第七話 「命を奪うということ」
どこまでも見渡せる世界。しかし、そこに写るのは幻想的な風景には程遠いものだった。
壁も天井も、赤黒いドロドロとしたものに覆われている。錆びた鉄の匂いが充満する中、俺はただ一人佇んでいる。
「……ッ!」
突然背後に気配を感じて振り返れば、そこには……
「…………」
二メートルを超えるのではないかという黒い人影があった。顔も体格も影に包まれていて良く分からないその影はじっと動かず、何も喋らず、ただその瞳だけが俺を射抜く。
その影を見た瞬間、気付けば俺の両手は壁や天井にある赤黒い泥に塗れていた。べったりと付着した生暖かいソレは……あの男の血だったのだ。
変化はそれだけではない。
床が泥のように変化し、体がどんどん沈み始める。天井から垂れたとんでもない量の血が俺を覆っていく。
ふと目の前の影と視線が合う。
ああ……分かった。分かってしまった。
その視線には見覚えがあった。空ろなその目は俺に、こう告げているのだ。
──よくも殺してくれたな、と。
「うぁぁぁぁああああああああッッ!!」
絶叫を上げ、俺は飛び起きた。
視界に映るのは先ほどまでの不気味な世界ではない。見慣れた天井、見慣れた壁。そこは俺の自室だった。
「はぁ、はぁ……」
気持ち悪い。吐きそうだ。
起き上がった俺はふらふらと危なげな足取りで洗い場へと向かう。気分の悪かった俺は水桶に顔を突っ込んで頭を冷やす。
「ふー」
幾分か気分が落ち着いてから、俺は自分の両手を見た。
夢とは違い、真っ白で綺麗な肌の両腕。
無言で立ち尽くす俺を、月明かりだけが見つめていた。
その日の午後、俺はクリスタと共に村を歩いていた。
寝起きが最悪だったせいか、未だ気分が晴れない。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
ふらふらとおぼつかない足取りの俺に、クリスタが心配げな声をかけてくる。俺は片手を上げて大丈夫だとアピールするが、全く説得力がないだろうな。
一面ほとんどが畑と言っても過言でもないTHE・田舎町な風景を背景に、俺たちは村を歩き回る。俺達の身長では胸元辺りまで伸びてきている麦はそろそろ刈り入れ時なのだろう。よく見れば何人か鎌を片手に作業しているのが見える。
「ん……?」
その時だ。違和感に気付いたのは。
「なあ、クリスタ。皆、俺達のほうを見て頭下げてるけど……なんでだ?」
「ん? ああ、クリストフはあんまり外歩かないものね。えーと、何ていったらいいかなあ……ちょっと大仰な言い方になっちゃうけど崇められているって感じかな」
ほほう。崇めるとはまた大層な。
でもまあ、分からなくはないかな。
「そうだよね。クリスタは可愛いし、崇められてもおかしくない。むしろ俺が崇めたいくらい」
「か、可愛いっ!?」
「歌も上手だし……うん、納得」
うんうんと首を振る俺。
そのうちクリスタ教とか言って、新しい宗教を開いてみようかな。あ、でも宗教名は基本的に開祖の名前になるから俺が開くとクリストフ教になるのか?
