132.霜月家での新年②
聞いているだけならば最高の環境ではないのかと思い始めてしまった。観客はシェリーが所属している事務所の人達だからアーティストでもある。彼女がステージから下りれば、我先にと歌い始めるのだから収拾がつかないけど。
「やっぱりプロは凄いな」
「歌うのが仕事だけど、今はただ楽しんでいるだけね。新年の最初は仕事抜きで娯楽に興じたいじゃない」
「綾先輩は毎日娯楽に染まっていると思うぞ」
「歌に関してはマジよ。でも今日は色んな人と歌いたいと思っているわ」
「さっきまでは意地になっていたのに?」
「あれは琴音に張り合っていただけ。というか琴音とまだ歌っていないわね」
シェリーも喉に関しては化物だと思ったが、綾先輩も同じだと思う。あれだけ歌いまくっていたのに全然声が嗄れていない。こっちは暫く歌いたくないというのに、なぜそうまでして誘ってくるのか。
「私はプロじゃないぞ」
「今日はプロ、アマ関係ないわよ。歌って楽しめればそれでいいの。琴音だって楽しそうだったじゃない」
それは否定しないけどな。場のノリに合わせてテンションを上げていただけ。今は平常にまでテンションを戻しているから、率先して歌おうとは思っていない。最近は歌う機会が増えて、自分の将来が不安になってくる。
「このままだと歌手への道が整備されていきそうな気がする」
「手遅れだと思うけどね。ママが本気で気に入ったのなら同じ事務所に誘い込むと思うわ」
「いや、事務所はもう決められた。契約自体も如月家の家族会議で決議されたら実行されるな」
「何ですと?」
驚きで固まっている綾先輩も珍しいな。家族会議に参加するのは俺と母、双子に父。そして祖父母なのだが。賛成多数で俺の歌手デビューが決められる気がする。母と双子に関しては聞かずとも分かる。祖父母も琴音の意思を尊重すると言いそうだ。唯一の反対派は父と俺なのだが、あれと意見が一緒になるのは嫌だから結果的に俺も賛成派に加わってしまう。
「だけど事務所と契約しても活動はしないぞ。あくまでも予防線ということで」
「いや、普通に考えたらデビューさせられるからね。事務所側はどうかは分からないけど、ママならどんな手を使ってでもやる」
「例えば?」
「それは私にも分からないわよ。ただ、そういった状況を強引にでも作るとは思うわね」
唯さんと結託してやりそうではあるな。それに勇実達まで加わったら俺の逃げ道がない。幸いにもシェリーと勇実達には接点がない。間接的に唯さんが取り持つかもしれないが、その間に俺へ情報位は入るだろう。
「私よりも先に事務所へ所属したのは悔しいけど。琴音なら何が何でも所属だけはしないと思ったわ」
「何か問題でも?」
「そりゃそうでしょう。歌手になりたくなかったらその一線だけは守らないと。琴音だったらその位、分かっていたと思ったのだけど」
「騙された」
よく考えたら事務所が必要になる問題自体が発生しない。幾ら俺でもそれほどの出来事が簡単に起こるはずもないし、事務所よりは実家を頼った方が確実性がある。あの状況の所為で冷静でなかった自覚もあった。
「琴音が騙されるなんてね。状況がとんでもなかったとか?」
「隣に母、前面にシェリーと事務所の人。前面の人達の気迫がおかしかったし、母が乗り気だった」
「ママの事務所の人でそこまで気合いの入った人なんていたかな」
「違う事務所の人。私が契約する予定の所なんだけど以前から交友はあったな」
確かに唯さんの気迫は凄まじかった。そこまでして勇実達の魔の手から逃げたいと思っていたのかよ。抑え役の一とはそれなりの仲になっていたと思っていたのだが、どうやらそれは周りの勘違いらしい。情報源が新八なのだから疑ってこそ正しい。
「なるほど。これで私と琴音は立派なライバルというわけね」
「何でそうなるんだよ」
「違う事務所ならライバルになるのは必然。今でこそリードされているけど、絶対に追い付いてみせるからね!」
何で何処かの漫画みたいな状況にならないといけないんだよ。大体リードしていると言っても事務所に所属するかもしれない程度の差だぞ。その程度、あっという間に追い付けてしまう。それに対象が俺の時点で間違っている。
「私以外にもライバル対象なら沢山いるだろ」
「接点が多いのは琴音じゃない。設定も同じようなものだし」
「設定言うな」
俺と綾先輩の共通点か。年齢は一つ差。歌うことが大好きなの先輩と、気乗りがしていない俺。親が大物歌手と、最近娘へ積極的になった母。これだけ並べてみても共通点なんて一つくらいしか思いつかないぞ。
「十二本家という共通点以外に思いつかないぞ」
「他にもあるじゃない。性別とか」
「何人いるんだよ」
共通点ある人が多すぎだろ。全員をライバルだと思うのは良いが、その前に同じ舞台へ立たないといけない。綾先輩の場合はシェリーの許可を得るのが難しいだろう。絶対に学園卒業するまでは許可しないはず。
「前にも聞いたけど、学園卒業するまでは許可されないんだろ」
「学生歌手なんて今時珍しくもないのに。ほら、あの子なんてまだ中学なのよ」
目立っているよな。明らかに場違いでおどおどとしている様子が。周囲に友達らしき姿も見えないから、仕事だと思って一人なのかもしれない。こんなバカ騒ぎを仕事だと勘違いするのもおかしいから内容までは知らされていなかったのかも。
「あれは?」
「中学生歌手で有名なカナちゃん。もちろんアーティスト名ね。歌唱力はあるし、ステージ上では堂々としているんだけど。やっぱりプライベートだとね」
「オンオフがハッキリしているタイプか。この場で楽しめないといるだけで苦痛だろうな」
