106.過去との雑談
尚も盛り上がりが続いている会場からこっそりと抜け出して大浴場へと向かう。逃亡とライブで随分と汗をかいたから何としてでも入浴したいのだ。あのままだとクラスメイト達に囲まれて身動きが取れない状況になりそうだったのもある。
「それが何でお前達まで付いてくるんだよ」
「琴ちゃんの考えなんてお見通しよ」
ばれないように逃げ出してきたはずなのに綾香や同級生達に見つかってしまったのはどうしてだろう。ライブの主役まで抜け出しているのだから会場の方は落胆しているかもしれない。俺の知ったことではないが。
「琴ちゃんと一緒にお風呂に入れる機会なんて滅多にないじゃない」
「綾香はこの間、一緒に入っただろ」
「私はまだだから一緒に入りたいよ! ごほっ」
無茶して声を張り上げるなよ。ある程度回復しただろうが、まだ本調子ではないはず。それだけ最後の歌唱に全力を尽くしたのかもしれないが。その隣にいる白瀬は平然としているのは何故だろう。確かにあまり歌っていなかった気はする。メインは勇実だったからな。
「私が誰かと一緒に入浴するの苦手なの知っているよな?」
女性だろうと男性だろうと誰かの裸を見るのは苦手なのだ。それなのに過去の同級生の女性陣と一緒に入浴とか何の拷問だよ。俺にとっての安らぎを邪魔されてほしくはないのに。こいつ等にとっては俺の反応が面白いのかもしれないが。
「ハッキリ言って邪魔」
「琴ちゃんの苦情なんて私達にとっては前菜よ」
メインは俺をからかって遊ぶことだろうな。その前の苦情や反応なんて面白くなるための材料でしかないと。本人にとってははた迷惑以外の何でもない。しかも俺が楽しみにしている入浴を邪魔されるのは本気で嫌だ。
「私はゆっくりとしたいんだよ」
「大浴場でたった一人は寂しいと思うわよ」
それがいいんじゃないか。誰もいない広い浴場でゆっくりと心身の疲労を癒す。そして窓から見える夜の景色を楽しむのが何よりも優先される。周りで騒がれるのならいい。俺一人だけの空間ではないのだから。だけど俺を構うのだけは止めて欲しい。
「琴ちゃんの意見なんて誰も聞かないけどね」
「だよな」
綾香の言葉に誰もが納得してしまう。こいつ等にとって俺と入浴するのがメインであるのだから。俺が置物のように喋らず、何の反応も返してこないのは彼女たちにとって楽しくない。俺の思いと彼女たちの思いは見事なまでに反転している。
「さて、琴ちゃん。到着したけど、覚悟はいいかしら?」
「残念ながらすでに諦めている」
色々と文句を言い合いながら到着した脱衣所なのだが、俺の覚悟はないに等しい。こればかりは改善する兆しが全く見えないからだ。楽しそうにしている綾香が本当に憎たらしい。他の面子は蘭を除いて何のことか分かっていない。
「私の裸は幾ら見ても構わないのに。琴ちゃん限定だけど。ほら」
「おもむろに脱ぐな!」
脱衣所なのだから服を脱ぐのは当たり前の行為だ。だけど俺にとっては何の前触れもなくやってほしくはない。こっちにも心の準備位はさせてほしいのに。綾香が脱ぎだしたから他の面子もどんどん裸になっていく。大変目のやり場に困る。
「琴ちゃんはどうして脱がないの?」
「恥ずかしがっているのよ。他人の裸を見るのも、自分の裸を見られるのも恥ずかしいなんて。何て弄りがいがあるのかしら」
勇実に説明するのはまだいい。だけど最後の台詞は俺にとって悪意溢れるものだ。だけど綾香の話を聞いたある二人だけは露骨に笑顔を浮かべて裸のまま俺に近づいてくる。直視できず、顔を背けているが足音で分かるのだ。
「私の裸なんて見慣れているのに」
「子供の頃の話を持ち出してくるな。というかせめてタオルを巻け!」
「琴音は純情路線と。脳内にメモメモ」
「瑠々。私で物語を作成するなよ。絶対だぞ!」
俺をモデルに恋愛小説なんて書かれたら恥ずかしすぎて死ねる。男性と付き合うものでも、女性との絡みであろうともどちらでも俺は拒否反応を起こすだろう。免疫が全くない状態でそれをやられると俺が困る。
