真天“を追って、私は走った。彼の怪鳥は人間に合わせる気などないらしい。次々と木々の間を飛んでいく。

 しかし、もう立ち止まることはなかった。倒れるまで走れる。そう言い聞かせて、私は感覚でなく、頭で一歩一歩集中して足を運んだ。


 しばらく行くと、水の音がした。ありがたいことに怪鳥は水の音のする方へと飛んだ。

 川辺に辿りついた時、私は顔を水面につけて喉を鳴らした。これだけの火災の中だ。どう考えたってまともに綺麗な水じゃない。だが、その水はどんな飲み物より甘く澄んだ味がした。


「ありがとう。加藤さん。」


 水を飲んでいると、上から声がした。顔を上げる前から、その声を聴いた時から、私にはそれが彼女だと分かった。

「ああ、良かった。…君に会えた。」

彼女は膝をついてかがんで、淑やかに微笑んでいた。

「ごめんなさい。加藤さん。あなたの求める私は、今はおりません。」

「あなたは、桜か?」

「はい。藤田桜が、私を呼んでくれました。あの子は、何も知らないはずなのです。それなのに、襲撃が始まると迷いもせずに真っ直ぐ桜の幹に触れ、私を呼びました。」


藤田桜は、桜守りに既に体を明け渡しいていた。だが、悩んでいる暇はない。

「まずは、生き延びよう。」


 私たちは二人、再び走り出した。


 ***


 “以津真天”の道行に従って走ると、森の端まではすぐだった。

 私は、森の入り口付近を延々と走り回っていたらしい。

入り口付近で、倒れている人間がいた。作務衣姿じゃない。その洋服には見覚えがあった。駆け寄った私はその男の腹に思いっきり蹴りを入れた。

蹴られた体は、呻いて目覚めて、私はその男を問い詰めて。そんなつもりだったのだが、力のない体は虚しく大地を転がった。

転がっていたのは、相澤誠二の死体だった。

この男も、既に用済みだったか。

 私の知る不遜な相澤誠二が、怯えて苦しんだ顔で死んでいることが少しだけ哀れに、悲しく見えた。


相澤の死体は仕方なくそのままにした。死人を背負って逃げる余裕はない。

”以津真天“は、入り口の木に留まって、静かにこちらを見ていた。あいつはおそらくこの森と共に消え去るのだろう。

「森を出ようか、桜。」

私は彼女も来るものと疑わなかった。しかし、背後で彼女が足を止める気配がした。振り返ると、桜はまっすぐにこちらを見つめていた。

「その前に、ほんの少しだけ、私に時間をくれませんか?」

彼女の目には、口調とは裏腹に有無を言わさぬ強い意志が見えた。

「君が頼むくらいだ。逃げるより大事なことなんだろ?」

私は半分投げやりに言った。しかし桜は、真剣な面持ちのまま言葉を紡いだ。

「ありがとうございます。

宮司様に会って、加藤様に会って、全てを知ったあなた様に私が伝えることなんて大して残っていませんが、いくつか。お願いを申し上げたくて。」

「お願い?」

「まず、一つ。加藤さん。おタバコはお気をつけくださいね。あなたが今持っているタバコ、どこで入手したものか知りませんが、白檀の香りがいたします。魔を払う清浄なる香り。あなた様の持つ魔の力を発揮するには邪魔なものです。」

「この、煙草が?」

そういえば、宮司が私に接触してこなかった理由。聞きそびれていた。相澤の妨害だったとは、気づかなかった。

「ええ。あな様は私たちの夢を継ぐ御人。ご自愛ください。無責任なお願いですが、私たちは加藤様に救われ、加藤様の望む夢に惹かれ続けて生きてきました。

 名前を捨て、夢を抱いて死ぬ女が、こんなことに執着を持つのはおかしな話かもしれませんが、それでも、あの方の夢だけを支えに、私は日々を暮らしてきたのです。どうか、後の世界を憂う傲慢を、お許しくださいませ。」

言い終えると桜は、立ち上がって私に向き合った。しかし、彼女が見ているのは私ではない。もっとずっと懐かしく、もっとずっと愛しい誰かを見ていたのだろう。そんな視線だった。