「その割には琴音は平然としているわね」
「慣れているからな。こんな馬鹿騒ぎには」
有名な人達が揃っているけど、こんなイベントは魔窟ではよくあること。大規模なものでは町内巻き込んでのやらかしだってあった。それに比べたらこんな規模はまだ普通の方だ。
「綾先輩」
「OK。ちょっと呼んでくるわ」
こういう意思は伝わるんだよな。このイベントは言ってしまえば無礼講。年齢も立場も関係なしにただ騒いで楽しめればいいだけ。そんな状況で楽しめない人物がいるのであれば巻き込むのが魔窟の流儀。だって損だろ。楽しめないのは。
「連れてきたわよー」
「それは連行してきたの間違いだろ」
強引に腕を掴んで引っ張ってきたのはいい。凄い戸惑っている様子なのは、どうして自分がここへ連れて来られたのか分からないだろう。別に緊張する必要はないと伝えたいだけなのに。俺達なんて最初から緊張していないのにな。
「初めまして。アーティスト名、アンノーン。騙されてやってきた一般人だ」
「口調変えないのね。それにアーティスト名がある時点で一般人じゃないわよ。私の事は知っているわよね。未来の歌手、綾よ」
「えっと、初めまして。高、いえ。カナです。あの、お二人の関係は?」
「同じ学園の先輩後輩の関係だな。それなりに親しい間柄だけど、卒業後はどうする?」
この関係が変わるとは思えない。馬鹿やって、騒いで、俺が巻き込まれる。綾先輩が卒業したら会う機会は減るだろうけど、それだけだ。俺も喫茶店にいるのだから機会なんて幾らでも作ることは出来る。
「もちろん、ライバル!」
「はいはい、さっさとシェリーを説得しろ」
「アンも協力してよ。私一人だけだと戦力不足だから。凜はあてにならないし」
学園を卒業したら地獄の様な特訓が待っていると思うのは俺だけかな。凜もそう思っているから何も口を出さないと思うけど。一人暮らしに反対していたのはあくまでも自活力の心配だったし。妹の方が現実を見ているのはどうなのか。
「アンノーンさんもまだ学生なのですか?」
「デビューすらしていない新人未満だけどな。周りから強引に推し進められているけど、私としては乗り気じゃない」
「あの、話が見えないのですが」
「周りが勝手に騒いでいるだけで私はデビューする気はないという話。でも未来のレールはしっかりと敷かれているんだよな。どうやって脱線してやろうか」
「無理だと思うけどね。脱線しても絶対に元へ戻されるから」
主にシェリーと未来のマネージャーの所為でな。問題となる人物は特定できているのに、攻略法が全く見いだせない。権力を使っても同格が相手では意味がないし、親友達まで参戦して来たら防ぎようもない。下手したら更に厄介な相手が増えそうだ。
「カナはどうして歌手になったんだ?」
「歌った動画が事務所の人の目に留まって、そのままデビューしました。まだまだ未熟者なのですが、精一杯頑張ろうと思って。歌うのは大好きなのです」
綾先輩と同じような理由か。最近だとネットで動画配信だって出来るからな。俺がいた時にはなかった。あの当時にそんな技術があったら俺達の恥がどれだけ拡散していただろうか。考えるだけで恐ろしい。
「それでどうして歌わない。別にステージへ上がる条件とかもないだろ」
「これだけの方々が集まっていますと私程度が歌うのはおこがましいかと」
「いらない遠慮だな。綾先輩、どうする?」
「そりゃ先輩として後輩を成長させないといけないわね。主に精神面を図太くさ」
目上の先輩を立たせるのは社会人として必要な事。だけどこの場で言えばそんなものいらない。カナの年齢ならば微笑ましく見守られて終わるだろうし、俺と綾先輩なんて堂々とステージで歌っているんだぞ。本当の意味で無礼講なのだから。
「シェリー! ベース貸して!」
「遂にアンちゃんがやる気を出したわね。でもベースなんて弾けるの?」
「歌よりもそちらの方が先でしたから。それと他の方々も協力してください! カナを歌わせます!」
俺の声へ賛同するように席から立ち上がる人達が現れた。中には酔っ払いの人物もいたのだが、それは周りの人物たちに止められていた。ノリがいいのは大いに結構。状況をきちんと理解しているな。
「はい、場は整った。逃げ道はないよ」
「流石はアン。あくどい事をするわね。ただ強引にステージへ上げれば良かっただけなのに」
「精神を鍛えるなら無駄な緊張感を味わうのも必要だろ。ほら、生まれたての小鹿のように震えてる」
「ついでに顔色真っ青だけどね」
卒倒しないだけマシだろ。口をパクパクさせながら何か言いたそうだけど、意図は伝わらないな。あえて何も考えないようにしているけど。綾先輩ですら口笛吹ながらカナの手を引っ張っている。お互いにワザとらしいな。
「何を歌う?」
「シェリーの曲をメドレーで」
俺の発言に驚愕の表情を向けるカナだけど、理由は分かる。本人を目の前にして、その持ち歌を歌うのがどれほど緊張感があることか。俺だったら断りたいな。でも本人は一切気にしないと思う。むしろ参加したそうにこちらを見るだろう。
「アン。もうちょっと手加減してあげたら」
「極限まで行ってみよう」
「あっ、駄目だ。アンのテンションが振り切れている」
宴会用のテンションに切り替えているからな。さて、全く関係のない事務所の後輩を鍛えるための荒療治を開始しようじゃないか。
床を踏み抜く前までは日常ネタがなくて平穏だと思っていました。
そうしたらこの様です。
これが他人事なら笑えるのですけどね。
被害者の本人はため息を吐く毎日です。