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イロの追憶

作者: 海岳 悠

1

 気づいたら、私の世界からイロが消えていた。りんごが赤イロだというのも、信号機が赤イロと黄イロと青イロで構成されているということも、見えなくなっていた。ただ、白と黒だけの抽象的な世界が淡々とどこまでも続く。まるで私だけ別の世界で生きているみたいだ。

 

遠くの方から、曇天で気分が落ち込むという声が聞こえてきた。ふと、窓の外の世界を見る。今日も私の世界は、イロを帯びていない。


 記憶の片隅に残るイロの感覚を呼び起こし、想像を働かせる。曇天。確か、白と黒の中間のイロ。とても心が重くなってしまうようなイロ。昔はちゃんとイロが見えていた。それなのに、どうして見えなくなってしまったのだろうか。


柿崎カキザキ! 会議に出ろって一週間前に伝えただろうが! なんでいつまでたってもこないんだよ」

 部長の怒号がオフィス内に響き渡る。


 返事をする声が上ずる。周囲の人間は部長とも私とも目を合わせないようにパソコンの画面を見つめる。カタカタとキーボードを叩く音がすごく不快に感じる。


 一週間前――思い出せない。私は会議なんて知らない。ここ最近、こういうことが増えた。どうして、私だけ知らないのだろう。疎外感だけが募っていく。


 企画書出来た?

 そんなこと知らない。


 昨日、食事の約束したよね?

 知らない――。



 もう一人、別の私がいるのではないかと心配になり、友人の勧める精神科にかかった。


「イロが見えなくなってしまって、多分それからなんですけど、周りとの距離感がわからなくなってしまいました」

 私は大柄な男にそう言った。


「それはいつからですか?」

 男はちゃんと私の目を見て話してくれる。


「それが全くわからないんです……」

 思い出そうとすれば、心が痛くなる。私は何か嫌なものを見た引き換えに、イロを失ったのではないかと、この頃思うようになった。そうでなければ、思い出そうとしたときに心が痛くなったりはしないだろう。特別な理由がない限りは――。


「そうですか……」

 男は困った表情で自分の後頭部を撫でる。そして、紙を取り何か書き始めた。


「今、ストレスになっていることとかありませんか?」

 男にそう訊かれて、一つだけ思い当たるふしがあった。


「会社の上司との関係があまりうまくいっていないことが、結構ストレスになっています」

 どうして躊躇もなく、私は見ず知らずの他人に本音を語っているのだろうか。私は少し不思議に思ってしまった。男が私の本音を引き出しているようには見えない。


 じっと男を見つめていると、ばたりと視線が合った。私は反射的に目を逸らす。男は私と目があった瞬間、微笑んでいた。どうしてそう簡単に笑えるのだろうか。


 男は優しい口調で言った。


「それは、ストレスが原因ですね。ちょっと会社と相談してみてはどうでしょうか?」

 会社を知らない人間は簡単にそう言う。それができるのなら、こんなところまで来て、自分自身をさらけ出さないだろう。


 私は頷き、その場を去った。ストレス――それがイロの見えなくなった原因なのだろうか。何かもっと重要なことを忘れている気がする。


 子どもの声が聞こえた。自然と聞こえた方に視線がいく。お母さんお空綺麗だねと小さい女の子が言うと、母親はそうねと微笑んでいる。どこかでこの光景を見たことがある。でも、どこで見かけたのだろうか。


 綺麗な空。私は空を見上げてみる。何が綺麗なのだろうか。もう、そんなことさえわからなくなっていた。視界から伝わる感情も忘れてしまった。冷たい風が頬を撫でる。いやにその風が心に染みた。