「それから、喋りすぎたついでにもう一つ。これが、私の最後のお願いです。」

 桜は、笑顔に戻った。いつもの淑やかな笑みとは違う、無邪気でいたずらな少女のような笑みだった。

「藤田桜は、あなたをお慕い申しております。出来た娘ではありませんが、どうぞお傍においてやってくださいませ。」

「藤田は、君と引き換えに消えたんじゃないのか?」

「彼女は確かに私を呼びました。しかし、消えるべくは私の定め。」

桜はひたひたと、足音も立てずに森の外へと歩み寄り、私の方へ、くるりと振り向いた。

「加藤さん。然様なら。」

彼女は笑顔のまま手を振り、後ろに一歩踏み出し、そのまま倒れこんだ。

「桜…。」

私は倒れた彼女に歩みより、抱きかかえた。桜が消えたことは、もう私にも分かった。まもなく、藤田は目を開いた。

「おかえり、藤田。」

「加藤さん…?私、何故?」

相変わらず、桜の記憶は彼女の中にはないらしい。

「藤田、逃げるぞ。君を死なせるわけにはいかない。」

「はい…。」

寝ぼけたような顔のまま、立ち上がった。そして、眼前に広がる業火を前に悲鳴をあげた。

「逃げましょう!加藤さん!」

私の手首を掴んで、彼女は一目散に目の前に広がる安全地帯。高尾の山に向かった。

 なんだか、笑ってしまった。


 背後の木を振り返ったが、先の“以津真天”は既にいなかった。


 ***


 私と藤田は勾配の急な斜面をよじ登った。焦る藤田桜を御しながらの登山には、疲れなど感じる余裕はなかった。

「加藤さん、急いで!笑ってる場合じゃないですよ!」

「勿論だ、手足は必死に動かしている。」

「なんでそんなに余裕なんですか!」

必死に逃げる藤田に、私は気づけば笑っていた。私が笑えば、藤田は焦って怒った。生き延びるために必死になって山を登る藤田は、あまりに平凡で正しい姿に見えた。死を受け入れた人間たちに囲まれて、それを当たり前のように受け入れていた私にとって、それはとても快く見えた。


「はあ、ここまで来れば大丈夫でしょうか…?」

やがて頂上に辿り着いた時、彼女は地面に寝転んだ。

「桜都とこの山との間には瓦礫の壁がある。風もないし、ここまで火が移ることもないだろう。」

本当は、そんな理屈なんか関係なかった。あの火は、桜都のみを燃やし尽くす。私にはそんな確信があった。


頂上から見る世界には、死の匂いなど感じさせないほどに、赤々と燃える火だけがあった。

「綺麗ですね…。」

「夢の跡、だな。」

私たちはいつまでも、燃える桜都を見つめていた。


「私、さっき桜の木の下で、夢でいつも見ていた女性に会えた気がするんです。」

藤田が唐突に呟いた。

「自分にそっくりだっていうあの人かい?」

「はい。その人に言われたんです。『あなたは生きなさい』って。

所詮夢の中の話ですし、何故って聞かれたら分かりませんけど。多分あの人は私で、私はあの人に私の体を返さなきゃって思ってたんです。

 …でも私は今、ここにいて…。」

藤田は、涙を流していた。

「いつか同じことを言ったがね。君の感情は君のものだ。横やりを入れるのは無粋だろう。だから、私は私の気持ちとして一つだけ言わせてもらうけど。私は、君が今ここにいて、藤田桜が生きていて…、いや、こんなの…失礼な話だろうか…」

「聞かせてください。」

言い淀む私に、彼女は叫ぶようにそう言った。だから私は駆け引きをやめた。

「君が生きていてくれて、私は本当に、心の底から…、嬉しいんだ。」


「私は…、過去もない、偽物かもしれない私は、生きていて良いんでしょうか。」

「誰が何と言おうと、私には、“藤田桜”が必要だ。きっと約束しよう。君が生きていていいのか、なんて二度と考えないくらい、生きていて良かったと思わせると。」

藤田は声を上げて泣いた。彼女は彼女として過去に触れ、自身の在り方に悩み、そして残されたのだ。


 私は、泣き叫ぶ藤田の手を取った。彼女はいつまでもいつまでも泣いていた。私は初めて聞く彼女の泣き声を、いつまでもつまでも隣で聞いていた。


 ***


 夢と現とが溶け合って抱擁する。

 魔都は理想の中へ崩れ行く。


 焔立つ桜の海にて、私は世界の成り立ちを知った。

死せる男の夢が、私の現になり替わる物語は終焉を迎え、夢に描かれし私の現の物語は尚も紡がれる。

 

