178.5.特訓は恥辱の始まり
最初の琴音主観です。
何となく書かないと駄目じゃないかなと思った特訓風景です。
「お兄さんの馬鹿野郎ー!」
第一声がこれの時点で私の心情は誰だって分かるでしょう。拒否し続けていたのに、文字通り引きずり出された私の気持ちである。何でお兄さんにそんな強制力があるのか全くもって分からない。
「落ち着いたのなら発声練習からね」
キョトンとした私は悪くないと思う。目の前で絶叫し、明らかに様子が変な私に対して、何の疑問も持たずに練習しろと言っている人物がいる。普通、何があったのか詮索するものではないのかな。
「えーと、白瀬さん?」
「時間は有限。さっさとやる」
「は、はい!」
有無を言わせない迫力に仕方なく従う。発声練習の仕方はお兄さんの記憶で何となく知っている。見様見真似でやってみたのだけど、あっさりとダメ出しを食らう私でした。
「うん。駄目駄目。琴ちゃんが練習させたがるのが分かった」
「普通は疑問に思うのでは?」
「現実は受け入れるもの」
いや、これを現実だと信じられるその頭が信じられないのだけど。お兄さんも特に説明せず、ただ「今から入れ替わるから」で私と変わってしまった。それなのにあっさりと受け入れ過ぎでは?
「外見に中身が伴わないなんて魔窟では当たり前。インドア派を自称していて、行動がアウトドアな奴までいたのだから」
「いえ、それは私とは全く違いますよ」
似た例として扱われているけど、それは絶対に違う例えのはず。私とお兄さんの場合はそもそも人格が違っているのだから。それに記憶を知っているからこそ、それが誰なのかは私でも分かってしまう。
「どちらかというと、普段おとなしい人が突如として高笑いしながら爆走しているほうでは?」
「あれは嫌な事件だった」
言葉と表情が一切合っていないとはこのことだね。表情が笑いを堪えていると丸分かり。魔窟の人達は誰もがそうなのかな。学生時代のどんなものでも楽しい思い出となっているのは。
「本当の嫌な事件はお兄さんのブチギレのはずでは?」
「あー、あれは確かに大変だった。でも、あれは相手が悪かったのだから私達が攻勢に打って出た後は呆気なかった」
相手に対する攻勢よりも、お兄さんを止める方が大変だったはず。陣頭指揮を勇実さんが取っていたのは意外過ぎた。むしろ、魔窟総出で生徒会室に突撃しようとしたお兄さんを止めようとしたのはある意味で凄い。
「そうだ。まだ挨拶していなかった。今更だと思うけど、魔窟の音楽系統担当の白瀬。よろしく」
「如月琴音です。こうやって魔窟の方と面と向かうのは初めてですね」
手を差し出されたので握手だと思ったのだけど、違和感があった。握手なら親指が上を向くはずなのに、なぜか掌を上にされている。その意味に気付いた瞬間、私の目が据わったのは当然である。
「うんうん。やっぱり琴音さんはこっち側の人間」
「初対面の相手にお手を要求するのは人としてどうかと思います」
「初対面の相手に向けてはダメな目をしている人もどうかと思う」
蔑んだ目をしている自覚はある。でも、それは相手が馬鹿な要求をしてくるのだから当たり前。何でこんなことをしてきたのかは全く分からないけど。
「普通の人なら困惑する、意味を問う、流れ的に手を乗せる。そのどれか。侮蔑の目を向けるのは魔窟的に当然の流れ」
「どんな生活をしていたのですか」
「性格破綻している連中の集まりみたいな場所だったから仕方ない。面白い場所だったのは間違いない」
「私だったら心労でキレそうです」
「そんな感想が出る時点で魔窟寄り。普通なら逃げる」
苦労人たちはよくそんなクラスに耐えきったと思う。ある時期を乗り切ってからの制裁行動は明らかに過剰だったと思うけど。それはそれで楽しんでいたのは顔を見れば分かる。