だんだんと思考が暴走し始める俺に、真っ赤な顔で告げたのはクリスタだ。
「クリストフは勘違いしてるよ。皆は私じゃなくて、あなたを崇めてるの」
「お、俺を!?」
予想外の言葉に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
その俺の様子を見てクリスタはくすくすと笑って言葉を続ける。
「この前、山賊の首領を倒したじゃない」
クリスタのその言葉に俺は……
さっ、と血の気が引く思いをした。心が急速に冷えていく。クリスタの台詞に『あの時』のことがはっきりと思い起こされたのだ。
「だから、クリストフは皆から尊敬されて……って、聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてるよ」
なんとか言葉は返せたものの、俺の内心は酷く動揺していた。
それからクリスタは俺が今、どれほど村で人気が出ているのかを誇らしげに語った。そして、その説明を受けるたび、俺の心はちくちくとトゲに刺されたような痛みを訴えるのだ。
クリスタとそんな話をしながら歩いていると……
「あ、あの! クリストフ様ですよね!」
そんな言葉に呼び止められ、振り向けばそこには三人の人影が立っていた。真ん中に立っていた青年が俺に言葉を続ける。
「お話聞きました! 俺、いや自分すごい感動しましたっす!」
それに続く形で声を上げたのは青年の両脇に立っていた少年と少女だ。
「ぼ、ぼくも感動しました!」
「わ、私もっ!」
貴族である俺と話すことに緊張しているのか、噛みながら話す彼らはそれぞれヴィータ、レオナルド、エミリアと名乗った。全員同じ家族らしく、家では俺の話題で持ちきりとのことだった。
「俺たちに、少しでいいんでその時のこと話してくれませんでしょうか」
輝く瞳で尋ねるヴィータの言うその時とは……やっぱりあの時のことなんだろうな。
「ごめん、俺も無我夢中でさ。あんまり覚えてないんだよ」
「なるほど。それくらい、必死だったってことっすかぁ」
俺の適当な返事を、ヴィータ達は勝手に都合の良いように脳内で変換している。それからも魔術は使えるのかだの、どんな技で倒したのかだのと聞いてくる彼らに辟易した俺は、
「すまない、ちょっと今は忙しくてな。またの機会にしてくれないだろうか」
と、はっきりとした拒絶の言葉を彼らに放った。
彼らは俺と、俺の隣にいるクリスタを見て何を思ったのか、「邪魔してすいませんでした!」と口を揃えて言った後、背を向けて去っていった。
去り際に、「本当に格好良かったね」「すごいクールだった!」などと、彼らの会話が漏れ聞こえる。
俺に対する彼らの態度は酷く好意的なものだった。道を歩いている途中見かけた村人達もおおむね似たような態度。
「…………」
なんだか、複雑な気分だ。
もてはやされるのに慣れていないってこともあるけど、それ以上に俺は俺の行った行為に自信が持てていなかった。
いや、自信というよりは責任か。どっちにしろ覚悟が足りなかったのだ。
あの時は無我夢中だったから気付かなかった。アドルフとサラとクリスタ、大切な人たちを守れた俺は達成感に満ちていた。けど、後になって気付いたのだ。俺がやったことはただの……
「クリストフ!」
「うわっ!?」
「もう、ぼーっとしちゃってどうしたのよ」
「……ごめん」
クリスタはため息を一つ吐いてから、俺の正面に回りこんで俺の目をそのエメラルドグリーンの瞳で真っ直ぐに覗いて来た。
不意の接近に、キスされたときのことを思い出して心臓が跳ねる。
しかし俺の煩悩は期待はずれだったようで、クリスタは俺の手を取って真面目な表情で告げる。
「クリストフは『正しいこと』をしたのよ。そのおかげで私はこうして無事にあなたに触れ合えてる。だから、そんな顔しないで。もっと胸を張ってよ。あなたは間違ってなんかないんだから」
そう言ってニコッと笑うクリスタ。その笑顔に、俺は少しだけ心が軽くなったような気がした。
そうか、俺は『正しいこと』が出来たのか……
ソレに対する罪悪感はある。罪悪感、というよりは根源的な恐怖に近いかもしれない。
──命を奪うということ。
俺はそれがどういうことか、身をもって知ったのだ。
それは、とても怖い。夜に夢に見るほどに。腕に血の幻覚がちらつくほどに。
でも、間違いではなかったのだろう。クリスタがそう言ってくれたのだから。皆が認めてくれたのだから。
「ありがとう、クリスタ」
「どういたしまして」
拭い難い罪の記憶。
俺は一生この出来事を忘れないだろう……
「それじゃあ、行こうか」
俺の守った、大切な人の記憶と共に。
そうして俺とクリスタは共に手を繋ぎ、歩き出したのだ。