 崩壊の行く先は如何なるものか。


 夜の山から一筋、白檀の煙が立ち上る。

 魔を抱き死せる者たちを、冥府へ送る餞に。

 呪を抱き生ける者の、心を晴らす慰みに。


 ***


翌朝、目覚めると、桜都は消えてなくなっていた。

燃え尽きた訳ではなかった。

視界一面に広がるのは灰色。瓦礫の山。

そこには、崩壊したままの首都・東京の姿があった。


幕間 記憶二〇二〇/〇三/三〇


「やあ、君。少しばかりお邪魔していいかな?」

「あら、加藤様!勿論ですよ。今お茶出しますね。」

女は慌てて奥へと走っていった。そして、男から見えないように背を向けて、そっと自身の髪を撫でつけた。


「君の家は、禁煙だったかな?」

「そうですよ。加藤様ももう少し健康に気を使わないと。教祖様なんですから。」

女の小言を、男は笑った。

「君ねえ、俺たちがやってるのは崩壊を願う“終末教”だぜ。健康と健全を快楽に変えて吸い込むなんてのは、むしろ奨励されるべきことだ。」

そんな話をしながら、茶を運んできた女はそっと男の向かいの席に座り、そして視線をそらした。その頬が少しだけ赤くなるのを、男は見ないふりした。

「それにしても、お忙しいんじゃないんですか?てっきり祈祷でもしているものかと。」

「君はまだわかっていないらしい。私はただ知っているだけだ。別に地震を呼ぶ能力があるわけじゃあない。どうせ来るものは呼ぶ必要なんてないのさ。」

「まあ、仕組みなんてなんでも良いんですけどね。…やっと、終わるんですね。縛られた人々の、死ねない日々は。」

女は少しだけ伏し目がちになって、表情を曇らせた。

「もう、不幸な人の出ない世界は目の前さ。君の友のようにね。」

「私はもう、桜守りの参です。それ以前のことなんて捨ててしまいましたよ。」

「どうせ、私たちはもう少しで思い出す記憶も失うんだ。別れを惜しむくらいは不問にするさ。」

二人は少し沈黙した。女は記憶を探るように遠い目をしていた。


「今日はね。君にお願いがあって来たんだ。」

男は再び口を開いた。

「私にできることでしたら。なんなりと」

「俺は、今から世に下る。そして俺は俺でなくなる。いつか、世界が終末を迎えた時に、それが、救いである為には、私ではない私が必要なんだ。」

「いつもながら難しい言葉で話しますね。」

女の軽口に、男は一瞬だけ口角を上げた。

「君にとっては、仕組みはどうでもいいんだろうね。悪かったよ。単刀直入に言う。私のために、未来を捧げてほしい。記憶を捨て、別人になった私を、いつかここに連れてきてくれる楔が欲しい。地震の後、記憶を捨て、この村を出てほしい。そうすればいつか俺と君は再会するはずなんだ。」

「記憶を捨てて、ここを出れば良いんですね?いいですよ。」

言葉を尽くして長々と話した男に対し、女は即答した。

「いいんだな?俺は、君自身で君という存在を捨ててくれ、と言ってるんだぞ?」

「どうせ名前と一緒に一度捨てた人生です。一度も二度も大差ないでしょう。それに、私はあなた様の描く未来のために働くことを人生と呼ぶ覚悟でここにいるのです。どこまでも、お供します。」

女は笑顔でそう言った。

「ありがとう。参。」

男は、真っすぐに女を見つめた。女は、一瞬だけ視線を泳がせてから、目を合わせた。

「君がいてくれて、本当に良かった。

では、然様ならだな。俺はもう行かねば。」

「然様なら、なんて真面目な顔で言ったら、もう会えないみたいなので、私は言いませんよ。またいつか。加藤様。」

男は、ただ微笑んで去った。


 残された女は一人涙を拭った。自身に課された使命が怖ろしかったのではなかった。

男が最後に残した言葉が、いつまでもいつまでも彼女の心に深く突き刺さっていた。



四/新章 ハッピーエンド


丸一日かけて、私と藤田は川越まで歩いて帰った。

私は相変わらず探偵屋の加藤平成で、彼女も変わらず依頼人で探偵助手の藤田桜だった。それで十分だった。私の見ている世界の法則は変わってしまったが、彼女は私の傍らに変わらずいて。その微笑みが見ていられるなら、それだけで良いと思えた。