 隣の席の美咲に肩を叩かれ、我に返る。


「佳奈! ちゃんとしなさいよ。ほれ、部長が呼んでいるんだから行ってきな」

 私は小さく頷く。


「そうそう、今日は昼食一緒に食べるんだから、先にいかないでね」


「あっ、うん」

 美咲は唯一、気軽に頼れる友人だ。精神科も美咲に言われて行くことにしたし、部長との関係が今以上に酷くならないのも、美咲のおかげだと思っている。それだけに、先に行かないでねと言わせてしまった自分が憎い。私はどこか人と違うのかもしれない。


 会議は長引いた。部長のお説教から会議は始まり、終始、私は怒鳴られ続けた。確かに、私は自分で作成した企画書のことを忘れてしまっていたのだから、仕方がないのかもしれない。それでも、私には全く身に覚えなかった。企画書にはちゃんと私の名前が記載されている。けれども、それは別の誰かが私の名前を使って書いたのではないかと、疑ってしまうほど実感がわかなかった。

 

 イロが消えた日から、おそらく、何万回と考えを巡らせてきた。その消えた日すらも、私にはわからない。でも、普通に考えて、イロがなくなったら、嫌でも記憶に残るはず。それなのに私の記憶のどこを探しても、見当たらなかった。本当にストレスだけが原因なのだろうか。私の中にあるモヤモヤとしたものが、上腹部あたりを気持ち悪くさせた。



「部長本当にうざいよね」

 フォークで野菜を刺しながら、美咲は言った。


「私も悪かったし、しょうがないよ。今度から気を付けないと」

 不安と焦燥が入り混じる料理はおいしくない。いまにも溢れ出しそうな愚痴を水で流し込む。この頃は、本当に思っていることより、嘘をついている方が多い気がする。


「佳奈はつよいね。あたしなんか、やめたいと思ったこともあったのに。一度、部長に文句言ってやろうと思ったこともあるけど、態度以外はちゃんとしているんだよね、あの人。言っていることは正論だし」

 私は何度も頷く。


 部長にいびられる人間からすれば、とんでもない上司なのかもしれない。けれども、仕事のカリスマ性はもちろんのこと、実力だけなら会社の中で群を抜いている。部長に何か言い返そうと思っても、必ず向こうから正論が返ってくる。それを知っている私たちは、部長の態度を問題にしなかった。いや、できなかったというべきか。

 

 問題は問題にしなければ、問題にならない。しばらく、あの部長の下で働く未来が約束されている。私は、心のどこかでいなくなってしまえばいいのにと思った。


「元々、この会社あまり良い噂聞かなかったしねー」


「えっ? そうなの」

 私は少し気になった。どんな些細なことでも、イロが見えなくなったことに繋がるのではないかと期待してしまう。


「そうそう、表立ってはブラックって感じしないけど、裏では結構色々とやっているそうよ」

 美咲はどこか楽しそうだ。こういう話が好きなのはわかるかもしれない。学校の七不思議みたいな感じだ。


「開発部は人体実験をやっているとかね」

隣のテーブルにいた溝口さんは私たちの話に割って入ってきた。


「まさかー」

 口ではそう言ったけど、ベテランの溝口さんが言うと冗談に聞こえない。


「それ私も聞いたことがあります。なんでも、知らない間に被験者にされているとか」

 美咲は口に手を当てて、周りに聞こえないように話しているつもりだろうが、だだ漏れである。


「そうそう。怖いわねー。特に部長とか絡んでそうじゃない」


「確かにやってそう!」

 私は思わず笑ってしまった。確かにありそうだ。あの部長なら、裏でヤクザでも政府関係者でも内通していそうで恐ろしい。久しぶりに自然と笑えた気がする。


 二人の噂話に耳を傾けながら、目をつぶる。そして、ゆっくりと目を開けた。イロは心が弾んでも見えなかった。


「そういえば、彼とはどうなった?」

 美咲が前のめりになって、私に訊いてきた。


 彼とは――?