「さて、あまり時間もないのも事実。ちゃんと特訓しないといけない」
「平然と流れを戻されるの癪ですが、時間がないのは確かですね。お兄さんも無茶な要求をします」
「琴ちゃんはやると決めたら伸びしろがあるから大丈夫。大丈夫じゃないのは経験値がゼロの琴音さん。だから私が泊まり込みで特訓しないといけない」
卒業式の計画はお兄さんが担当だから問題はないと思う。私とお兄さんにとっての本番はレコーディング。それまでの期間は本当に少ない。その為に部屋に白瀬さんを呼んで、しかも本番まで泊まってもらう流れになっている。どうしてそこまでお兄さんが本気になっているのかは全然理解できない。
「あれだけやりたくないと言っていたのに」
「覚悟が決まったんだと思う。それか、証明でも残そうと思ったのか」
「本当に魔窟の人達はお兄さんを理解していますね」
「濃い時間を共有していた仲間だから」
私かお兄さんのどちらか、またはどちらもがいずれはいなくなる。その前に私達が確かにいたという証を残したかった。それが白瀬さんの考え。でも、それは違う。だって、ノリと勢いのみでお兄さんは決断したのだから。ぶっちゃけ、何も考えていないと思う。
「それに私としても琴音さんを理解しないと曲を作れない。琴ちゃんは総司の流れで曲を作れるけど、琴音さんがどんな人なのか理解しないと、合った曲にならない」
「それは確かにそうですね」
「だからどんどん歌ってもらう。何が得意で、何が苦手なのかも把握しないといけないから。まずは一曲目。はい、歌詞」
「えーと。……誰が歌えますか、こんなもの!」
「えっ? 駄目?」
「何で疑問に思うのですか! 明らかに狙ってやったでしょう!」
「いえいえ、私は何も知らない。偶然、それか不慮の事故。だから歌うの」
タイトル「お兄ちゃん、大好き」と書かれた歌詞。私にとってクリティカルヒットなのは間違いない。しかも今回、お兄さんは私の中で寝ていない。私と白瀬さんの会話を普通に聞いている。そんな状態でこんなものを歌えるわけがないでしょ。
「チェンジで!」
「恥じらいは克服できる。琴ちゃんもそうだけど、琴音さんも恥じらいが最大の弱点になるからその為の処置」
「方向性が間違っているのです!」
人前で歌うのが恥ずかしいのであって、身内に恥を晒すのは別である。絶対に面白い状況になると思って選曲したのが分かる。やっぱり白瀬さんも愉悦側であると再認識してしまった。
「総司なら死んだ目をしながら歌ってくれたのに」
「被害者が生まれている曲を歌わせないでください!」
記憶を全部見たわけではないけど、お兄さんもこれを歌わされていたのか。ということは、勇実さんも歌ったのかな。あの人なら何も思わず歌ったとは思うけど。この人達の感性はどうなっているの。
「恥なんてかなぐり捨てて、レッツゴー!」
「急にテンション上がりましたね!?」
こうして私の特訓は幕を開けた。変な曲ばかり歌わされたり、途端に真面目なものに切り替わったりと掴みどころのない白瀬さんに付き合うのは大変疲れる。もしかして、お兄さんはこうなるのが分かっていて私と交代したのかな。だったら許せない。
『魔窟と付き合うのがどういうことか、分かっただろ?』
『あれは人間以外の何かです』
『その感想はどうかと思う』
人間として付き合っていたらこちらの身が持たない。だったら、すでにそれ以外だと思っていた方が気持ち的に楽。私はそう思うことにしました。
「あー、だから魔窟。魔物の巣窟ですか」
知りたくなかった事実に気付いてしまった。だからどうしたという話ですけどね。
特訓らしいことを少ししかやっていないのはご愛敬です。
頭を空っぽにして書いたらこうなったの結果ですね。
これにて前日譚は終わりです。次回から卒業式当日へと戻ります。