私は少しだけ、怖かった。世界と共に彼女の愛の根底を知ってしまったから。もし、私が愛を告げたら、きっと彼女はそれを拒まないだろう。最早、ここは私が描く世界なのだから。

藤田桜は、常に私の思考の外側にいて、予想外な姿を見せてくれる。誠実で純粋で、頭より心が先に動く人だ。でも、それすらが、私の描く理想像だとしたら…。

良くも悪くも、どちらにでも転ぶ想像は全て悪い方へ転がり落ちていった。


「大丈夫ですか?加藤さん、すごい怖い青してますよ。」

「ああ、いや何でもないよ。少し疲れただけさ。」

「それなら、良いんですけど。やっぱり、どこかで一泊してきたほうが良かったですかね…?」

「家の布団で寝たい、と言ったのは私さ。君こそ、疲れていないかい?」

「私は…、その…、昨晩はほとんど寝ていたようなものなので…。」

彼女は恥じらいを見せた。

「じゃあ、元気な助手に荷物をお願いしようかな?」

「気が利かずにすみません!持ちます。」

「冗談に決まっているだろう?ほら、もうすぐのはずだ。頑張って歩こう。」

「重かったらいつでも言ってくださいね!」

幸せと虚しさの間で、それでも笑顔を浮かべる私は…。


 ***


 やっと辿りついた事務所の表には、一台の黒塗りの車が止まっていた。

「相澤サン、ですかね?」

「いや、違う。」

そういえば、藤田は相澤誠二の死体を見ていないのか。

「藤田、ちょっと君、土師さんのとこで待っていてくれるか?」

「分かりました。」

私の緊張感を察したらしい。藤田は何も聞かずに土師堂へ向かって歩き出した。

 どう考えたって、あの車は新政府絡みの人間たちだ。事務所の場所はおそらく相澤から聞いたんだろうが、一体何を目的に来たのか。いや、桜都が滅んだ今、首魁とも言えるのは私であって、ここに待ち伏せるするのは大正解だが、奴らがそんな事まで知っているはずがない。

 正直、今の私には疲労と眠さしかないが、仕方あるまい。


 私は咥え煙草姿で、我が家に乗り込んだ。


「やあ、加藤くんだね。権力者がお邪魔しているよ。」

スーツの男は、私のデスクに座って、引き出しを漁っていた。

「随分横暴だな。目当ての物は見つかりましたか?」

部屋にはスーツ姿の男が他に二人、入り口の扉を塞ぐように一名。そして先ほど声をかけてきた男の背後に一名。

 上空からヘリで放火してくる奴らだ。何を武装しているかは分からない。下手に刺激するのは避けた方がいいだろうか。

「いや、大したものは見つからないね。あ、へそくりは見つけたぞ。」

男は茶封筒を手にへらへらと笑った。

「それより価値のある物なんて、家にはありませんけどねえ」

「お役人様にとって賄賂は厳禁だ。免職は勘弁だからね。これは取らないでおいてやる。まあ、早く座れって。」

私は仕方なく来客用の椅子に腰掛けた。

「まずは、名乗ってもらえますか?」

「ああ、悪い悪い。俺は渕上と呼んでくれ。部下の方は喋ることもないだろうし、知る必要はないさ。」

「渕上さん、ね。私の名前は既にご存じでしょう?」

「おいおい、俺は君と初対面なんだぜ?まあ、名乗る気がないなら、便宜上…“加藤”とでも呼ばせてもらおうかな?」

「加藤ですか、なかなかいい名前だ。気に入りましたよ。」

渕上はまたへらへらと笑っていた。

「それで?目的を聞かせてもらえますかね?」

「まあ、焦らずじっくり話そうぜ。これは、極秘なんだがね。俺たちは、この国の政府の人間だ。俺たちは東京の再開発を目指してる。だが、不思議な事に、俺たちはつい先日まで“東京に入れなかった”。」

「東京に入れなかった?」

「ああ。もしかすると、君には信じられないかもしれないがね。幾度となく視察を試みたが、我々が東京付近に近づくと、詳しく言えば、崩壊した地帯に足を踏み入れると、気絶してしまうんだ。目が覚めた時には、何故か必ず関東の外側にいた。不思議だろう?まるで魔法だ。」

