第七話 太公望
さて、資和の部屋にお恵の方も入って二人きり。侍女は廊下に控えさせたお恵の方は少女のようにもじもじと赤い顔をしていた。
「まったく、あいつら気を遣いおってェ」
そういって資和はお恵の方を自分胸に抱き寄せ、着物の隙間から胸元に手を差し入れる。
お恵の方は小さく嬌声を上げた。
「いけませぬ。奥でしないと……。子どもたちもまだ起きています故」
「そうだな。奥に行って寝るか」
二人は立ち上がり部屋から出ると、腕を絡ませながら奥までの道を歩く。
資和の部屋とは別に、妻と睦み合う「奥」と言う場所がある。そこは主君以外は男子禁制で、お恵の方と侍女しかいない。
資和はお恵の方以外に側室を取ることは生涯しなかった。彼は彼女しか愛さなかったし、彼女も彼のために身を尽くしたのだ。
お恵の方は奥に入るとすぐさま控える侍女にキビキビと命じた。
「これ、おカメ。お館様は酒をご所望じゃ。御許は大根菜の塩漬けに、山鯨の煮付けと焼き豆腐を持って参れ」
「かしこまりました」
カメと言う侍女はそれを聞いてすぐさま台所に命じに走った。
資和はお恵の方に腕を組まれながら問う。
「山鯨なんぞあったのか。こりゃ楽しみじゃ」
「そうなんですぅ。御舎弟の陸郎さまが届けて下すって」
陸郎とは、椙澤陸郎正勝。資和の実弟で、正虎の下の兄弟である。
「なんじゃ、陸郎のやつめ狩りでもしおったか。羨ましい」
「そうみたいですね。八四郎(正虎のこと)さまと」
「まったく、主君とは違い弟とは気楽なやつらじゃのう」
そんなことを言いながら、二人は夫婦水入らずで部屋に入って酒を飲み始めた。
資和は片手に杯を持ち、もう片手はお恵の方の太股に置く。
そんな資和にお恵の方はもたれかかりながら、扇子で主君資和の体をあおっており、時々箸を掴んでは資和の口につまみを運んだ。
「うん。やはり肉はうまいのう。美味じゃ美味」
「そうですよ。お恵をほったらかしにして藤次郎や文左衛門と遊んでいたら、これは下男や侍女に食べられていましたからね」
「さようか。ではお恵といつまでもくっついておらんといかんのう」
そう言って、資和はお恵の方を抱き寄せる。お恵の方も抵抗せずに口を資和の方へ向けると、それを資和は強く吸った。
資和は閉じられた襖に向かって声をかける。
「これ。そなたたちはしばらく耳をふさいでおれ」
襖の影には主君警護の侍女たちが数人息を潜めて座っているのだ。
お恵の方と睦み合うようになってからずっと続く資和の命令。
それは今から何が始まるのか、全てを物語っていた。
四半刻(三十分)程過ぎて、資和から大きな心地良い息が漏れる。お恵の方はその大きな胸板に頭を埋めた。
「ねぇ資和さま……」
「どうした、お恵」
「今日はどこでお遊びになってましたの?」
「なんじゃ。いつもの公務じゃ。公務」
「うそ」
お恵の方は体を起こして、資和に背中を向けた。
そしてさめざめと泣き出す。
「おいおい。お恵。本当じゃ。公務以外になかろう」
「だって、瓢を持っていきましたもの。それに三人とも家紋の違う安値の裃。恵だって馬鹿じゃありません。酒を持ってどんなご公務? 身分偽ってなんのご公務ですの? 本当は女子をお拾いになったのではありませんか? いえ、女子が駄目だと言うんじゃないのです。好きならば部屋もございますし、どうぞ側室にお入れ下さいませ。恵とて、年中、資和さまのお相手ができる体でもございません。まだ月のものもありますし……」
そう言いながら白魚のような細い指で玉と輝く涙を拭う様が一層美しさを際だてる。
お恵の方には二面あるように見えるが、主君資和の前ではいつまでも少女のような可愛らしさ。しかしその裏側では家臣たちに厳しく睨みをきかせる強さ。
それは全て、資和を愛するが故。
戦災孤児となった身分不詳な自分を正妻としてくれた資和に、生涯尽くすために、女を磨き、容色を衰えさせない。
すでに四人も産んでいる体だが、それはまだ十代半ばのようであった。その体はただ資和を愉しませるだけのもの。
彼のために生き、彼のために死ぬ。それが彼女の一生をかけての返礼なのだ。
障子越しに僅かな月光に照らされ光るお恵の方の艶めかしい肢体。たまらず資和はその背中に抱きつく。
「おいおい。誰が可愛いお恵の他を欲しがるものか」
「だってぇ……」
またもやお恵の方の唇を強く吸う。そして彼女を胸に抱き締めた。
「お恵は周の文王を知っておるか?」
「え? も、もちろん。渭水のほとりで姜子牙を迎え、古代中国の天下統一の礎を築いた人です」
お恵の方は、資和の話が理解できるように、彼不在の時は彼の愛蔵の書を読みふけり、知識や教養は資和並みであったのだ。
「その通り。その姜子牙。つまり大軍師、太公望呂尚。周の文王は渭水で太公望を求めた折、彼の釣りが終わるまでその後ろでずっと待った」
「ええ、知ってます。それと今日の酒はなんの関係が……あっ!」
「どうやら気付いたようだな。吾が常々軍師を求めていたことを。その器を持った男が我が領内に埋もれておった。そやつに身分を隠して礼を尽くし、友だち付き合いから迎え入れようとしておるのだ」
「まぁ。それで重臣の藤次郎と文左衛門を引き連れて? その正体がバレたときに、大軍師の心臓が止まるんじゃないですか? ふふ」
「ふふ。そうじゃのう。最初は偶然だった。いつもの遊びの延長で、三人して警護役の鎧を着て陣中を見回っておったのだ。そこでそやつを見つけた。吾らを知らんようだったので、身分を偽り、友人のように酒を飲んだ。なかなか楽しいやつだったよ」
「ふふ。お外のお友だちとばかり遊んでいないで、恵にもそのお流れをくださいまし」
「もちろんだとも」
資和は口に含んだ酒を、お恵の方の口に流し込む。
そしてそのままお恵の方を押し倒した。
だがふと気付いたように顔を上げて襖に向かって声をかける。
「これ。そなたたちはしばらく耳をふさいでいよ」
襖の奥にいる侍女たちはあきれてため息をついた。