「とある引きこもりの話」
真っ白な建物内を歩いていく。
俺の少し後ろをスペルビアがちょこちょこと付いて来ている。正直言うなら、付いて来て欲しくはなかった。だけど、この場を準備した彼女をのけ者にするわけにもいかず、妙な気まずさを感じながら俺はその病室に向かっていた。
歩いている途中で気付いたのだが、この空間。どうやらこちら側から向こうに干渉することは出来ない仕組みのようだった。
人には触れられず、話しかけても届かない。
ここは虚像を映し出した世界なのだろう。この場合、どちらが虚像なのかは分からないけど。
「…………」
「行かないのかい?」
「いや、行くよ。それが必要だってんだろ?」
「うんうん。物分りのいい子は好きだよ」
どこまでも上から目線のスペルビア。実際の目線は逆の癖に。
「何かシツレイなことを考えてない?」
「考えてない」
何だよこいつ。サトリ妖怪か何かか?
「……はぁ」
俺はその病室に入る寸前に、大きく深呼吸してからその扉を開け放った。
──『栗栖 鈴』とプレートの張られた病室の扉を。
「あ……」
開け放たれた扉の先、窓際のベッドに横たわる人影を認識した瞬間に、俺は思わず声を漏らしていた。
久しぶり。本当に久しぶりに会えたのだ。
──俺の、妹に。
妹は俺の記憶の中と寸分違わぬ姿でそこにいた。
それを嬉しいと思うことも出来ない。
なぜなら、その妹の姿こそ……俺の罪の始まりだったのだから。
風に揺られる髪を払いながら、読書を続ける鈴。どうやら、今日は調子の良い日だったらしい。
変わらぬ妹の姿を前に立ちすくんでいると、一人の影が俺を通り抜けるようにして鈴の元に向かっていった。
その姿にも見覚えがあった。
十歳くらいの男の子。それは、かつての俺だった。
「あ、お兄ちゃん」
昔の俺に気付いた鈴が、嬉しそうな声を上げる。
「おう。元気そうじゃんか。これなら明日にでも退院できるんじゃないのか?」
「それは無理だよ。明日も検査しなくちゃいけないし」
「まあ、そりゃそうか。けど早く良くなってくれよ? 親父も俺も待ってるからさ」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
笑いあう幼い兄妹。
それから兄は妹の為に漫画の差し入れを手渡す。その漫画にも見覚えがあった。あの頃学校で流行っていたものを俺が買ってやったのだ。コテコテの少女マンガだったから買うときに少し恥ずかしかったのを覚えている。
「…………」
「言葉が出てこないかい? 蓮ちゃん」
「……お前はこれを俺に見せてどうするつもりだよ」
正直、見るに堪えない光景だった。
俺はこの先の『未来』を知っている。だから、居た堪れないのだ。
「まあまあ、そうぷりぷりしないでよ。本当に大切なのはここからなんだからさ」
そう言ってスペルビアは再び指を鳴らす。
再び世界が色を変え始める。そして現れたのは、さっきと全く同じように見える世界。鈴の病室の中で、しかし変わっているものもあった。
ベッドに横たわる鈴が成長していたのだ。
つまりここは、さきほどから何年か進んだ未来ということなのだろう。
ベッドの横で椅子に腰掛ける昔の俺の姿も、少しだけ大人びて見えた。
中学の制服を身に包む俺は、咳を繰り返す妹の背中を何度も何度も撫でてやっていた。
やがて少しだけ落ち着いた鈴が、口を開く。
「……お兄ちゃん」
「何だ?」
「私、いつになったら退院出来るのかなあ」
「そんなのすぐに決まってるだろ? お医者さんも頑張ってくれてるんだし、鈴ももう少しだけ頑張ろうぜ」
「すぐ、って……お兄ちゃんそればっかり言ってる」
重苦しい空気が、病室に満ちていた。
幼い俺には、妹の為に何かをしてやれるだけの力が無かった。