「確かに、信じがたい話ですねえ。」

「それで困っていた時に、私たちはある男に出会った。相澤誠治、実は君の友人は世界を救うため、我々に協力するスパイだった。彼は一般人だが、我々よりずっとこの世界に詳しくてね。色々と教えてくれたよ。新たな世界の常識”名捨て“の事とか、怪しい宗教団体の事とか、それから川越の探偵さんの事とかね。」

渕上の視線に答えるのは癪だったので、私は煙草に火をつけた。

「いい香りだ。白檀でも混ざっているのかい?」

「気に入ったのなら、差し上げますよ。とある筋から入手したレアものでしてね。」

渕上は一本とって旨そうに吸った。

「素晴らしいね。祓魔の清浄な香りだ。」

面の皮の厚い男である。

「話を続けていただけますかね?」

「ああ、失礼。私たちは相澤誠治から得た情報を基に、教団の掃討作戦を立てた。桜都という真の東京に我らを誘ってくれる存在がいるという、俄には信じがたいネタだったが、オカルティックな現象はもう散々見ちゃったからねえ。信じるほかない。君もそう思うだろ?」

「それで?」

「もう少し会話を楽しもうぜ?まあ、いい。オカルトにはオカルトだ。俺たちは太平記で“以津真天”を討ったとされる鏑矢に因んで、大量の火矢を用意し、乗り込んだ訳だ。そうしたら、本当に姿を現したのさ。真夏の東京に、一面桜の森が!私たちは、ついにそれを焼き払った、めでたしめでたしという訳だ。」

渕上は、大仰に両手を叩いた。

「質問と、回答が合ってませんが?私は、『私の家で私を待っていた目的』を聞いているんですが?」

「まだ続きが有るから、安心しろ。これは本当に残念なことだが、その火災で我が友、相澤誠治が消息不明になっていてねえ。東京の桜は焼き払ったが、あの桜の森と教団について私たちに全てを語ってくれる人間がいなくなってしまった。君は何か知らないか?」

「残念ですが、何の話だかさっぱり分からない。その答えを求めてわざわざ私のとこまで来てくれたのなら、申し訳ないが、無駄足だったと言わざるを得ない。」

「少しは饒舌になってくれたようで嬉しいよ。まあ、こちらとて、君がそう簡単に全て教えてくれるとは思っていないさ。それに、正直もうオカルトには懲りたし、出来れば政府の評判は今、落としたくない。君一人消すくらいどうってことないが、それはなしだ。」

「興味本位だが、それはどうして?」

「この世界ではおかしな事が起こっていると聞いていてね。人々が名前を捨てて、他人に成り代わる。人間は簡単に消え、そしてそれは人々の記憶から消えていく。しかし、君は相澤誠治を覚えているらしい。死者が例外となるなら、この世界で君の死をなかったことにするのはそれなりに面倒だ。それに、君が我々に非協力的な理由として、奴ら“教団”と魔術的な繋がりがあった可能性だって考えられる。この場合、余計に消しておきたいが、呪われでもしたら、それも困るだろ?」

この男は、そんな事を考えていたのか。まあ、そもそも消える事と死ぬことは実際に違うが。私が消えた人間を覚えているのは、正しくは”私が例外だから“である、それを”相澤誠治の死に方が例外である“とこの男は考えている。まあ、分からなくはない理屈だ。

渕上が中途半端に情報を持っているのが、私にはむしろ好都合だった。

「だから単にお願いをしたい。」

渕上は前屈みになった。

「これから、俺たち政府の者は東京を復興し、関東を元あった姿に戻す。君が何を掴んでいて、どうして話さないのかも、俺には分からない。ただ、我々の邪魔をするな。そうすれば我々も君に危害は加えない。ただ静かに、ここで探偵業を営んで人々と共に暮らしていてくれたら、それでいい。」

「私は、一介の探偵です。あなたたちは、どうも私を過大評価しているらしい。」

渕上は再びへらへらと笑った。

「警告はしたからな?悪いが俺たちはこれから、ここを整備して、“不思議な事“なんてない文明の世界を再建する。お前も精々食い扶持を失わないように励むがいい。

 行くぞ。お前ら。」

そう言い残すと、渕上は立ち上がった。そしてそれを、私は呼び止めた。

「渕上さん。」

「なんだ?」

「これ、“お返し”しておきますよ。」

私は、相澤誠治から譲り受けた煙草の余りを手渡した。

「では、ありがたく“頂戴”しておこう。佐山、受け取れ。」

佐山と呼ばれた部下の一人が私の手から煙草を取り上げるようにして持って行った。


 少しして、窓越しに黒い車が走りさるのを確認してから、私はため息をついた。

 

