92.入浴前の雑談
入浴回はまだです。
時間も近づいてきたという事で着替えを取りに部屋に移動しているのだが、どうして綾香はさも当然のように俺の横を歩いているのだろう。本当に一緒に入るつもりなのかよ。
「本気か?」
「一緒に入る機会なんて今日しかないから。勇実ともまだなんでしょう?」
「まだも何も一緒に入る気なんて全くない」
「勇実も残念ね。確か今日はライブだったかしら」
怖いのがそれなんだよな。俺が現在いる場所は京都。そしてあいつ等のライブしている場所が大阪。行程では大阪に立ち寄ることになっているから下手に嗅ぎつけられると厄介な事態になり兼ねない。
「綾香は一人で此処に来たのか?」
「マネージャーと一緒よ。私がデビューすると同時に引っ張ってきちゃった」
「おい、誰を巻き込んだ?」
こういう言い方をするということは苦労枠の同級生の誰かを引き込んだのだろう。それもプライベートを一緒に過ごすとなると女性の誰か。意外と交友関係が広いから予想がつかないな。
「蘭よ」
「委員長、南無」
及川蘭。渾名は委員長。女性陣のまとめ役であり、何故かそんな渾名が付いてしまった苦労枠筆頭。ちなみに男性陣筆頭は俺である。そしてその筆頭までも暴走すると収拾が付かない事態になるのだが。
「別に苦労を掛けている訳じゃないわよ。あの頃みたいな馬鹿騒ぎはやっていないもの」
「随分と丸くなったな。つまらなければ率先して動いていたのに」
「前みたいなことを気軽に出来る立場じゃないもの。これでも成人して職も手に持っているのよ。いつまでも子供のままじゃいられないわ」
この辺は変わった部分か。分別がちゃんと付いているのはいいのだが、偶に暴走するような気配はあるな。今回の事態だって確実に暴走している部類に入るだろう。
「琴ちゃん。悪いんだけど貴女の部屋に行く前に私達の部屋に寄らせてもらっていい?」
「別に構わないぞ。どうせ委員長の事を引っ張ってくるんだろ?」
「そういうこと。こういうことはやっぱり分かち合わないと」
「巻き込むの方だろう」
蘭なら別に何の問題もない。彼女が暴走するようなことなんて稀であるし、一目見て俺が総司であると簡単に信用するような人物でもない。至ってまともな人物なのだから。
「蘭、温泉に行くわよ」
「また唐突ね。準備しておいて良かったわ」
眼鏡を掛けたセミロングの黒髪。そして如何にも真面目そうな雰囲気を纏っている辺りは変わっていないな。でも大人っぽく見えるようなのは成長だろう。
「そして人様に迷惑を掛けているみたいね」
「迷惑なんてとんでもない。むしろご褒美みたいなものよ。私のファーストキスを奪ったのだから」
「奪ったのはお前だろうが!」
勝手に捏造しているんじゃない。額に手を当てて溜息を吐いている蘭を見る限り、慣れているな。以前のクラスでも日常茶飯事でそれを収拾するのが蘭の役目だから。
「これで恋愛関係の仕事も受けられるわね」
「うわぁ、平常運行」
蘭も中身は全く変わっていないようで安心したような、不安になるような。前から秘書とかそっち方面が似合うと思っていたのだが。確か最初の就職は一般的なOLだったはず。
「それにしても凄い偶然ね。私達の中で話題沸騰中の琴ちゃんと出会うなんて」
「待て。私の呼び方はそれで固定されているのか?」
「勇実からの情報だと本名が伏せられていて琴ちゃんで来たから」
隠すんなら全部隠せよ。何で画像付きで俺の一部を情報公開しているんだよ。気遣っている部分が垣間見えているのだが、やり方が明らかに間違っている。
「あの野郎。出会ったら絶対に殴ってやる」
「それで懲りたら勇実じゃないわよ。私がどれだけ苦労したと思っているの」
「ご尤も」
