「黒と群青」
「何だ……これは……ッ」
空気がざわめいている。
目には見えないが、確かにそこに『害悪』は存在している。
暗闇の中、ふと自分以外の存在を感じ取るかのようにカナリアはその存在を認知していた。
「カナリア、下がれッ!」
イザークの叫びが聞こえる。
しかし、今更下がったところで無駄だろう。
アダムとの距離は目測で10メートル程度。この距離では……まず間違いなく、助からない。
──アダムの放った群青は、生を認めない。
「ぐ……う……」
ふいに訪れた激痛に、カナリアは膝をつく。痛みの源は体の内面から来ている。エマの体に起きた異変から、アダムの権能にある種の想像は付いていた。
対象に病を伝播させること。それがアダムの権能なのだ。
しかし予想外だったのはその効果範囲。
まさか『アダムと同じ空間にいるというだけで感染してしまう』とは思わなかった。
「カナリア!」
イザークの声が教会に響く。
イザークは権能を展開しているからいくらか耐性があるのだろう。しかしカナリアは全くの丸腰。一般人と変わらない程度の抵抗力しか持ち合わせていなかった。
この状況に脱するにはカナリアも権能を使えばいい。
しかし彼女には、それが出来なかった。
彼女の権能、その発動条件の一つ。
彼女は自分より強いと認めた相手にしか、権能を使えない。
未だ権能を使わないカナリアの状況が、彼女の心情を的確に表していた。
「らァ!」
気合の咆哮と共にイザークが突撃をしかけた。
黒と群青が激突して、互いの祈りが交錯する。
イザークの権能は強奪の権能。
触れてしまえばそれでゲームセット。
最後の拳の名に相応しい絶対性だ。
しかし……
「クソッ!」
アダムの群青が、近寄ることを許さない。
「どうやら貴方の権能は対象に触れて効果を発揮するタイプのようですね。だとしたら私の権能とは相性が最悪ですよ。私に近づこうとすればするほど、あなたを襲う祝いは効果を増す」
アダムの権能は広範囲に呪いを撒き散らすものだ。
だとするならば、その発生源であるアダムを中心とした一帯が最も危険度が高い死域となる。効果範囲という面で見るならば、最低クラスの性能しか持たないイザークの権能では攻撃が届く前にイザークの体がもたない。
そのことをイザークも肌で感じているため、一定以上に近寄ることが出来ずにいた。
「抗うな、求めよ、さらば与えられん」
アダムの群青が、ゆっくりと空間を殺していく。
時間経過と共に体を蝕んでいく呪いに、カナリアは苦痛の声を上げる。
(このままではまずい……)
何も出来ないまま、アダムの攻勢が続いている。
彼の空間に入らないまま、勝利を手にしようと思ったら遠距離から攻撃するしかない。それこそまさに、彼にとっての天敵であろう。
しかしカナリアもイザークも、共に近接を旨とする直接攻撃型の戦士だ。それも望めない。
(せめて、魔術師がいてくれたら)
頭を過ぎるのは一人の少年の姿。
彼の魔術は、今まで見てきた中でも相当にレベルが高い。そのことを身をもって知っているカナリアは、ここにいないその人物を夢想する。
けれど、それは叶わない幻想だ。
彼と自分の道は重なってなどいなかったのだから。
「クソッタレ! 何だこの権能は! 反則にも程があンだろぉが!」
近づくだけでアウト。
同じ空間にいるだけでもアウト。
八方塞のこの状況にイザークが苛立ちの声を上げる。
イザークは戦いを拳と拳、武器と武器を交えて雌雄を決するものだと考えている。そんな彼にしてみればこの現状はまどろっこしくて仕方がないものだった。
(近寄れねェってのが一番の問題だ。このままじゃ手がだせねぇぞ)
状況を打開する方法も模索する。
どんなに不利だろうと、イザークは決して諦めたりなんかしない。
なぜならこの程度の理不尽なんて、彼にしてみれば日常のことだからだ。
「病を『与える』権能……オレにはちっとも理解できねェなぁ」
愚痴のように零れたイザークの言葉に、アダムが応える。
「だとするならば、貴方は幸福な人生を歩んできたのでしょう。真に残酷なことは、手に入らないことではなく手から零れ落ちることなのですから」
呪いを撒き散らしながら、アダムは語る。
「──人は失って初めて、その大切さに気付く」
それは深い悔恨を含んだ言葉だった。
奪われ続けたイザークのように、アダムもまた失い続けた者。自身に掴めなかった光を追い求めるその姿はさしずめ一卵性双生児のように近似している。求め、渇望するその姿はどこまでも重なって見える。
しかし……
「はっ! 失うのなんて当然だろォが! 太陽は昇る。月は輝く。人は死ぬ。始まりがあるのなら終わりがあるンだよ! そんな当たり前のことにうな垂れてンじゃねェ!」
その内面は、どこまでも対極に位置している。
「手に入れて、それを失ったから何だってンだよ! 一度は手に入れた幸せで満足しとけやボケ! 気持ち悪い不幸自慢なんか見るに耐えねェんだよ!」
アダムに、イザークが一歩近づく。
それだけでアダムの放った毒がイザークの体を蝕んでいく。
青い斑点がイザークの体に浮かび、明らかな異常を訴える。
熱も四十度を超えているだろう。視界も霞んで見えてきているだろう。体中に虚脱感と倦怠感がまとわり付いているだろう。針で刺されたような激痛が脳を揺さぶり続けているだろう。
だが、その程度でイザークは止まらない。
やがてその胸倉に手が届くかと言う距離まで詰め寄り、
「テメエ、ムカつくぜ」
まるで鏡を見ているようで、まるでなれなかった自分を見ているようで。
「私も、貴方のことが気に入りません」
まるで鏡を見ているようで、まるで自分の失敗作を見ているようで。
「「テメエ(貴方)はオレ(私)の世界に必要ない」」
互いが互いの存在を全否定する。
お前は見ていて不愉快だ、さっさとオレの視界から消えやがれ。
毒づき、毒を吐く。
振りかぶったイザークの拳に、アダムも群青を仕掛けて対抗する。
「「死ねぇぇぇぇぇぇぇええええええええッ!!」」
黒と群青が、激突した。