「いつまでも脱衣所に居ても仕方ないだろ。愉悦連中は即刻出ていけ。じゃないと私が投げ飛ばすぞ」
「「「分かりました!」」」
「私は何もしていないのに」
確かに白瀬は露骨に俺へ対して攻勢を掛けてはこなかったな。だけど眺めているだけで笑顔を浮かべている時点で楽しんでいたことが丸分かりだ。だから愉悦の方へと入れられるんだよ。傍観者の方だから基本的には大人しいのが救いだ。
「ほら、琴音も早くする。見られるのが嫌なら私達も先に入っているから」
「その方向で頼む。いつも悪いな、奈子」
「これが私の役割みたいなものだから」
苦労人の仲間がいるからこそ、愉悦連中の制御が可能なのだ。俺が一人だけだったらこの数の愉悦の制御は出来ない。恐らく抑えるの諦めて一緒に暴走しているだろう。多分、ホテルから抜け出しているのではないかな。
「和風も良かったけど、こういう夜景も悪くはないな」
服を脱ぎ、バスタオルを巻いて浴場に入ったのだが高層階から見る夜景もやっぱり絶景だな。本来なら夜景を楽しみつつ、ゆっくりと入浴出来ればいいのだが今回は諦めよう。絶対に気が休まらないはずだから。
「琴ちゃん、背中流すよ」
「いらん。勇実達が一緒だと何をされるか分からない」
「悪い子は冷水の刑だから覚悟しておくように」
以前の教訓から蘭が忠告を飛ばす。それを思い出したのか綾香が身震いしているが、その程度で止まるような連中じゃないのは俺達苦労人たちは理解している。取り合えず、さっさと身体を洗うか。
「こうやって見ると琴ちゃんの肌は本当に綺麗だよね。総司はスキンケアとか全然知らないと思っていたのに」
「喉、大分マシになったな。それにスキンケアなんて知るはずないだろ。元は男なんだから」
化粧水の使い方すら知らないのだぞ。専門的な知識すら調べる気ないのだから、身体については何もしていない。それなのに家事をしていても手が荒れる様子も見受けられない。十二本家の身体は一般人とは違うのだろうか。
「女性としては羨ましいを通り越して、嫉妬しちゃうよ」
「白瀬だって似たようなものだろ。病的なまでに白いのはどうかと思うが」
「不健康なのは自覚ある。だけど今更治そうとは思わない」
本人も自覚はあるのに一切改善する気がないのは何故だろう。こいつにこそ将来のパートナーとか必要なのではないだろうか。綾香と蘭、瑠々と奈子みたいに。俺達と出会う前は基本的に一人でいることを望んでいたからな。
「白瀬も随分と変わったよな」
「何のこと?」
本人としては何も変わっていないと思っているのだろう。だけど俺達が馬鹿やって騒いでいるのを面白く観察していたのはよく覚えている。インスピレーションが刺激されるという理由だったが、結局は一緒に騒ぐような仲になったんだよな。
「はぁはぁ、琴ちゃんの柔肌に触りたい」
「この危険人物を今すぐ何とかしてくれ!」
昔を思い出している最中に明らかに過去よりも危険度が上がったヤバい奴が俺の事を狙っている。蘭が何とか食い止めているのだが、それがいつまでも続かないのは知っている。奈子に頭から冷水を掛けられて異様な悲鳴を上げている内に浴槽に避難しよう。
「あぁー、疲れが染み出していく」
「相変わらずお湯に浸かると無防備になるよね。今回は私も同じ気持ちだけど」
何だかんだと俺の隣にいるのは勇実。他の連中がそれに対して何かを言ってくることはない。これも昔から何も変わらない一部である。だけど今はその姿を直視することが出来ない。浴槽の中では流石に全員が裸だからだ。
「さて、嫌な予感はするが一応確認しておく。勇実、この後の予定は?」
「打ち上げ!」
「私は不参加でいいよな?」
「あはは、何を馬鹿なことを言っているのかな。琴ちゃん」
やっぱり俺に拒否権はないのか。俺と一緒に入浴しているのは他の目的として確保があるのだろう。このまま俺の事を拉致して打ち上げに参加させるつもりなのが丸分かりだ。この面子を相手に俺が逃げ切れる可能性はない。