注意した程度であいつの暴走が止まることなんてない。力技ですら何とかなる程度のレベルだからな。下手したら拘束外してでも暴れ出しかねない。だからこそ苦労枠がいなかったら当時の教師陣は揃って倒れていた可能性があった。
「というか琴ちゃんは何で納得するのかしら?」
「総司だからよ」
「へぇ。……は?」
綾香の言葉に一瞬納得して疑問の言葉が出たな。そもそもそれが正しい反応なんだ。綾香の反応こそがおかしい。恐らく勇実もすぐに納得する方だろう。あれもおかしいからな。
「いえ、総司君は亡くなったじゃない」
「それが何故か女の子になっていたのよ。そうでもなかったら私がファーストキスをあげる訳ないじゃない」
「いえいえ、常識的に考えておかしいわよ」
うんうんと同意しておく。何だろう、この安心感。自分の事を否定されているのにやっとまともな人物と巡り会えたような気がする。常識人がやっと来てくれた。
「いいか、綾香。あれが正しい反応だ」
「それもそうね。何か私も安心しちゃったわ」
「えっ、嘘。本当に総司君なの?」
「否定はしない。ただ本当に私は死んでいるからな。あくまで此処に居るのは如月琴音だ」
生きている前提で話されても困るんだよ。すでに総司としての人生は終わっている。俺がこれから歩むべき人生は如月琴音として。それでも未練がましく男の意識を保とうとしているのは浅ましいよな。
「本当に本当なの?」
「嘘言っても仕方ないだろ。何か知らないが魂かな。そんなものが琴音の身体に移動したみたいだ」
詳しい事なんて本人だって分かっていない。すでにこの件に関しては考えることを止めた。どうやった所で原因が解明されることなんてないはずだから。
「何か落ち着いているわね。普通なら慌てふためくような事態じゃないの?」
「今更だ。伊達に半年以上もこの身体で生活していない。俺としての意識が宿ったのは今年の三月の話だからな」
「何で連絡。といっても出来ないわよね」
義母さんにも言ったが、そんな連絡を寄越したところで相手の方が困ってしまうだろう。常識からかけ離れているし、詐欺の電話ではないかと疑うのが当たり前だ。
「あまり気にするな。それより時間があまりないからさっさと行くぞ」
「あれ? ここで感動のハグとかが定番じゃないの?」
「ねーよ」
そんなものを俺に期待するな。確かに蘭の目が潤んでいるが俺の言葉でこけたな。立ち上がった後に懐かしそうな顔をしていたのだが、俺は以前もこんなものだ。
「相変らず空気を分かっていて、読まない行動をするわね」
「中身が俺だからな。というか綾香。ドサクサに紛れて俺の腕にしがみ付くな」
「だって蘭と話していて私が暇なんだもの」
色々と当たって困るんだよ。それに気づいていてやっているのだから性質が悪い。蘭もこの状況を分かってくれるから綾香の荷物も持って移動の準備を完了してくれる。
「それじゃ私の部屋に行くけど。総司と呼ぶなよ。周りが混乱するから」
「「分かったわ」」
勇実達と違って俺は有名じゃない。名前を出した所で誰も分からないが、変なことをいって混乱させるのも面倒だ。その前に綾香の態度で混乱を招くだろうが。
「ただいまー」
「ほら、言った通りに時間通りに戻って来たじゃない。温泉に関しては琴音は信用していいのよ」
「うん、それについては大丈夫だったね。ただやっぱりというかよく分からない状況になっているみたいだよ」
そう思うよな。護衛の人達に引っ張られていったのに、戻ってきたら女優とそのマネージャーを引き連れてやってきたのだから。これで正確に何があったのか分かったら色んな意味で凄い。
「これだから琴音は」
「そうだよね。これだから琴音は」
「よし、二人とも。そこに正座しろ。直々に説教してやる」