 それにしても、勿体ない事をした。皮肉を言うためだけに、煙草なんか差し出すんじゃなかったな。藤田を迎えに行くついでに、煙草も買ってこなきゃいけない。

 私は再び、帰ったばかりの事務所を出た。


 ***


それにしても…、奴らは何故我が家に来たのか。

 魔王・加藤の言葉が信実だとするなら(これも極めて頭のおかしい解釈だが)、私は今、この世界を描くことの出来る存在のはずである。しかし、私が彼らの襲来を望んだ訳でも、予想していた訳でもない。いつか接触することになるだろうくらいには考えていたが、そのせいか…?

 なんにせよ、魔王・加藤はこの世界を小説として創造したという。私は、如何にして紡げばいいのか。意に反して託された世界だが、停止されては困る。まだ動いているらしいが、いつ止まるとも限らない。方法は早く見つけなくては。

そんな事を考えながら、私は土師堂に辿り着いた。


「いらっしゃい。加藤君。君のご友人はお休み中だよ。」

土師さんはいつもの調子で迎えてくれた。そして藤田は、カウンターに突っ伏して寝ていた。だから私も、少しだけ休んでいくことにした。

「土師さん、コーヒーを一杯貰えますか?」

「いつもの薄いのかい?」

土師さんはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「嫌だなあ、冗談はやめてください。今日は客で来ているんです。土師堂のブレンドが飲みたいな。」

「お代はきちんと貰うからね。」

店主は微笑みながら、カウンターの奥に消えていった。


「あれ、加藤さん、おはようございます…」

コーヒーを待っていると、藤田が目を覚ました。

「やあ、起きたかい?」

数秒の沈黙を経て、彼女は段々と意識がはっきりしてきたらしい。

「大丈夫でしたか?珍しいお客さんでしたけど。すみません、加藤さんお仕事してたのに私寝ちゃってて…。」

「いや、気にすることない。気を張って待たれるよりずっといいさ。」

彼女はパシパシと自身の頬を叩いた。


「あ、そうだ。加藤さんこれ見て下さい。」

藤田は、目の前に置いてあった小さな本を取った。美しい表紙のよくある文庫本だ。

「あの、先日本屋さんに連れて行ってくださったじゃないですか。それで、私恥ずかしいんですけど、表紙の絵が素敵で、この本を選んだんですね。」

「確かに素敵な絵だな。」

桜の舞い散るような絵に、青い文字で「託される物語」とタイトルが並んでいた。

「それで、待っている間、折角だし少し読んでみようと思ったんです。そうしたら、これ、ほら。」

彼女は、そのカバーをとって見せた。中から現れたのは、真白な紙に、ただ『探す』と書かれた本だった。

「なんだ、カバーと中身が違ったんだね。」

「そうみたいなんです。初めての本屋に緊張しちゃって、そこまで確認しなかったみたいで、ダメですねぇ、私。」

「私にも見せてくれないか?」

「勿論です。あ、中身が違っても、これも出会いですし、その本はきちんと読みますからね。」

藤田から手渡された本には、表にタイトルがあるだけだった。カバーを取ったと雖も、これほどシンプルな造りのものは珍しい。表紙には作家名すら書かれていない。なんとはなしに、パラパラと本をめくってみた。すると、不思議なことに、その本は後ろ半分ほどが、ただの白紙であった。どんな本なのか興味が湧き、目次まで戻った時、そこに並ぶ文字に私は慄然とした。


一章 探偵屋「平成」

二章 記憶を亡くした女

終章 焔立つ魔都


 並んだ言葉の全てに身に覚えがあった。慌てて、もう一枚紙を捲ると、そこにはタイトルと並んで、作者の名前があった。


 『探偵す』  加藤


 魔王が、私にこの世界を託すために書いた、最後の筋が、こうして実現された訳だ。

 今度は、文字が並んでいる最後のページを開いてみた。すると、不思議な事に、私の今の行動が勝手に浮かび上がっていく。しかし、それらは薄れたり、揺れたり、不安定に消えかかっていた。