「えっ、誰のこと?」

 いつの間にか、溝口さんは美咲の隣に座っている。


「えーそんな勿体ぶらないでよ! 石目くんだよー石目くん」


 溝口さんは「えーお似合いじゃない」と興奮している。


 石目とは誰のことだろうか。また、私は大切な記憶をどこかに置いてきてしまったようだ。とりあえず、話を合わせなくてはいけない。


「あっ、彼なら何でもないよ」

 二人の視線が怖い。次に訊かれる内容によっては、誤魔化しがきかない。


「本当に? 石目くんがやめるって言い出して、会社を飛び出たときに佳奈追いかけていかなかった? 会社中で噂されてたよ」

 美咲の言葉に呼吸することすらも、忘れてしまった。私が名前も顔も思い出せない人を追いかけた? 人違いではないかと言いたかったが、これ以上なにか言えば、墓穴を掘りかねないので否定を繰り返した。


「そっか。次の日からどっちも平然とした顔で会社にいたからね。これは……と思ったんだけど思いすごしだったね。佳奈が何か隠してなければだけど」

 私は否定しながら、無理やり笑顔を作った。彼の話になってからずっと地に足が付いていない感覚だった。


 石目という人物は一体何者なのだろうか。

 美咲に彼が会社を飛び出したのはいつかと訊くと、一週間ほど前だと答えた。



 私と彼は偶然帰り道で出くわした。人々が行き交う交差点の真ん中で、彼は空を見上げていた。特別何か空にあるわけではない。轟音で飛ぶ飛行機やヘリコプターも飛んではいなかった。あるのは、月と星と雲くらいだ。


 思わず私は彼に声をかけていた。どうして、そんな悲しい表情で空を見上げているのか知りたかったのかもしれない。彼は私に対して、こんな綺麗な景色があるのになんで誰も空を見上げないのだろうかと言った。何も答えることはできなかった。


 彼と視線が重なる。私は目を逸らさなかった。


「お疲れ様です、柿崎さん。私は石目と申します。覚えていませんか?」

 彼とどこかであった気がする。そういう漠然とした感覚だけが私を取り込んだ。美咲の言っていた石目くんであることを飲み込むまで、しばらくかかった。


「覚えているよ」

 私は嘘をついた。本当は、記憶が曖昧で名前も美咲から聞いて知っているというくらいだ。長い時間話せば、ぼろが出る。


 彼は少し不思議そうな顔をしてから、良かったですと微笑んで歩き出す。


「柿崎さんとこうやって話すのは、新人研修ぶりですよね」

 妙に背伸びしたような彼の口調にどきりとさせられる。研修という言葉を聞いて、一つ思い出した。彼の研修の担当は確か私だった。でも、研修中の記憶は曖昧だ。あんなこと教えてもらいました、なんて言われたら、話についていけなくなる。


「そうね。あれ以来だわ」

 なんか前にもこんなことがあった気がする。子どもの声、彼と一緒――パズルのピーズが合いそうで合わない。それと同時に心が痛む。この心の痛みは一体なんだろう。


「ねぇ一つ訊いてもいいかしら?」


「いいですよ」


「石目くんは会社やめたいと思ったことある?」

 私の質問に彼は驚いた顔をした。そして、その表情は次第に真剣な表情になる。私は息を呑んだ。


「そんなこと一度もありませんよ。入って間もないですし」

 私はほっとした。やっぱり、美咲の勘違いかなんかだったのだろう。新人の間のない彼がこの会社を辞めようだなんて思わないだろうし、部長にいびられる姿も見かけたことないから辞めたいなんて思うはずがない。


 私と彼は、近くの駅まで一緒に歩いて、別れた。石目という男は私の思っていた人物とは全く違った。スーツを着ていなければ、学生と間違われてもおかしくないほど、顔は幼い。時折、混ざる方言も私の耳を楽しませてくれた。とんでもないほどよくできた部下という印象だった。


