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後編


 また今日もゆきは学校へ行く。大して楽しいことはない。みんなが当たり前のように楽しんでいるものを、楽しめない自分は随分歪なように思えた。

 ゆきは今日も一人で、校舎の影で手作り弁当を食べる。母はそんなゆきを知らない。学校で普通にクラスの友達とご飯を食べているものだと思っている。だから、ゆきが恥ずかしくないように、盛り付けもカラフルで女の子らしい。毎日同じものばかり続かないように、バランスも考えられている。

 それが弁当から伝わってくるから、ゆきはたまに泣きそうになる。だから心配かけないように、母には悟られないようにしていた。ゆきは母が大切だった。



 今日も何事もなく学校を終える。それがただただゆきを焦らせた。夏は折り返しをとうの昔に通り過ぎ、ちらほらと蟬の死骸を道で見かけた。季節は待ってくれない。焦燥感。

 帰り道、今日も八郎はそこにいた。



「今日、暇?」

「うん」

「今日は夜遅くまでいようか」

 八郎の提案にゆきはうなずいた。学校は少しずつ確実にゆきの心を壊していた。自分が必要のない存在のように思えて、そこにいるのが辛かった。だから自分を暇つぶしだとしても必要としてくれる。名前を呼んでくれる八郎の存在が、知らず知らずのうちゆきの支えになっていった。八郎の価値観に、ゆきはだんだんと惹かれていった。ゆきが持ってない自由を八郎は持っていたから。

 誰にでもある自由を、目の前にあるのに掴み取る勇気がない。そんな背中を押してくれるのが八郎だったから。


  *


 今日も八郎の車で遠くまで出掛けた。目的地を決めずに気の向くままのドライブ。

 うっとうしい太陽を山の向こうへ見送った。静寂が訪れ夜になる。

 街灯のない真っ暗な闇の中、二人は車から降りた。

「気をつけて」

 八郎はゆきの手をとった。

「こっち」

 緩やかな傾斜のある芝生の上に寝転んだ。視界いっぱいに広がる夏の星空。宝石箱をひっくり返したような光景。


 その中に二人ぼっちだった。




 恋愛感情のようなチープなものではなかった。家族や友人のような関係でもない。ただ、二人ぼっちだった。隣にいるのが八郎でなくても、この気持ちになってはいただろう。たまたまめぐり合えたのが、八郎だっただけで。人はそうして、今いる世界がこの世の全てだと考えるのだろう。そしてそれを運命と、呼ぶのだろう。


「ゆきちゃん。この星はずっと遠くにあるんだ。見ることしかできない存在なんだ。ただそれだけの存在があるって、すごく不思議だと思わない?」

「うん」

「俺たちはこの星にいて、この星のことすら全然知らないのに、この星と同じようなものが、この世界にはこんなにも存在してる。今いる世界がすごく小さくて、それが全てだと思いたくないんだ。こんなにも広いのに」

「八郎は中学生みたいだね」

「ロマンがあると言ってくれ」

「八郎……、手かして」


 八郎の大きくてガサガサの手を握った。自分と同じくらいの体温が、優しく体に溶け込む。

「ずっとこうしていられたら、私は生きたいと思う」

「楽しいかい?」



「……うん」

 ゆきは違う答えが欲しかった。「俺も」って言って欲しかった。

「ゆきちゃんは星空を見て楽しいと思えた。それはとてもいいことだよ。もっと楽しいこと探しにいこう。それを探す時間が人生だから。楽しいと思えるように生きてみな」

「ありがとう」

「八郎……」

「ん」

「なんでもない」

「そーか」



 もう片方の手でゆきの小さな頭を撫でる。その手は大きくて優しかった。

 優しかったから、忘れることはないだろう。




 そうして八郎はいなくなった。





  *




 学校からの帰り道。

 いつもの場所に八郎の姿はなかった。今までの当たり前だった日常が当たり前じゃなくなった。当たり前なんか、どこにもなかった。次の日も次の日も、八郎の姿はなかった。

 連絡先を知らないゆきはいつもの場所で、座り込んで待つ日もあった。それでも八郎は来なかった。

 もともとすごく自由な人間だ。私のことがつまらなくなったのかも知れない。もしかしたら、八郎はこうしてフラフラして人生をつまらないと思っている人に、生き方を教えてまわっているのかも知れない。分からないことだらけだ。私は八郎のことなんかなんにも知らなかった。今になってたくさん知りたいと思ってしまった。いつかの八郎の言葉が脳裏をよぎった。



「たとえば……、毎日が同じことの繰り返しのように思えて、なにか刺激がほしいと思ったとき、一番手っ取り早いのが知らない人と友達になることなんじゃないかなぁ」



 私のことを知ってしまったから。それが普通になってしまったから。どこかへ行ったのかも知れない。一言くらい……って思ったけど、人の別れなんてそんなもんか。ゆきはまた一人になった。


 十四歳。夏の終わり。もともと一人だった。

 でもあの星空の下にいたときだけは、二人ぼっちだった。



  *



 ゆきは八郎に教えてもらったとおり、自分で自分の人生を楽しもうと思えた。嫌われたなら仕方がない。自分からクラスの人に声をかけるようになった。そうしたら少しずつ友達も増えた。

 知らない世界を知りたいと思えた。そこにたくさん、楽しいことが待ってる気がしたから。

 学校が楽しいと思えた。ゆきは自由を手に入れた。勇気をだして、これが生きていくことなんだと知った。自分の人生は自分で切り開くものだと、同じ時間でも、自分で楽しくしていくのだと。もう一人で影に隠れてお弁当を食べることもない。一人で帰ることも生きていく理由を探すこともなくなった。


 八郎、私ちゃんと生きているよ。どうかな。学校……、ちゃんと楽しいよ。



  *



  *



  *



 秋の空。

 いつもの場所に座っていた。煙草の煙を遠くまで薄めた。

「今日、暇?」

「今日は友達と遊ぶから暇じゃない」

「ならいい」

「明日ならいいよ。明日ちゃんとここにいて。もうどこにも勝手に行かないで」

「分かった。待ってる」


 次の日。二人は小さな車に乗ってどこかへ向かう。平坦だと思っていた道も、紅葉に染まり見惚れるくらい綺麗だった。

「ゆきちゃん、学校は楽しいかい?」

「楽しいよ」

「そっか」

 頭をぽんぽんと撫でた。あの星の夜みたいに。

「あんたがいてくれたら、私はずっと生きたいと思う」

「そーか、気が合うね」

「そうだね」

「ねぇ、なんで私に声かけてくれたの?」

「さぁ、なんでだろうね」

「でも、ありがとう」

 八郎の手は、温かくて優しかった。


 この世界には知らないことがまだまだたくさんあるから。

 二人で探しに行こう。どこまでも遠くへ。あの夜の星に届くくらい遠くまで。


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