167.思い出を胸の内に
裸でいるのに我慢の限界に達した私は急いで浴場から離脱して衣服を着込む。お兄さんが浴衣とか選ばなくて本当に良かった。私と同じ感覚ならば、絶対に着ないであろうと信頼はあったけど。でも、前例からお兄さんは押しに弱いと思われる。
「うーん、地味」
白黒のストライプが描かれた寝間着。誰かに見せるような衣服じゃないけど、もうちょっとこう何かないのかな。いや、第二の私が選んでいたあのド派手な格好もどうかと思うよ。何というか、両極端すぎる気がする。
「走って逃げることもないじゃない」
「私としての制限時間が過ぎました」
「本当に箱入り娘ね」
私を追いかけるように香織さんも浴場から出てきたけど、ちゃんと身体は温まったのだろうか。目的が入浴じゃなくて、先程の話だったのは分かるけど今の季節で中途半端な入浴は風邪の原因になってしまう。
「それでさっきの話の続きだけど」
「折角ですから座りましょう」
脱衣所から出れば、休憩スペースが広がっている。さて、飲み物にしようか、それともアイスにしようか。二つ並んだ自販機の前で思い悩んでしまう。お兄さんのお金を使うのに遠慮はしない。だって、私の持ち物でもあるのだから。
「冷たい! でも美味しい!」
「ここら辺は琴音と変わらないわね」
選んだのはソーダ味のアイス。安っぽい味と、爽やかな風味が口の中に広がる。こういったアイスを食べるのは初めて。家ではお風呂上りにアイスを食べるという行為さえ許されていなかった。今なら大丈夫だと思うけど。むしろ、お兄さんなら大体のことは許される。
「話の続きしてもいい?」
「いいですよ」
「何で即答で受けたの?」
やっぱり疑問に思うよね。お兄さんにとって将来の就職先は決めかねていた。実は就職自体は選択肢に困っていない。だけどそれは魔窟の方々に頼らないといけないというデメリットがある。つまり、過去の続きを辿る道。でもそれは、お兄さんにとって望まない道でもある。
「一つはお兄さんにとって今の私を大切にしていること。過去を頼って、お兄さんとしての道を歩むのは違うと思っているのです」
「あくまでも琴音としての未来を進むのね」
「そうです。私としてはお兄さんが幸せであれば、どちらでもいいのですけど」
「琴音と琴音ちゃんがちゃんとした男女だったら絶対に付き合っているわね」
そんな道があったかもしれない。でもそれは、もう途切れてしまった道であるのは今が証明している。それに、私とお兄さんが同一の身体を共有しているからこそ、こんな思いを抱いている。
「もう一つが専業を得るです。すでに歌手としての道は整備され過ぎて避けては通れない。なら、その活動を妨げる職業が必要でした。歌手を副業とするようなものが」
「だったら、他にも選択肢はあったんじゃないの? ほら、実家を継ぐとか」
「そちらは私も、そしてお兄さんも否定している道です。私は一度、全てを諦めました。お兄さんは本来の私ではないので、如月家を継ぐのに相応しくないと思っています」
確かに如月家を継げば、歌手としての活動に大幅な制限を加えることができる。でも、その為に望まない道を進むほど切迫した状況でもない。あくまでも歌手は自分の意思を曲げてまで、絶対になりたくない職業ではない。
「気が進まないのは本音なのですが、霜月家が簡単に逃がしてくれるはずもありませんので」
「やる気のない歌手ね。そんなので大丈夫なの?」
「私は全く自信がありません。でも、お兄さんなら歌うだけなら全力でやると思います」
何事にも本気で取り組むはず。レコーディングだけなら集中さえすれば周りを無視することができるかもしれない。だけど、ライブとかになれば絶対に無理。それは私の意思が大いに関係してくる。
「琴音は音楽関係にも明るいわよね。というか、基本的に万能よね」
「本人は器用貧乏だと思っていますよ」
「その範疇を逸脱しているのを自覚していないのは性質が悪いわ」
私としての能力もあるだろうけど、それにプラスしてお兄さんの能力もあるから器用で済まされない部分が沢山ある。本人は気にせず、当たり前のように振舞っているけど、一般人から見たら明らかに異常者寄りのはず。十二本家の殆どがそんな感じだから、私もあまり気にしていない。