 それから、度々、私と彼は一緒に帰るようになった。もちろん、偶然という状況を利用して彼と一緒に帰る。


 もう、私の見える世界に明るい光は見つけられないと諦めていた。でも、彼を知って、彼を見るようになってから、私の視覚は明るさを取り戻したように感じる。もちろん、イロが見えるようになったわけではない。暗い中でも、光は灯せる。そのことを知っただけだ。


「だから、赤で書いてあるところを見ろって言っただろ? どうしてそれが分からないんだ!」

 怒鳴られると部長の唾が飛んできて、すごく不快だ。赤とは何イロだろうか。ずいぶんとその色を見ていない。微かに残るイロの記憶すらも消えていく。


「柿崎、お前を信頼しているから言っているんだぞ。この頃どうした? 前までの君はどこへいったんだ」

 珍しく部長の声は諭すように優しかった。果たして、私はどこへ行ってしまったのだろうか。気づいたら、イロが見えなくなっていて、記憶もちょっとあやふやで、今はどうにか踏ん張って立っている感じだ。


 ふと、石目の席に目がいく。そういえば、彼の周りにはいつも人がいない気がする。彼ばかりを見つめていたから気付かなかった。彼が会社にいる間、誰とも話していないことに。それはまるで、彼が誰にも認識されていないような。


「よそ見ばっかりするな! 今は俺が話してるんだ」


「はい、すみませんでした」


「もういい! 戻ってこれやれ!」

 本当に謝ってばかりだ。別に大した悪いとも思っていないのに頭を下げないといけない。部長と話すと、いつも暗いものを見つける。オフィスの床の角に溜まったゴミや汚れ、そして、周りからの哀れみの視線。おそらく、イロが見えていても真っ黒だ。


 一層のこと、私の目が見えなくなればいいのにと思った。


「佳奈―それなに?」

 美咲は私の机の上に置いてある瓶を指さした。


「これ、石目くんからもらったの。なんか栄養ビタミン? だったかなそういうのがこの薬に詰まっているんだって」

 美咲は顔を歪ませた。何かまずいことでも言っただろうか。


「ごめん、石目くんって誰だっけ?」

 私は思わず手を口に当てた。体中に鳥肌がたち、手のひらは汗ばんでいく。いや、美咲が冗談を言っているだけかもしれない。


「何言ってるの! 冗談はやめてよ。美咲も石目くんのこと、この前話してたじゃない」

 落ち着こうと思えば思うほど、声が震える。さっき見た光景がフラッシュバックする。彼の周りには――誰もいなかった。


「ごめん、覚えてないや。この頃、なんか物忘れがひどいんだ」

 美咲は遠くを見つめるような目でそう言った。目の奥はとても冷たそうだった。まるでイロを失った私みたいに。


 私は美咲から視線を逸らし、彼の席のほうへ向けた。そこに彼の姿はなかった。

 

 私は彼を探した。いつも自分の席にいるのに珍しくいない。どこに行ったのだろうか。喫煙所、会議室、休憩所とくまなく会社中を探したが、どこにもいない。自分自身を失ってしまうような焦燥感に襲われる。


 私は肩を落とした。

 諦めて戻ろうとしたとき、彼の声が聞こえた。私は彼の声が聞こえるほうへ歩み寄る。どうやら、誰かと話しているようだ。


 給湯室と書かれた部屋の前で聞き耳を立てる。聞き覚えのある声と共に、不快な感情をもたらした。彼と話しているのは部長だ。二人とも小声で話しているから、何を言っているのかわからなかった。が、彼が部長に何か謝っているという雰囲気だけは伝わってきた。


 その日は、結局彼と直接会うことはなかった。



 次の日、朝礼で彼がクビになったと告げられた。私はひどく動揺した。


 しかし、他の人たちは平然としていた。問題児がいなくなったみたいな雰囲気さえ漂っている。次第に私の中で怒りがこみ上げてくる。部長にもこの会社にも。なんで、誰もこのことを問題にしない。そう思ったら、いてもたってもいられず私は会社を飛び出した。


「柿崎!」

 遠くから、部長の怒鳴り声と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。そして、またかという声も混ざる。


 ――また?

