それから
長く、夢を見ていた。いや、もしかしたら本当はそれ程長い時間は経っていないのかもしれないけれど。
いつの頃からか、右手があたたかい物に包まれていた。これは何だろう?
まだまだまどろみの中に浸っていたいけれど、確かめなければ。
重いまぶたをゆっくりと持ち上げる。
目に映ったのは白い天井。そして。
「ミスティル……!」
ミスティルの右手を包み込むように握りながら、目に涙をいっぱいに溜めたリリウムの姿があった。
「え、お、お嬢様……!?」
ミスティルはぎょっとした。
めったに表情を崩さぬ彼女が、片思いの相手に振られても涙一つこぼさなかった彼女が、泣いているのだ。
ここはどこなのかとか、自分は助かったのかとか、あの魔獣を倒す事は出来たのかとか、他にも聞きたい事は沢山あったが、全て吹っ飛んでしまった。
他者を笑顔にする事に喜びを感じるジョーカーは、泣かれるのが最も苦手なのである。
「ごめんね、ごめんなさいミスティル……! 私を庇ったせいで……! あの時私がもっと周囲に気を付けていれば、貴方がこんな目に遭わずに済んだのに……!」
リリウムの深い青の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
かつて訓練中に魔法が暴走してしまった時にはネメシアに軽傷を負わせてしまった。
また自分のせいで他者が傷付いてしまった。しかも今回は命を失っていてもおかしくない程の重傷である。
自分はなんて駄目な奴なのだろう、とリリウムは自分を責める。
「え、ちょ、ちょーっとお待ち下さいお嬢様! な、なんでお嬢様が謝っていらっしゃるのですか!?」
「え、だって……私のせいでミスティルは大怪我をしてしまったんだし……」
「何をおっしゃいますか! ワタシが負傷したのはワタシ自身の不注意が招いた結果です! お嬢様に非は一切ございません! ああ、だからそんなに泣かないで下さいませ!!」
本来ならばジョーカーたる自分が天敵の気配をいち早く察知していなければならなかったのだと、むしろリリウムを危険な目に遭わせてしまった事を申し訳なく思っていると、ミスティルは必死になって説明する。
しどろもどろで何とかリリウムを説得し、ようやく泣き止んでくれた彼女に自分が眠っていた間の事を聞く。
まだ少しだけ嗚咽交じりながらもリリウムは語った。
ミスティルが倒れた直後にリリウムの魔法が暴走し、その隙に他の生徒や教師達が魔獣を倒してくれた事。
ここは学園の救護室で、ミスティルは丸三日、目を覚まさなかった事。
その間リリウムはミスティルの看病をし、彼の手を握って魔力を注いでいた事。
――ジョーカーのような弱小種族があれ程の重傷を負って一命を取り留めたのは奇跡と言っても過言ではない事。
何故自分が死なずに済んだのか、ミスティルには心当たりがあった。
それは彼の中にごく僅かに流れる上級悪魔の血である。
性格に悪影響を及ぼすだけの何の役にも立たない存在だと思っていたけれど、ちゃんと宿主の命を守ってくれたようだ。
また、実習から戻って以来ずっとミスティルに魔力を供給し続けていたリリウムの顔は、どこかやつれているようだった。
ただ単に治癒魔法を掛けるだけならば誰にでも可能であるが、栄養剤代わりに魔力を注入する場合、契約を結んだ対象からの魔力が最も吸収効率が良い。
悪魔にとっての魔力は水のような物であり、短期間ならば魔力だけでも生きていける。寝たきりで食事を摂る事の出来ないミスティルの為に、リリウムはわずかに残った魔力を絞り出して捧げ続けていたのだ。
その後さらに一週間、ミスティルは救護室で過ごす事となった。もともと野外合同実習後は授業が三日間休みであったが、リリウムは体力と魔力回復の為にさらにもう一日だけ休んだ後、授業に復帰した。そして毎日放課後には必ずミスティルの元を訪れた。
リリウムとしては彼が元気になるまで付きっきりで看病したかったのだが、ミスティル自身がそれを良しとはしなかった。勉強が遅れてしまう、出席日数が足りなくなってしまう、などと小悪魔らしからぬ事を言って頑なに拒否するのである。
彼はやはり根は真面目なのではないかとリリウムは思う。
そして一週間が経ち、ミスティルは歩けるまでに回復し、少しだけなら魔法も使えるようになった。
