192.三歩目は過去に踏み出す
もうこの部屋に罠はない。それは取り戻した記憶によって証明されている。恐らく兄と姉の曲が鍵になっていたのだろう。興奮した茜さんによって揉みくちゃにされたり、罠の片付けでフラストレーションは溜まり続ける一方だ。
「目覚めてからいいことが一個もない」
朝から大変満足していた茜さんはすでに出勤している。あとでダビングした映像ディスクを渡さないといけないのは大変不本意だが。あの人だったら絶対に実力行使に打って出るだろう。その被害は自分に来るのだから、大人しく渡すのが賢明な判断だ。
「香織と話せたのは良いことの一つかな。そう思っていないとやってられない」
クラッカーの残骸をゴミ袋に詰め込みながら愚痴を零す。壁に書かれていた血文字みたいなのはペーパーだったから剥がせばそれで終わりだったけど、大量のクラッカーは散らかし放題。こっちのことを考えているのか、全く考えていないのか分からないな。
「よし、こんなものかな」
片付けで困ったものはバズーカ砲か。下手にゴミとして外に出したら、いらない誤解を受けそうなので保管するしかない。または誰かに引き渡すしかないのだが、その候補者によってはまた私が被害を受けそうな気がする。
「このまま黙って部屋にいるのもなー」
学園はすでに春休みに入っていて、基本的に暇を持て余している。兄に倣って勉強をしてもいいのだが、今日はそういう気分でもない。原因になったのは兄姉の罠だけどな。こんな精神状態で勉強に集中できるか。
「なら、外に出かけるか。うーん、何か用事を作るような記憶は」
目的を持たないままぶらぶらするのも悪くはない。でも、最初の一日を無駄に費やすのもどうかと思う。せめて、兄姉のやり残しを消化しようと思って記憶を探っていく。できれば共通したものがあればいいのだが、そんな都合のいいものがあっただろうか。
「あったな。そういえば」
あまりにも昔のことでお互いに忘れている出来事。それは些細な出来事であって、お互いに大切にしている思い出だからこそ、埋没していたもの。そして、簡単であるからこそ今やれる。
「となれば、連絡を取らないとな」
さて、誰に連絡を取るか。この人選は重要になってくる。下手な人物に連絡を取るとそのまま拉致される可能性だってあるからな。夕方に香織のところへ行かないといけないのだから、時間が取られるのは避けないと。
「妥当なところで蘭か奈子だな」
魔窟の人間でそこまでこちらに迷惑を掛けてこないのはこの二人位しか出てこない。必要な情報を貰えるのであれば、魔窟の誰でもいいのだが。予定などを考えると該当者は絞られる。
「奈子でいいか。あれとの関係が深いのはこっちだしな」
というわけで、奈子に連絡を取る。私が必要なのは奈子を通じてある人物に会うこと。流石に奈子からあれの連絡先を教えてもらうことはできないからな。個人情報だし。なおかつ、まだ私とは出会ってすらいないのだから。
「朝早くから悪い」
『別に問題ないが。珍しいな。琴音から連絡を貰うなんて』
「ちょっと忘れていたことを思い出してな。柊と連絡を取れるか?」
『柊に用事か? あれなら交通事故で自宅療養しているはずだぞ』
「何? 遂に轢かれたのか?」
『いや、流石にあの馬鹿でも直接轢かれていたら生きていないだろ。恐らく、多分』
そこで断言できないあたり、柊という人物がどれだけ強烈な人間なのか分かる。魔窟の中でも指折りの個性派だからな。そして、兄と奈子が保護者のような扱いを受けていたのは不憫でしかなかった。
「以前に車関係で何かなかったか?」
『あれは車の横を通り過ぎたら、ドアを開けられて吹っ飛ばされたんじゃなかったか?』
「あー、そんなこともあったな」
目撃者は兄と奈子だった。二人と合流しようと歩いていたら、運悪くやられたんだったな。ドアを開けた人は驚いてすぐに謝っていたけど、柊自身がほぼ無傷だったこともあって何もなかった。本当に一切気にしていなかったから、こっちが苦言を呈したぞ。
