「取引」
何で、何で、何でどうしてこうなった!?
「アネモネっ、アネモネッ!!」
疑問はいくらでもあったが、全て後回しだ。
俺は崩れ落ちたアネモネに駆け寄り、その身を抱き起こす。アネモネの服も、俺の袖も真っ赤な血がべったりと付着している。
「癒せっ──メテオラ!」
咄嗟に叫んだのは治癒のメテオラ。
俺の手から漏れた白い光がアネモネの胸部に集まり、その『大穴』を癒す。
(頼む、頼む、頼む、頼むッ!)
俺は必死で祈り、結果を見守る。
そして、結果から言うと、アネモネの傷は無事に塞がった。
良かった。
なんて思う暇もなく、アネモネの体に次なる異常が舞い降りる。
「う、ぶ……」
突然アネモネの体が痙攣し始め、その顔色が真っ青に変わる。
首筋に妙な斑点が浮かび上がり、額には玉のような汗が浮かぶ。
明らかに尋常な様子ではない。
「一体、何が……」
「彼女の体には、現在、百六十九の疫病が巣食っています」
俺の独り言とも言える問いに、アダムが答える。
「エボラ、クリミア・コンゴ、ラッサ、ポリオ、ジフテリア、コレラ、チフス、ポレリア、レジオネラ、レプトスピラ、ペルパンギーナ、マイコプラズマ、有名な所ではインフルエンザなどもそうですね」
何かの呪文か何かのように言葉を綴ったアダムは、最後にこちらの世界ではほとんど認知されていませんが、と付け加える。
こちらの世界では。
こちらの世界では、だって?
それはまるで、ここではない他の世界を知っているかのようではないか。
「それにしてもまさか彼女が『裏切る』とは思っていませんでした。一応の保険として監視しておいて、正解でしたね」
「何を……言ってる」
アダムの語る言葉の何一つ、理解出来ない。
理解、したくない。
そんなことより、アネモネだ。
まるで湯たんぽか何かのように熱を放ちはじめる彼女の表情は苦しげに歪んでいる。俺はすぐさまメテオラを唱え、症状の回復を図るのだが……
「無駄ですよ」
アダムの言葉と、エマに対してメテオラを使っていたときのような手ごたえのなさから、俺は徒労に終わったことを理解させられた。
ゴボリ、と一際大きな咳と共に、横を向いたアネモネの口から一塊になった血が吐き出される。
「アネモネ!」
何が起きていのか、何をどうしたらいいのか分からない。
「……く、クリス……」
今にも死にそうな声で、アネモネが俺を呼ぶ。
「ここにいるぞ! 大丈夫、大丈夫だから!」
俺はアネモネの手を取り、エマにしたのと同じようにアネモネを励ましにかかる。
つっ、とアネモネの頬を涙のように血の雫が流れ落ちる。
瞳から出血しているのだ。閉じられたアネモネの瞼の裏で、どのような異常をきたしているのか想像することすら恐ろしい。
体中から血を滲ませるアネモネは、ゆっくりと、消え入りそうな声で、
「…………にげ、て」
と、言った。
聞き間違いではない。
アネモネは確かに、逃げてと、そう言ったのだ。
「……アネモネ?」
俺は痙攣が収まったアネモネに、声をかける。
もしかしたら回復したのかもしれない、なんて一縷の望みと共に。そう思えば、ほら、握る手だって体温が落ちてきている。さっきまでの馬鹿げた体温ではない。正常に近づいているのだ。
「…………なんで」
思わず、俺の口から声が漏れる。
なんで、なんで、なんで。
なんでいつも、こうなんだ。
俺の周りではいつも誰かが苦しんでいる。
何とかしたいのに、何とかしてやりたいのに、俺には……何も出来ない。
「ッ……ァァァァァアアアアアアアアアアア!!」
叫ぶ。
張り裂けんばかりに。
無力な自分を罰せんと、喉を痛めつける。
何で、何で、何で。
誰が悪いのか、俺が悪いのか、世界が悪いのか、運命が悪いのか。
分からない。分かりたくない。
──もう、いい。
俺はアネモネの……すっかり冷たくなってしまったその体から手を離し、ゆっくりと振り返る。
「……………………殺す」
気付いたときにはすでに飛び出していた。
何故か何て知らない。どうしてかなんて知らない。どうやったかも知らない。何が起きたのかも分からない。どういう因果で、理屈で、原因でそうなったのかなんて、とんと見当も付かない。
だけど、『誰が』それをやったかは分かったから。
それだけは、痛切に理解させられたから。
そして、それだけ分かっていれば、充分だったから。
「アアアアアアアアアア!!」
グチャグチャと、ドロドロと、乱雑にかき回された脳内で、俺は怨敵の抹殺だけを祈った。どこまでもどこまでも。純粋な殺意で、至純な殺意で、単純な殺意で、俺は感情の赴くまま、アダムに飛び掛ったのだ。