この回復の早さもジョーカーには本来ありえない事である。どうやらミスティルの中に流れる上級悪魔の血は生命力・再生力に特化していたようだ。それゆえ、これまで大怪我を負う事の無かったミスティルは、その加護に気付く事が出来なかったのである。
この日、久しぶりに外の空気を吸いたい、散歩に行きたい、とミスティルが言うので、リリウムは彼と共にしばし学園の敷地内を歩く事にした。
しかし彼が向かったのは教室でも魔法の訓練場でも薬草園でもなく、何故か校舎裏であった。
そんな所に何の用があるのか、と尋ねても着いたら話す、という旨の返答しか貰えなかった。しかもなんだか神妙な面持ちをしており、あのお喋りな彼が到着するまでの間、ほとんど喋らなかった。
まだ体調が優れないのかと思い声を掛けてみても、「大丈夫です! そういう訳ではありませんのでお気になさらず。だ、だから途中で帰るだなんておっしゃらないで下さいね……!」と、何やら必死になって懇願してくるのである。リリウムは内心首を傾げながらもとりあえず彼の言葉に従う事にした。
校舎裏に着いたが、勿論こんな所に面白い物などなく、ちらほらと雑草が生えているだけである。こんな日陰でも彼らは逞しく生きているものだ。
「――で、ここに来た理由、そろそろ教えてくれるの?」
「ええ、勿論でございますよ、お嬢様」
ミスティルは何やら気を落ち着けるように一度深呼吸した後、片膝をついた。すると、ポン、と小気味良い音と共に彼の手の中に一輪の薔薇の花が現れた。それは先日彼が造り出した薔薇よりも歪で、色はお世辞にも瑞々しいとは言えないし、香りも無い。まさに造花といった感じだ。
だがそれより何より、わざわざこんな場所にやってきてまで魔法の薔薇を造り出す事に何の意味があるというのか。いくら魔法を使えるくらい回復したとはいえ、病み上がりの体に鞭打ってまで行うのはいかがなものかと思う。
リリウムがそう窘めようと口を開きかけたその時。
「貴女が好きです」
「――え?」
「からかっているわけでも、冗談を言っているわけでもありません。一人の男として、一人の女性である貴女を愛しています」
本当はもっと綺麗で精巧な薔薇を差し出しながら彼女に告白したかった。だが魔力が完全に回復するまで、もう待っていられなかった。
――いつまた告白の機会を失ってしまうかわからないから。
いつ彼女が他の男の物になるかわからないし、命なんてある日突然、簡単に失われてしまうものなのだ。
大事な事は後回しにしてはいけないと、彼は学んだのだ。
突然のミスティルの告白に戸惑っているのか、リリウムは差し出された薔薇を見つめたまま黙ったままである。
「やっぱり、ワタシでは駄目、ですかね……?」
跪いたまま、不安げにリリウムの顔を見上げる。するとようやく彼女の口が動く。
「えっと、私……まだ振られたばかりで、すぐには気持ちの切り替えが出来そうにないから……」
――やはり自分では駄目なのか。
ミスティルは力無く項垂れる。
が、しかし。
「だから」
差し出された薔薇を受け取り。
「少しずつお付き合いしていく感じでも、いいかな……?」
赤く染まった頬を薔薇で隠すように、ほんのりとはにかんで。
「――っ!! ええ、ええ、勿論でございますよ、お嬢様!」
ぱぁっとミスティルの表情が一気に明るくなる。その姿は仮契約を結んだ時と似ていたけれど、それよりももっともっと嬉しそうで。
いつもはへらへらとした、取って付けたような仮面のような笑顔なのに、今は少年のような屈託の無い笑みを浮かべている。そのギャップにリリウムは思わずドキリとしてしまった。――こういう不意打ちは反則だ。
「お嬢様、ワタシね、ワタシと結婚したいと思える程お嬢様に惚れて頂く為に、これから毎日口説かせて頂きますから!」
「え、毎日……? それはちょっと……」
「いーえ! お嬢様はわりと鈍感で勘違いしやすいタイプとお見受け致しますので、毎日気持ちをお伝えしませんと愛が冷めたと思われかねませんので!」
「そ、そこまで酷くはないと思う、けど……多分……」
――あまり自信はないけれど。
「左様でこざいますか? ですがお嬢様、前に薔薇の花を差し上げた時も、その意味に気付いて下さいませんでしたよね?」