「やる前から碌でもないことになるのが分かってしまうのはどうなんだよ」
「一蓮托生よ、琴ちゃん」
「そうだぞ。旅は道連れ世は情けというじゃないか」
「道連れが欲しいだけだろ、お前達は」
抑え役である蘭と奈子の気持ちは十分分かる。だけど逃げられるのなら全力で逃亡したい俺の気持ちだって分かってくれ。いや、他の二人だって逃げたいと思っているのは知っている。
「男子の抑え役が一だけというのは心許ないな。伊達も呼ぶか」
「そこは大丈夫よ。生贄の準備に抜かりはないわ」
酷い言いようだが俺達にとってこれは当たり前の会話だ。抑え役の一に、暴走担当の新八。歳三はどちらに転ぶかは直前まで分からない。そこへ悟が合流するとなると悪い方向にしか向かないんだよな。女子は混沌になるのが確定している分、更に悪い状況だ。
「私は就寝時間が決められているのに」
「門限は破るためにあるのよ」
委員長というあだ名がついているのに蘭がそれを言うのかよ。大体、教師をどうやって丸め込むのだ。俺達とは一切の関わり合いがないのに迷惑を掛けるわけにはいかないだろ。過去の教師たちと同じ目に合わせる気かよ。
「私がフォローするわ。是が非でも琴ちゃんは私達の陣営に引きずり込まないといけないもの」
「そこまでする必要があるのかよ。私がいなくても何とかなるだろ」
「お酒が入るのよ。過去の同窓会を思い出してみなさい」
恐怖だな。地元で開催した最初の同窓会なんて翌日から入店拒否されるレベルの酷さだった。そしてその話が周りに伝わり、他の店でも俺達の同窓会を開くことは禁止となっている。何をやったのかは思い出したくもない。
「人数はあの頃よりも少ないというのに危険度がヤバいな」
「伊達は生き残れるかしら」
仕事がクビにならなければいいな。流石にそこまで迷惑を掛けることはないだろうと思うけど。暴走枠達だってそこら辺は弁えてくれると思っている。友人のことは一応とはいえ大事にしているから。
「生き残らせるのが私達の仕事だろ」
「いや、伊達の犠牲で私達の労力が小さくなるのなら構わないんじゃないか?」
「それはそうかもしれない」
言った俺もそうだが、納得してしまう奈子も酷い。でも伊達なら大丈夫だという何の根拠もない信頼が生まれるのが不思議だ。一番心配するのは我が身だろう。湯舟の気持ちよさに身を任せないで少しは頭を働かせるか。
「私が危ないということに気付いた」
「「今更?」」
抑え役二人からの突っ込みで全員が気付いてるのだろう。気付いているというのも変か。過去の同級生たちの標的は俺であり、琴音に関すること。他のメンバーを構う前に俺の事を弄り回すことを優先するはず。
「逃げ、れない!?」
「周りを私達に囲まれている時点で無理だな。私と蘭だって琴音を逃がす気は全くないから」
味方が誰もないこの状況だと俺に退路はないな。諦めるしかないか。湯舟に浸かっている影響か危機感が薄まっている感じがするけど、そんなことどうでもいい。
「私はゆっくりしているから奈子たちは先に出ていいぞ」
「いや、強制的に琴音も一緒に連れ出す。そうしないと逃げるだろ」
ここから出たら冷静になるからな。別にこいつ等に付き合う必要なんて俺にはない。俺が行かない影響で他の人に迷惑が掛かるかもしれないが、そんなこと俺の知ったことではない。
「一時の至福の後に待っているのは地獄か」
「琴音の働きに期待しているよ。苦労人筆頭さん」
損な役回りを率先して引き受けていた訳ではないのに、何故か筆頭呼ばわりされているんだよな。俺か蘭が収拾に動かないと悪化し続けるのも原因だったのだが。
「今だけは癒されよう」
後のことはその時に考えよう。今だけはゆっくりしたいから。
サブタイトルで初めて悩みました。
筆者の過去に食べた賞味期限切れの食品で最長記録は二年半前のマスタードでした。
もちろん開封済みの。
無味無臭のマスタードを食べたのはあれが初めてでしたね。
筆者の反応を見た家族は誰も口を付けることなく、そっと捨てられました。