だから、あんな結末を迎えてしまったのだろう。
「う……ゲホッ、ゴホッ」
「鈴!」
突然大きく咳をした鈴に、慌ててナースコールする俺。
すぐにやってきたナースが鈴に薬を飲ませて、容態を確認する。
後になって知った。この薬の副作用がどれだけ重いものなのかを。薬で必死に病状を抑えて、鈴は何とか命を重ねていたのだ。
俺は……次第に痩せていく鈴を見るのが辛くて、何も出来ない自分が嫌で嫌で仕方が無かった。無力というのなら、この時ほどそれを感じたことはなかっただろう。
「蓮ちゃん。目を逸らしちゃダメだよ」
「……分かってる」
ゆっくりと、世界が廻り始める。再び現れた世界は病室ではなかった。
それは病院の前、人だかりの波をかき分けるようにして進む俺の姿が見えた。
この時のことは覚えている。忘れたくても忘れられない罪の記憶。
「鈴! 鈴!」
昔の俺が叫びながら、最愛の妹の姿を探す。
警備員に止められても、それを振り払って突き進む。
やがてその『現場』に到着した俺は……
──妹の死体を、目にしたのだ。
「鈴?」
すでに冷たくなった体に触れる。
そのゴムみたいな感触に絶叫を上げる俺を、俺は冷めた目で見つめていた。
飛び降り自殺。
辛い闘病生活に我慢の限界を向かえた妹は、自ら命を絶ったのだ。
「……鈴」
俺の口から、久しく呼んでいなかった妹の名前が漏れる。
俺がもっとしっかりしていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。俺がもっと鈴のことを考えていてやれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。
気付けば、世界は前の真っ白な世界へと戻っていた。
「さてさて、こうして君の原罪に触れたわけだけどさ、ボクには分からないことがあるんだよね。君の妹さんが死んだのは不幸なことだったけど、実際のところ君に何かしらの責任があった訳じゃないよね? つまり、これのどこが君の罪なのかがボクには検討がつかない」
「…………」
「神と言っても人格は一つ、考え方も一つ。だから多様性がないんだよ。よければ君が何を悔いて、何に罪悪感を感じているのかを教えてもらえると嬉しいな」
「……俺は……逃げたんだよ」
ポツリ、ポツリと俺は誰にも言ったことのない俺の罪を語りだす。
「妹の苦しそうな姿を見るのが辛くてさ。逃げたんだ。最初は毎日行ってたお見舞いも、だんだん頻度が減ってさ。最後は一週間に一回くらいしか行ってなかった」
責任がないというのなら、そうなのかもしれない。
「誰が一番辛いのかなんて、分かっていたのに。誰が一番支えて欲しかったかなんて、分かっていたのに。それなのに……俺は逃げたんだ」
けれど、これは間違いなく俺の罪なのだ。
誰が何と言おうと、これは俺が背負うべきものなのだ。
「俺は……『未来』が怖かったんだ」
日常を何よりも尊んだ。
しかし、それは不確定な未来を嫌っただけの停滞だ。
今よりももっと悪くなる未来なら、そんなものはいらないと、逃げて、逃げて、停滞して、停滞してその結果、俺は妹を失った。
「変わらないものが欲しかったんだ。どんなものにも終わりがあるって分かってはいても、俺は永遠が欲しかった」
大切な人と会えなくなるのは、辛いから。
俺は弱い人間だから、そんな当たり前のことに堪えられないのだ。
「転生してからはさ、今度こそ俺の大切な人を守ってやろうって思ってたんだ。結局それも、上手くいかなかったけどさ」
クリスタが死んだとき、俺はメテオラを使った。
変わらないものなんてないのに。俺は強引にそれを繋ぎ止めたのだ。
いつまでも、いつまでも、一緒に。