前に薔薇の花を貰った時――あの時は確か、魔法薬を鍋で煮込んでいたのだ。そして――貰った薔薇を魔法薬の材料として鍋に放り込んだ。
「え、も、もしかして、あの時の薔薇も、その……『そういう』意味だったの……!?」
「はい、そういう意味でした。一応愛の告白のつもりだったのですが」
サーッとリリウムの顔が青くなる。
「ご、ごご、ごめんなさい……! 私てっきり、魔法薬の材料をくれたのかと思って……!」
「それはもう良いですって。ワタシの言い方も紛らわしかったですしね。――ああそうだ、では毎日貴女を口説く際、一日目は薔薇を1本、二日目は2本、と一日毎に薔薇の本数を増やしていくと致しましょう。貴女への想いが日に日に増していっているのを表現しているようで、良いと思いませんか?」
「その計算でいくと、一年後には私の自室は薔薇まみれになってしまいそうだけど」
ちなみに365日で66795本になる。
「そこに気が付くとは、流石お嬢様であらせられる」
「どういう持ち上げ方よ、それ」
いつも通りの他愛ない会話に、リリウムは思わず吹き出した。
クスクスと楽しげに笑う彼女の姿は、ミスティルがずっと望んでいたものだ。
彼女につられるように、彼もまた、再び屈託のない笑顔を浮かべるのだった――……。
――それからしばらくが経ったある日の事。
「傷痕、残っちゃったね……」
すっかり元気になったミスティルと共に混合魔法の授業に向かう道すがら、リリウムがぽつりと言った。
傷自体は完全に癒えたものの、彼の背には傷痕が残ってしまっていた。彼が上級悪魔ならば違ったかもしれないが、僅かにその血が流れているとはいえ所詮は小悪魔、そこまでの修復力は無いのである。
今は服に隠れて見えないが、その見た目は何とも痛々しいものであった。
「ごめんね……」
「もう! だからなんで貴女が謝るんですか! ワタシの自業自得な上にワタシが勝手に庇っただけなのですから、貴女が気にする必要なんてないんですってば! ――それともお嬢様、もしやワタシをキズモノにした責任を取って下さるとでも?」
悪戯っぽい笑みを浮かべてミスティルは問う。勿論いつもの軽口であり、彼女が首を縦に振るとは思っていない。
が。
「わかった。貴方がそう望むなら、責任取るよ……!」
即答であった。これにはさしものミスティルも面食らう。
――このお嬢さん、やはり自分なんかよりもよほど潔くて男前である。
「――ああ、もう! 本気にしないで下さいよ! いや、まあ、ワタシと致しましてはこんな傷痕程度で貴女を手に入れられるなら安い物ですけどね? 貴女の事は自力で惚れさせるって約束しましたから。償いなんかの為に貴女と一緒になるつもりはありませんよ」
――こういう時、大抵の小悪魔はここぞとばかりにリリウムの申し出を受け入れるものである。彼らにとって、楽に目的が達成されるならそれに越した事は無いのである。にもかかわらず、それを断るミスティルはやはり。
「貴方って結構真面目よね」
「……真面目じゃないです。ワタシは不真面目で軽薄でひねくれ者で、常にふざけた存在であるのが売りのジョーカーなのですからね!」
ミスティルは露骨に顔をしかめた。
彼の夢は立派なジョーカーとして生きる事だ。それ自体は変わらない。素直になったのは彼女への想いだけである。
ゆえに、例え図星であっても、根は真面目であるなどと認める訳にはいかないのである。
するとミスティルはいつものわざとらしい溜め息を吐きながら。
「全く、小悪魔のワタシをからかうなんて、貴女のほうがよっぽど小悪魔らしいですよ!」
「別にからかっているつもりはないんだけど。――でも、私の中に流れる大悪魔の血は人間の血で薄まっているから、小悪魔と実質的には同じようなものなんじゃない? そういう意味では私達、わりと似た者同士かもね」
「そう思わない?」とリリウムはふわりと微笑む。
するとミスティルは「さて、どうでしょうね」とリリウムから顔を背けてしまった。しかもシルクハットの鍔をぐいっと引っ張って目深に被ってしまい、表情が完全に見えなくなってしまった。
もしや彼の気分を害してしまったのだろうかとリリウムは内心焦ったが、そうではない。
シルクハットの下で、ミスティルは真っ赤になった顔を必死に隠しているのだった。
(不意打ちでそういう笑顔するのは反則です……!)