 私はその言葉を反芻した。


 確信めいたものは何もない。でも、私は彼を追いかけないと何も始まらないと思った。

 

 商店街を抜け、駅のロータリのところで彼の背中を見つけた。走りに走った足は靴ズレができ、太ももの筋肉は痙攣していた。声を出そうとしても、呼吸が乱れてうまく出せない。

 

 また、私は走った。彼の背中を追いかけ、走った。イロの失われた世界で走った。私の存在に気づいてと祈りながら。

 

 ピーという笛の音と共に、ダーンというドアが閉まる音がした。そして、体はゆっくりと横へ進み始める。窓からの景色は横へスクロールされていく。


「どうしたんですか?」

 彼は驚いた顔をして、私の前に立っていた。


「ちょっと話したいことがあって」

「それじゃあ、私の旅に付き合ってくれますか?」

 私は頷く。


 彼と私は電車の中にいた。それも、快速列車ではなく、普通列車である。彼が何処に向かっているかも訊くことなく隣に座った。


「部長怒っていませんでしたか?」

 彼は笑いながら言った。


「いいのよ。あの人は」

 私はそう言って、電車の車内を見渡す。乗客は、目の前に座っているスーツを着たおじさんと小さいハートが書かれたリュックを背負っている女の子とその母親と思われる人だけだった。


 あれ――。

 この光景どこかで見たことがある。それもここ最近のことだったような。目の前にいるおじさんと目が合い、私は思わず目を逸らした。


 あれ――また。

 女の子が座席の上に膝を立てて、外の景色を見ながら、お外綺麗だねと言った。それに母親はそうねと言い微笑んだ。


 どこで――。

 突然、ポッケに入っていたスマホが鳴り響き、体が飛び上がった。スマホ取り出し、画面を見ると、部長と書かれていた。それを見た私は電源を切って、再びポケットにしまった。私は一つため息をつく。


「いいんですか? 部長からの電話」


「いいのよ……もう」

 彼はそうですかと言って、どこか安堵したように息を吐いた。


 しばらく、電車に揺られた。気づけば、目の前にいるおじさんもハートのリュックを背負った女の子とその母親もいなくなっていた。私と彼だけしか乗っていない電車は、がらんとしていて落ち着かない。ましてや、すぐ隣に彼がいる。


「や……」

 彼の声と電車のガタンという音が重なり、よく聞こえなかった。


「えっ、なんか言った?」


「いいえなんでも……それより、桜がきれいですね」

 私は彼の声につられて外を見た。その瞬間、澱んでいた世界に光が灯り、万華鏡のように世界を一変させた。私の世界にイロが灯された。そして、私の中に閉じ込められていた記憶もふと蘇った。


 そうだ。また、ここへ戻ってきてしまったのか。そういった漠然とした後悔の念が私に湧いた。


 彼の言う、桜はどこにも見当たらなかった。私がまだイロを見えていなかったら、そこらへんにある木を見て、そうだねと言っただろうか。ゆっくりと、息を吸って吐いた。 

とても、長いようで短い静寂は彼の言葉で裂かれる。


「そろそろ、気づきましたか?」

 彼の口調は私の背筋をぞくりとさせた。まっすぐ向けていた視線を恐る恐る、彼の方へ向ける。彼は不気味に笑っていた。


 私は急いで部長に電話しようとスマホを取り出す。画面を見た私は絶望した。どうやら、このあたりは圏外らしい。


「無駄ですよ。ここから先はずっと圏外ですから」

 私を絶望の淵へと落とす言葉だった。イロが見えるようになったことを喜んでいる場合ではない。早くここから逃げなければ危険だと思った。でも、この密閉空間で逃げる場所などない。さらに、こんな田舎の路線だと、いつ電車が次の駅に着くかもわからない。