「どうしたんだい?加藤君。」

おそらく恐怖を顔に貼り付けていた私に、土師さんが声をかけた。

「土師さん、鉛筆ありますか?」

「鉛筆、ほらそこに。」

土師さんが指さした先に転がっていた鉛筆を私はひったくった。そして慌てて目次の『終章』と書かれたところに斜線を引き、その上に『三』とそして、その隣りに『四章』と書き足した。そして再びページを手繰ると、三章が終わり、四章の不安定な文字列の最初にも四章と入れた。

 すると、文字列はページの上に固定され、安定を取り戻した。

 何故、こんな行動をとったのかは分からなかった。ただ、反射的に体がそうした。私の体の持つ魔王の記憶がそうさせたのかもしれなかった。

「大丈夫ですか?加藤さん、青い顔してますよ?」

「ああ、…いや、もう大丈夫だ。藤田、頼みが有る。この本、俺にくれないか?」

「どうしたんですか?改まって、どうぞ。加藤さんに買って頂いたものですし、加藤さんが気に入ったのなら」

藤田は不思議な顔をしてそう言った。

「きっと、君にはもっと素敵な本を贈ると約束するよ。」

 それから、ふと思い立って、本に一言書き加えた。


 渕上、死す


 私は、この世界に特別思い入れがあるわけでもない。しかし、託された思いと、ここで暮らす人々の笑顔を見てきた。彼らが自ずから望むまでは、世界はこのままでも良いだろう。まだ、今のままで良い。

 自分で書いておいて、ほんの少し嫌な気持ちがした。一気に飲み干したブレンドはまだ温かかったが、苦いばかりに感じられた。


 ***


それから一年の日々を、私は出来るだけ何もせず、同じ日々を繰り返して暮らした。それでも、一日に数行ずつ、文字列は増えていき、数行ずつ白紙は減っていった。私がこの世界を生きている限り、この世界の寿命は減っていった。