図らずも先日のリリウムと同じ事を考えている訳だが、勿論そんな事はお互い知る由もないのであった。
「あ、そ、そうだミスティル。貴方との仮契約の事なんだけどね、貴方とは正式に契約したいなって思ってるんだけど、どうかな……?」
「え、宜しいのですか? 本契約は一生もの、仮契約と違って契約解除は出来ないのですよ?」
シルクハットの鍔を上げ、再び顔を見せた彼の頬の赤みは既に消えていた。流石表向きは模範的ジョーカーとして振る舞っているだけの事はある。
婚姻でさえ離婚という選択肢が存在するが、本契約は死ぬまで解除する事が出来ない。ミスティルとしては得られる魔力が増える上に、いつまた契約解除を言い出されるかと臆する必要が無くなるので万々歳であるが。
「うん、貴方は頼りになるもの。それに真面目だし」
「だから真面目ではありませんってば!」
口を尖らせながらも、頼りになると言われて内心まんざらでもないが。
「――まあ、本契約へ更新して頂けるのはとても嬉しいですけどね。ですが、もし宜しければ……一つだけ、お願いしたい事がございます」
「? なーに?」
リリウムは首を傾げた。
「――お嬢様はいずれ、ワタシ以外の悪魔ともご契約なさるのでしょう?」
「それは、まあ……」
小悪魔である彼と本契約を結ぶ以上、最低でも中級レベルの悪魔とも契約したいのが正直なところだ。リリウムの魔力量ならばそれが十分可能であるし、魔女としてごく一般的な考えである。しかし。
「それ、嫌です」
「え」
「ワタシ以外の悪魔が貴女と触れ合うなんて、い、や、で、す!」
「嫌って言われても……」
困った表情を浮かべるリリウムではあるが、彼の気持ちは良くわかる。
例え手を握る程度のスキンシップだったとしても、自分の恋人が他の男性悪魔と触れ合うのは嫌だろう。自分が彼の立場でもそう思う。
ならば女性の悪魔と契約すれば良いのではないか、とも考えられるが、どのみち今度は現パートナー悪魔としての独占欲が働く事だろう。
複数の悪魔と契約している魔女というのは一体どうやって彼らの仲を取り持っているのだろうか。リリウムには皆目検討もつかなかった。
だが、リリウムの将来の夢は冒険者として前線で戦う事でもなければ、宮廷魔術師として城仕えする事でもない。彼女の夢は魔法薬や魔法アイテムの研究開発の職に就く事である。
研究開発に必要な魔力はそれほど多くなく、ミスティルとの契約だけでも十分足りている。無理に二人目の悪魔と契約する必要はないのだ。
折角強大な魔力を受け継いだのにもったいない、と両親は顔をしかめるかもしれないが、娘を命懸けで守ってくれた恩人のたっての願いとあらば、きっと納得してくれるはずだ。
わかった、とリリウムが口を開きかけたその時。
「だからワタシ、他の悪魔達よりも強くなります! 貴女のお父様と肩を並べられるくらいに強くなりますから……! だから、それまでお待ち頂けませんか……?」
ちなみにリリウムの父親は四天王の一柱として魔王に仕えている。それはミスティルも知っているはずだ。当然、かなりの実力がなければ務まらぬ地位である。
「それ、本気で言ってるの……?」
「ええ、勿論ですとも! 男に二言はございません! 幸い、ここは魔術学園であり、ワタシのような者にも勉学の機会が与えられておりますからね」
特に今、彼らが向かおうとしている混合魔法の授業は非常にミスティル向けであると言えた。
混合魔法は異なる複数の魔法を組み合わせる高難度魔法であり、弱い魔法同士でも組み合わせれば強力な威力を発揮する事が出来るのである。この魔法は魔力量よりも魔力を操る器用さが重要である為、魔力は少ないながらも様々な魔法を巧みに使いこなすジョーカーにとっては、うってつけの魔法なのであった。
「そう……わかった。じゃあ待ってる」
あまりにもすんなりと頷くリリウムに、自分から言い出したものの、ミスティルは少々面食らう。
「え、ほ、本当に宜しいのですか……?」
「うん。女にも二言はないよ」
――この潔さ、やはり彼女は自分なんかよりもよほど男らしい、とミスティルは思う。
と、その時、ゴーン、ゴーン、と授業の予鈴が鳴り響いた。
「おっと、もうこんな時間ですか。このままでは遅刻してしまいます、急ぎましょう!」
本鈴が鳴る前には席について授業の準備を完了させておかねば、と駆け出すミスティルに、彼はやはり根は生真面目なのだと確信するリリウムであった。
その後も相変わらず真面目である事を認めようとしないミスティルであったが、胃が弱く、ストレスが胃に来やすいタイプである事は打ち明けてくれた。
そんな彼の為にリリウムは魔女秘伝の調合法で胃薬を作ってあげた。
魔女の薬は良く効く分、きっと舌をえぐるような強烈な苦みがあるのだろうとミスティルは覚悟していたが、意外にも彼女が作った胃薬は苦みどころか甘さが感じられ、むしろ美味しいとさえ思った。
甘党であるミスティルが飲みやすいようにと、彼女は甘い味付けを施してくれていたのだ。つまり子供用の調合である。
嬉しいような、お子様舌である事を気遣われていて恥ずかしいような、ミスティルはなんとも言えない複雑な気持ちになるのだった。
――遠い未来、次期四天王の一柱に一人のジョーカーが選ばれるのは、まだまだ先のお話――……。