そんな卑しい欲で、理を曲げてしまった。
「……ああ、そっか」
唐突に理解した。
到達したと言ってもいい。
これこそが、俺の祈りなのだと。
「永久不変の未来を望むかい」
俺に問いかけるスペルビア。
「けど、それははっきり言って地獄だよ? 永遠に変わらないものなんて、そんなのはただのゴミだ。ボクが言うんだから間違いない。それでも君はそれを望むのかい?」
スペルビアの言葉に、俺は彼女たちの姿を思い浮かべる。
俺に何が出来るのかなんて分からない。だけど、これだけははっきりと言える。
「……ああ、これが俺の──祈りなんだ」
大切な人を守りたい。
大切な人と共に生きたい。
いつまでも、いつまでも。
狂気というのなら、それでもいい。
俺はもう二度と、失いたくなんてないんだから。
「ならもう、言うことはないよ。元の世界に戻るといい」
「……最後に一ついいか?」
「なんだいなんだい。折角綺麗に締めたと思ったのに」
「何でお前はそんなに俺のためを思ってくれるんだ?」
最初から、そうだった。
スペルビアはきっと俺のことを思って行動してくれていたのだと思う。
権能を与えなかったのも、極力俺を戦いから遠ざけるため。情報を与えなかったのも、俺の望む日常を壊さないため。
そして、いざそれが必要となればこうして俺のためにこの場を設けてくれた。
「何でって……不思議なことを言うんだね」
「ん?」
「神は誰かの祈りを聞き届けるために存在しているんだよ。君の望みを無碍になんて出来るわけないじゃないか」
手を腰に当てて、ふくれっつらを作るスペルビア。
ああ、そうか。
「お前、いい奴だな」
「今更気付いたのかい? 人を見る目がないなあ」
「あんたは神様だろ?」
「おっと、そうだった」
おどけてみせるスペルビアは、どこまでも神様らしくない、神様だった。
「ありがとう、スペルビア」
「ようやく名前を呼んでくれたね」
嬉しそうに笑みを浮かべるスペルビア。
「それじゃあまたいつか、頑張ってね。クリス君」
最後にそう言ったスペルビア。
俺はゆっくりと意識が現世に戻っていくのを感じていた。
視界が真っ白な空間から、元居た教会へと移り変わっていく。
ここが、俺の生きている世界なのだと強く実感する。
辛いことが沢山あった。
死の重さを知っていながら、人を殺したこともあった。
過去の因果から、逃げ出したこともあった。
けれど、支えてくれる人がいるから。
俺はまだ、戦える。
俺は、未来を悲観せずにいられる。
──すまない、鈴。
俺がお前を支えてやることが出来ていたら、未来は違っていたのかもしれない。もっと幸せな未来があったのかもしれない。
許してくれなんて言わない。その代わり、絶対に忘れない。俺はお前のことを忘れない。幾度生まれ変わろうとも、世界を超えようとも、俺はお前を忘れない。
だから……力を貸してくれ。
今度こそ、大切な者を守りきる為に。
今更何て分かっている。
だからきっと、これは傲慢な祈りだ。
それでも……もう、何も出来ない自分は嫌だから。
今こそ──
生まれ変わろうと思う。
《星は永久に輝き、刹那に流れ堕ちる。人の生も同じなら。決して忘れはしないだろう──》
口から漏れるのは、究極の祈り。
逃げ続けた俺の、到達点。
至高の黄金には届かないかもしれない、究極の漆黒には劣るかもしれない、混沌の群青には逆らえないかもしれない。
それでも……これが、俺なのだ。
大切な人と、共に居たい。
《──愛しい人よ、どうか隣に居させて欲しい──》
ただ、それだけの祈りなのだ。
《卑欲連理──永久に続く物語》
今、此処に、永遠の理が顕現する。
どこまでも、傲慢で、慈愛に満ちた権能。
それこそが俺の権能。
──永遠の権能なのだ。