世界に残された時間を、私は藤田桜と共に生きた。

そして、分かった事がいくつかあった。その後、東京復興の動きはなかった。この本に書いたことは私が直接観測せずとも世界に干渉しているらしい。


だから私には、世界の主役として、描き手として、そして何より世界の誰かを愛する一人の人間として、最後にもう一つやらなければいけないことがあった。

決心した時、私はその思いにタイトルをつけた。散々悩んだ末、結局はシンプルに「ハッピーエンド」と記した。


***


 その日は、いつかの東京視察を思いおこさせるような、日差しの眩しい夏の日だった。

「藤田。今日は、少し散歩しようか。」

「あら、加藤さん、どうしたんですか?」

藤田は幽霊でも見たような顔をした。

「驚かせてしまったか。まあこの一年、私は大して何もせずに暮らして来たからね。どうしても、今日、行きたいところがあるのさ。」

「あなたが行きたいところなら、私はどこへでもお供しますよ。どこへ行きましょう?」

「高尾山へ」

「高尾山、ですか。これはまた遠い所へ…。」

「どうしても、もう一度、東京が見たくてね。一緒に来てくれるかい?」

「はい!」

彼女が断らないのを、私は知っていた。この一年、彼女はいつもいつも笑顔で私の世話を焼いてくれた。

 本当は少しだけ期待していたのだ。丸一年も、ずっと私が彼女に頼って静かに生きていたら、彼女も私を嫌になるんじゃないか、なんて。

 しかし、彼女はいつまでもいつまでも私の傍らにあった。


 真夏の道行きは、久しく家に籠もっていた私にはなかなか応えた。しかし、どうしても見たかった景色があった。


 ***


「夜になる前に着きそうで良かったですね。でも、これじゃ下山は明日ですかねえ?」

「まあ、上で考えようか。」

登頂が見えたころ、世界は夕暮れの中にいた。藤田は、文句も言わずについてきてくれた。それに、どうやら私より元気らしい。

 汗を拭いながら、私たちは歩を進めた。


「さあ、着いた。ほら、君も見てごらん?」

「加藤さん…、これって…。」

「そうさ。夢と死とを抱いて咲く花、桜の海だ。」


 見渡した東京には、あの夜、夢と消えた桜が輝いていた。私は、どうしてもこの景色がもう一度見たかった。

「なあ、君。一年前、土師堂でした約束を覚えているかい?」

「土師堂で、ですか?」

「ああ、東京から帰った日。」

藤田は首をかしげている。

「そんなに、重大な話しじゃないんだ。覚えてないならそれでいいさ。」

少し置いて、彼女は笑い出した。

「すみません。覚えています。本ですよね。加藤さん、いいって言いながら、そんなに切ない顔しないでください。」

「君、私をからかったな?」

「すみません、覚えていますから、許して下さい。」

私たちは二人笑っていた。


「遅くなったが、…その約束を果たしたくてね。」

「てっきり、加藤さん忘れているものかと、思ってましたよ。」

「失礼な、約束は守る男だよ?私は。」

「すみません。でも私、嬉しいです。加藤さんが覚えていてくれたの。」

「それからね。君のお願いを、もう一つ、叶えようと思ってね。」

「私の…お願い、ですか?」

今度は、藤田は本当に分からないと言った顔をした。

「君の依頼さ。」

「私の、過去ですか?」

「ああ。私はずっと…、…君の過去を知っていたんだよ。」

沈黙の中に、心地良い夏の夜の風が通り過ぎていった。

「知ってましたよ。加藤さんが、隠していること。」

「気づかれていたか。」

「私、一年もあなたのことずっと見てたんですからね。加藤さんがたまに私を見て何かを考えているの、気づいてました。」

「ずっと見ていた、か。そうだよな。君はずっと私のそばにいてくれたんだよな。」


「私はね。君と出会えて本当に良かったと思っているんだ。先に言っておくが、これだけは誰が何て言おうと、私の感情で、私のものさ。君を想う気持ちは、誰にも渡しはしない」

「どうしたんですか、急に。」

藤田は頬を赤らめて照れ隠しのように笑った。

「ちょっとびっくりしましたけど。でも、私も、加藤さんに出会えて良かったと思ってます。私の気持ちだって、私のものです。今の私は、胸を張ってそう言えます。加藤さんがそう教えてくれたから。」

私は彼女の方を向いた。

そして、鞄の中から、一冊の白い本を取り出した。

「これを、君に贈ろう。」

「これって、いつか加藤さんが欲しいって言ったあの本ですか?」

「そうさ。でも、タイトルは書き換えておいた。」

「『君へ』、ですか?私へ?」

「そう。これは君に贈る本で、君に贈る信実で、それから君に贈る私の全てだ。」

「全て…。」

彼女は、涙を流していた。

「受け取ってくれるかい?」

「…待ってください。」

彼女は、私に背を向けそして涙を拭った。

「プレゼントは、ちゃんと笑顔で受け取りたいんです。」

向き直った彼女は目に涙を溜めて笑っていた。

私はそっと人差し指で彼女の涙を拭った。彼女に触れるのは、手を握ったあの夜以来だった。


 これで、思い残す事はない。彼女の涙と彼女の笑顔と、私の餞にこれ以上など有りはしなかった。

「藤田、私は君を…、」


***


 私は、藤田桜に愛を伝え、その人生を終えた。

世界は、私が死んだ後も人々の望みと共に、あるがままに、幸福も不幸もごちゃまぜに、いつまでも、いつまでも続いて行った。

 

そして、藤田桜は自由に、幸せに、この世界笑顔と共に生きて行くだろう。


 跋


 「私も愛しています。」

私のその言葉を聞いて、加藤さんは消えてしまいました。最後まで、私を抱きしめる事も、私に口づけすることもないまま。愛だけを伝えて消えて行きました。

 

 私はその後六十年余りの人生を、あの人が残した桜を愛でて暮らしました。

 人々は優しく、一人桜を育てる奇態な女にも心をかけて下さり、花の咲く季節には様々な品々を持って花見に訪れてくださいました。

 今では、私と共に桜を育てる人々が小さな村と呼べるほどに増えました。

 私は、この地を「桜都」と名付けました。私とあの人の思い出の地だから。


 いつまでも、いつまでも、自由に幸せに笑顔で、暮らしました。

 もし、あちらの世界というものがあったら、加藤さんに胸を張って言いたいのです。

 私は、私の幸せな一生を送りました。あなたは忘れていたでしょうけど、いつかの夜にあなたが言った「生きていていいのか、なんて二度と考えないくらい、生きていて良かったと思わせる」それは確かに真になりましたよ。

だから安心してください。どれだけ幸せでもずっと…寂しかった。

私は、今も昔も、誰の者でもない私の気持ちで、あなたを心から愛しています、と。


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