もう風呂の時間とか気にしてられるか。最悪隠れて入れば問題ないだろう。問題があるとしたら間違った俺に対する認識を持っているこの二人だ。何としてでもその認識を変えてやらないと。
「何だか昔を思い出すわね」
「綾香の言うとおりね。私も苦々しい記憶が蘇ってきたわ」
綾香と蘭で反応が違うな。一人は楽しそうに、一人は耐え難いものを思い出したように。ノリ的なものでいえば前のクラスと似たようなものだからな。それでも馬鹿をやるような機会など滅多に訪れないが。
「何で琴音の知り合いは業界関係者が多いのかな?」
「私が知るか。言っておくが綾香も勇実達の知り合いだからな。その繋がりの所為だろ」
俺の繋がりと、勇実の繋がりは殆ど一緒だからな。流石に死んでからの三年間であいつにどれだけの友人知人で来たのかは知らない。そう言えばそこら辺の所、聞いたことが無いな。
「それより琴音。もう入浴の時間になっているんだけど」
「よし、行くぞ!」
「相変らず切り替えが早いよね。むしろ説教はどうなったのかな?」
「宮古。蒸し返さない方がいいわよ」
義母さん直伝の説教を聞きたいのなら構わないぞ。最短でも三十分位は説教できる自信はある。やる気は無くなったが。それよりも温泉の方が大事に思えてきた。
「琴ちゃんは相変らず温泉が大好きなのね」
「でも勇実達は行ったことがあるようだけど、私と綾香は一緒に行ったことが無かったわね。修学旅行は、あまり思い出したくはないわ」
あれほどカオスな修学旅行があっただろうかと思うほど、全員が大暴走したからな。胃潰瘍になった教師が出る位の悲惨さだった。あまりに自由過ぎる俺達のクラスに他のクラスがドン引きしていたからな。
「琴ちゃんは音楽はやらないの?」
「最近になってベースを手に入れましたので現在練習中です」
「何で急に敬語になったのかしら?」
「今の立場ですと色々としがらみがあるので」
俺達の部屋から出たのだから他の生徒達が廊下にいるのだ。対外的なことを考えるとあまり素の喋り方は出来ない。これが以前の俺と今の私との絶対的な違いになる。
「十二本家の人間としてイメージがありますので」
「「えっ?」」
二人揃って足を止めて呆然としているのだが、先程フルネーム言ったばかりだよな。何でそれで気付かなかったんだよ。まさか同じ苗字だけだと思ったのだろうか。その可能性もあるな。
「私、そんな人の唇奪っちゃったの?」
「それをこの場で言わないでください!」
結構生徒達の人数が多い所で言いやがったよ。これがワザとなのか、反射的に出したのかは分からない。だけど言った後に満面の笑みを浮かべた辺り、楽しいことになったと思っているな。
「琴音、どういうこと?」
「何々? どういうことなのかな?」
早速食いついてきたのがクラスメイト達というのが性質が悪い。それに声が届いた生徒達がヒソヒソと話し出した辺り、明日には噂として流れ出すだろう。
「最悪です」
「綾香なのだから仕方ないわよ。同情だけはしてあげる」
「ちゃんとリード繋いでおいてください」
「無理よ。逆に私が振り回されるもの」
そりゃそうだけどさ。被害が来ない限り、動こうとしないのは過去の教訓からだろうな。下手に手を出すと絶対に被害が自分にもやってくるから。
「ほら、琴音。白状してよ」
「私達にも情報を共有させてよ」
「もう勘弁してください」
楽しむべきはずの修学旅行が何でこんなことになっているのだろう。気苦労が絶えないのだが。何か二日目も安心できる気がしないぞ。
久しぶりの雑談回でした。
いい加減、筆者の日常ネタを書くのもあれですね。
本編を食いかねないです。今更ですけど。
ということで簡潔に。爪を引っ掛けて少し皮膚が剥げました。
そこを愛猫に噛まれました。無茶苦茶痛かったです。