序章 歴史から消えた昔話
少女は、幸せだった。
十五世紀、フランス東部の小さな農村に育った少女は何不自由なく暮らしていた。
やさしい両親。親切な近所のおばさん。一緒に笑う友達。
少女の毎日は平和で、楽しくて、輝いていた。
少女は、幸せだった。
――その日が、来るまでは――
赤く染まる月の下、少女は一人立ち尽くす。エプロンとワンピースは破け、靴はどこかにいってしまった。夜風の音だけが鳴り、金色の長い髪がなびく。少し肌寒く、少女の腕に鳥肌が立つ。
少女が右を向けば、自分の家があるはずだった。
目に入るのは崩れた家屋。毎年背の高さを刻んだ柱は折れ、屋根に乗っていた藁は吹き飛ばされていた。
少女が左を向けば、友達と走り回った花畑があるはずだった。
目に入るのはむき出しの地面。一輪の花も残さず消えてしまった。
少女が歩き出すと、所々に水溜りがあり、冷たさを感じる。少し粘つく水溜りの中には、何かやわらかい物があるのか、少女の歩みに合わせてクチャクチャと音が鳴る。雨水ではない。雨など降ってはいなかった。
それは、人間に内包されていた液体。
40人余の村人は、一人の少女を残して液体と肉塊に変えられていた。
この惨劇は、少女が起こしたものではない。
少女が見上げた先に、惨劇の主が白く輝く翼を広げていた。だが、不思議なことに翼を動かさず空中に静止している。
それはヒトの様な形をしているが全身は白く、大柄な大人よりも大きい。頭は丸みを帯び、顔は無い。少女には『白い化け物』としか形容できない異質な存在だった。
しかし、少女は特に気にする素振りも見せず歩を進める。村人達を皆殺しにし、村を廃墟に変えたこの化け物は、もう気に留める存在では無かった。
この白い化け物は、少女だけを見逃したわけではない。少女だけは殺せなかった。それは、幼い子供を標的としながら、いざ前にした時に怯んでしまう未熟な殺し屋の心理とは違う。殺そうとした結果、殺すことができなかったのである。
少女はその日、不思議な力に目覚めていた。
生まれ持ったものでは無く、努力して得たものでも無く、望んですらいない力。しかしながら、その化け物を退ける程強力な。
――その日、小さな村が一夜にして跡形もなく消えた。
近隣の町の人々は神隠しだの魔女の仕業だのと騒いだが、次第に忘れてしまった。
消えた村の真実も。白い化け物も。少女の力も。その全ての元凶も。
その日の出来事を知る人間はいない。
その日が歴史の分岐点であったことも誰も知らない。