「そんな訳で香織さんからの提案は私達にとって渡りに船でした。むしろ、誘われなくてもお兄さんからお願いしていたかもしれません」
「でも、すぐじゃないわよ。私も専門学校とかで学ばないといけないと考えているから」
「私達も大学への進学は考えています。大学卒業までは学業優先ですね」
お兄さんは高校卒業後に就職したので大学生活を経験していない。ただ、十二本家の一員として大学卒業は義務のようになっている。問題があるとすれば、お兄さんがどれだけ人を惹きつけるかによる。そして、それによる騒動がどのようなものなのか。
「まだ一年後の話ですけどね」
「一年なんてあっという間よ。琴音と出会って、色々とあったけど月日が経つのなんて本当にすぐだったわ」
香織さんが知っていることも、知らないことも本当に色々な出来事が起こった。私だけでは絶対に発生しえないことも、お兄さんだからこそ乗り越えられたものだってあった。でも、それはこれからも続くだろう。
「さて、将来の話も終わったし、どうしようか?」
「あとは寝るだけではないのですか?」
「折角、琴音ちゃんと出会えたんだから、このまま終わるのは勿体ないわね。試しに卓球でもしてみる?」
私としては今の身体に慣れていくのはあまり好ましくない。私の同化係数が上がってしまえば、お兄さんに不都合が生じてしまう。このままだと私とお兄さんの入れ替わりが唐突に起こってしまう危険性がある。でも。
「何かを賭けますか?」
「私が勝ったらアイス。琴音ちゃんが勝ったらジュースでどう?」
「受けましょう」
それでも、お兄さんが起きていたのなら機会を無駄にするなと絶対に言う。不都合があるのなら、今まで通り私が防げばいいだけ。やれていたことが急に出来なくなるわけじゃない。それが困難であろうともやりきるのが私の役目。だから、後悔するような選択はしたくない。
「ふっふっふ、お兄さんがスポーツ万能だったのを忘れているのですか?」
「琴音ちゃん。それをフラグというのよ」
これでも小さな頃にお兄さんを相手にしていい線まで行ったことがある。それを踏まえれば香織さん相手に苦戦したとしても負ける可能性は殆どないはず。ジュースは貰いますよ。
結果。負けました。
「勝利のチョコバー、美味し!」
「セクハラ発言は卑怯ですよ!」
「はっはっは、負け犬の遠吠えなんて聞こえないわ!」
最初は確かに私が勝っていた。だけど、そこから怒涛の追い上げを見せてきた香織さんの秘策が私に対するセクハラ発言の連呼だったのは予想外過ぎる。一体どこでそんな姑息な手段を学んだのか。うん、お兄さんの所為だ。
「ぐぬぬっ、だったら次はあれで勝負です!」
「ホッケーゲームね。受けて立つわ!」
私が私としてこんな風に友達と遊んだのはいつぶりだろうか。唯一の友人で会った彼女は遠い国へと行ってしまい、音信不通。香織さんが私をどのように思っているか分からないけど、私は友達だと思っている。
「先程のような卑怯な手はもう通じませんよ」
「それはどうかなー?」
あの表情は何かを企んでいるもの。セクハラ発言以外に何を仕掛けてくるのか。お互いに離れているから肉体的な妨害はしてこれない。だったら、やっぱり精神的な揺さぶりに限定される。
「浴衣だったら、今の体勢だと胸の谷間が見えていたのに残念ね」
「ふぁーっ!?」
「対策を立てようが何をしようが、琴音ちゃんがセクハラに弱いのは知っているのよ!」
「何でですか!」
「琴音がそうだからよ!」
盛大に空振りした私の手をすり抜けるようにカコーンと円盤が私のゴールに叩き込まれる。くっ、まさか香織さんがこんな卑怯な手を使ってくるなんて。勝ちに貪欲なイメージはなかったのに。やっぱりお兄さんの影響かな。
今の現状も忘れ、そして明日のことも忘れて、私と香織さんの勝負は続いていく。その結果がどうなるかなんて私にも分からない。だけど、この思い出だけで私はどこまでも頑張れる。
最近は平和だなぁーと思っていたら小さなネタはポロポロと。
おのれ自販機。販売拒否は止めてほしいです。