 私は機会を窺うことにした。


「やはり、柿崎さんは呑み込みが早いですね」

 彼は腕を組み、勝ち誇ったような顔をしていた。


「どうして……」

 私は彼に迫った。すると、彼はふんと鼻を鳴らしてから言った。


「会社の方針ですよ。会社に従順ではないはみ出しものをちゃんと教育しろというね。そういえば、私が渡した瓶に入った薬はちゃんと飲んでくれましたか?」

 二日前にその薬を飲んでしまったことを思い出す。自分の胸元を押さえ、落ち着かせようとした。それでも高鳴った心臓は静まりそうになかった。


「その様子じゃあ飲んでくれたようですね。手間が省けて助かります。昨日、突然、部長にあなたのことを言われたものですから。あ、安心してください。服用して薬が効き始めるまでの潜伏期間の記憶とこの薬に関する記憶が消えるだけですから。多少の副作用でイロを認識できなくなったり、幻覚が見えたりしますが、それほど大きい影響はありませんし大丈夫です」

 彼はいたって冷静な口調でそう言った。恐ろしく機械的にアナウンスされる言葉と身に覚えのある症状に血の気が引いた。


「こんなの犯罪じゃない!」

 私は叫ぶように言って、彼を睨みつけた。


「いやいや、何を言いますか。教育しなおすためですよ。そのために、極力いらない情報をなくすだけじゃないですか。それに根本的な記憶はなくならないですし、問題はないでしょう。会社への記憶を正しいものに上書きする。それでも、ダメならさらに消して、また上書きする。それだけの話です」

 彼の言葉には、子どもが虫を無邪気に踏み潰すような残酷さがあった。とてもことを軽視している。とんでもない部下を持ってしまったものだ。


「まさか他のみんなも?」


「ええ、もちろん。あなたの友人の美咲さんも、多少お口が過ぎたのでこの前対象になりましたよ」

 彼はさぞ当たり前のことのように言った。そうかだから、美咲は彼のことを覚えていなかったのか。それに、彼の周りにあまり人がいないのも頷ける。


「でも、柿崎さんには本当に驚かされました。私と初めて会ったときも記憶が消えていないじゃないかと思うほどだったので。まあ、二度も同じ手に引っかかったところを見ると、思い過ごしだったかもしれませんが」

 信じていた者の裏切り。今までずっと抱え続けていた違和感と心の痛みはそれらを示していたのか。なんかちょっと可笑しく思えた。イロが見えなくなった理由は薬の副作用か、気づくなんて無理だ。これは、一度目だろうが、二度目だろうが関係なく、私の性格からすれば何度も負のサイクルに乗ってしまうことだろう。

 

 外の景色は田んぼや畑が広がりのどかだ。イロのある世界は、今の私には眩しすぎる。隣にいる彼をちらりと見る。口を開かなければ、社会のことも知らない子供のように見える。

会社の従順にさせるために記憶を奪い、会社のためになる人材を記憶にすり込む。そうやって、私の会社は動いていたのか。とんでもない会社に入ってしまったものだ。そんなことを考えていると、次第に意識が朦朧としてくる。

 

 彼は私の様子を見ながら言った。


「そろそろ、薬の効果が現れてきましたか。大丈夫です。あなたは二回目ですから、体が覚えていることでしょう。ただ、半日ほど眠るだけです」

 私は薄れゆく意識の中、次こそ彼らの存在を明るみに出してやると誓った。そして、私の視界は暗転した。



「佳奈おはよう! 昨日のこと噂になってたよ」


「えっ……何が?」

 昨日の噂とはなんだろう。私は何も覚えていない。ここ最近、こういうことが増えた。


「もう、とぼけないでよ。今はそうしておいてあげる。後で詳しく訊くから覚悟してね」

 私は美咲の言葉に頷き、窓の外を見た。


「そういえば、今日は空綺麗だね。春一番って感じ」

 空は何イロだっただろうか。気づいたら、私の世界からイロが消えていた。


<了>


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