「それで今回は?」
『信号待ちしていたら後ろから突っ込まれたと言っていた』
「何だ。完全に被害者なのか」
『流石に首を痛めたらしい。運が悪いのは相変わらずで、今回に関しては同情する』
柊が被害者になるのは珍しくないのだが、何かしらの原因もありそうな感じがしてしまう。それは過去にやらかしていた事件の所為であるのだが。クラスメイト総出で詰問するような事態もあったな。
「とりあえず、自宅にはいるんだな。会いに行って大丈夫そうか?」
『本人自体は生活に支障がない程度に元気だからな。十二本家の琴音が会いに行っても、あれなら大丈夫だろう』
車に追突されて、元気だというのもおかしな話ではあるのだが。魔窟の中ではそれが当たり前の認識となっている。一切の根拠はないのだが、柊なら大丈夫だという信頼だけがあるのだ。
「それじゃ、午前中に会いに行くと伝えておいてくれ。要件は忘れていたものを取りに行くと」
『了解した。琴音が行くと伝えておく』
お互いに挨拶して通話を切った。ふぅ、と息を吐いて安堵する。問題なく兄の記憶が自然と出てきて、会話を繋げることができた。記憶を探すために間が空いたり、齟齬が出たりしたらこれからの生活に不安があったから。
「しかし、何で奈子は十二本家のと言ったんだ?」
別にその単語を繋げる必要はないはず。私の話はすでに魔窟の連中に伝わっているのだから。正月の騒動に柊が参加していなかったのは兄も意外に思っていたはず。予定でも合わなかったのだろうか。
「直接聞けばいいか。何か隠していたとしても、柊なら馬鹿正直に答えてくれると思うし」
外出する準備は簡単に済ませる。春になりかけているとはいっても、まだ肌寒い。いつもの格好に上着を羽織る程度でいいだろう。着飾る必要はないな。会いに行くのは友人の家なのだから。
「目新しいと感じるものもないか」
兄から私に変わったことで何かしらの変化があるのかと思ったのだが、色んなものを継承している私にとっても外の光景は見慣れたものに感じる。そのことに安堵すれど、落胆はない。必要だったのはこの安心感だ。
「帰りに実家へ顔を出しておくか」
兄の実家ではなく、姉の実家の方へ。どうせ義母は仕事で留守にしているはず。そっちは後回しでいい。どうせ兄の実家に顔を出せば、勇実あたりに捕捉されてそのまま確保されるのがオチだからな。
「それに義母さんや師匠は些細な変化で気づくだろうし。その対応を考えるとちょっと行きづらい」
亡くなったと思った兄が、女性として現れたのに。また唐突に居なくなってしまったと知ったら悲しむだろう。それが当たり前の感情のはずなんだ。だけど、どうしてかな。あの人達なら普通に受け入れてしまうと思ってしまうのは。
「兄の理解者だからかな」
義母さんはずっと育ててくれた人だし、師匠は兄にとって必要な知識と技術を与えてくれた人。その二人だからこそ、兄がどうしてこんなことをしたのか理解してくれると勝手に思ってしまう。それでも私が怒られるだろうけど。
「割を食っているの私じゃん」
冷静に考えると兄の身代わりで代わりに説教を食らうという理不尽でしかない状況を想像できてしまう。やっぱり行くのは後回しでいいやと改めて思う。
「おのれ、兄め。どこまで私に被害を残していくのか」
姉に対する不満はそこまでない。今のところは。だけど、兄は様々なものを残していった。そこまで深く考えていなかったのだろうが、面倒ごとが多すぎる。少しでも兄の意識が残っていたのなら絶対に喧嘩となっているな。
勝てる気は一切しないけどさ。
この終盤で新キャラを登場させるとか頭おかしいですね。
配置的に仕方なかったのですけど。
以前にチラリと名前だけ登場したキャラですが、モチーフは私です。
ぶっちゃけますと、今回書いた柊の出来事は全部過去の体験談です。
本当に何でこんな目に遭っているのか全然分かりません。