「いい感じに『仕上がって』おりますね。それでこそ、私も存在価値が認められると言うものっ!」
そう言ったアダムの拳と俺の拳がぶつかり合う。
魔術を使う、刀を使う、そんな選択肢は俺の中に存在しなかった。
ただただ、目の前の男を殴り殺したかった。
嬲り殺して、やりたかった。
「死ねえええええええええェェェ!!」
俺は嘗てない純度で祈った、『死』のメテオラをアダムに放つ。
のたうち回って、死ね。
苦しみ抜いて、死ね。
まず以って、死ね。
真っ先に、死ね。
死ね、死ね、死ね。
ただそれだけの祈りを内包した白い閃光が、アダムに迫る。
そして、
「あはっ」
朗らかな笑みを浮かべるアダムに、弾かれる。
「駄目ですよ、クリスさん。ただのメテオラでは権能を持つものに適いませんよ? 私を殺したいのであれば、あなたも同じように神に祈りなさい」
両手を広げたアダムは、まるで経典を歌い上げるかのように言の葉を紡ぐ。
「望みなさい! 求めなさい! 願いなさい! 頼りなさい! 欲しなさい! 縋りなさい! 乞いなさい! せがみなさい! ねだりなさい! せびりなさい! そして、委ねなさい! 貴方の凶器に! 果てしない狂気を!」
権能については知っていた。
それが無ければ、転生者同士の戦いでは勝負にならないとも。
だとするならば……
──権能が無ければ、コイツが殺せない。
「ぐっ!」
ずきり、と余りの殺意に頭痛が走る。
祈れば、きっと俺の女神は応えてくれる。そんな不思議な確信があった。俺が望むのならば、きっと女神は『殺戮』のメテオラを俺に授けてくれる。
そんな、確信。
「ぐ、ああああああああああああああ!」
殺したい。だが、傷つけるのは怖い。
俺の欲求と、本質がぶつかり合う。
ここで選択を間違えたら、きっと何もかもが終わってしまう。
そんな焦燥感に支えられ、俺は無我の境地にも何とか理性を保つことが出来ていた。
選択は、二つ。殺すか、生かすか。
死と生。
相反する究極とも呼べる二つの性質の狭間で、俺は選択を迫られる。
そして、俺が選んだのは……
「っハァッ!」
後者だった。
大きく息を吐き、呼吸を整える。
頭の中身を取り替えるかのように、肺の中身を取り替える。
最後の最後、俺の頭を過ぎったのは床に臥せったエマの姿だった。
『こいつを殺せば、情報が手に入らなくなる』
そんな手前勝手な理由で、俺は矛を収めたのだ。
「あれ? もう終わりですか?」
残念そうに、気が抜けた声を上げるアダム。
顔を見れば殺したくなる。だから俺は僅かに視線を逸らして相対する。
そして、ずらした視線の先に、アネモネが突っ伏していた。
(……すまない)
お前は俺のことを優しい奴だと言ってくれたのに、俺はお前の為に怒ってやることすら出来ない。だから、すまない。
「……思ったよりも、芯が強い」
元より敵意の感じられなかったアダムが、顎に手を当てこちらを値踏みするかのような視線を送ってくる。
「表面は感情的に見えますが、その実内側では常に事態を客観的に分析している。なるほどなるほど。面白い視点の持ち主なんですね、貴方は」
「あんたが……」
喉元までせり上がってきた殺意を飲み込み、俺は続く言葉を吐く。
「エマを呪った張本人か」
「さて、エマというのがどこの誰だか分かりませんが、もしも貴方の身近で病に臥せっている人物がいるとするならば、ええ、恐らく私の権能ですよ」
にこにこと、変わらぬ笑みを顔に貼り付けたアダムが世間話でもするかのような口調で答える。
「そうですね、『祝福』の権能とでも言うべきでしょうか? 私の権能は、周囲の人間に病を、呪いを撒き散らすこと」
「祝福、だと?」
思わず噛んだ奥歯がギリッ、と鳴る。
ふざけるな。あんなものが祝福と呼べるものの訳が無い。
「世の中には死んだほうがマシ、なんて言葉もあるくらいですからね。人によってはある種の救済になると思いますよ」
「だとしても、それは健常者を蝕んでいい理由にはならねえだろうが!」
そんな権能を本気で望んで得たのだとしたら、完璧に狂っている。
頭の螺子が五、六本飛んでいるとしか思えない。
「健常者、ねえ……私からしてみれば、そのような人達こそ唾棄すべきものなのですよ。考えても見てください。明日自分が死ぬかもしれないなんて考えながら生きている人がどれほどいるというのですか? 安穏とした世界でのうのうと無駄に生を重ねる人達の裏側では、明日死ぬかもしれない闘病生活を続ける患者が死に続けているのですよ? いくらなんでも不公平に過ぎると思いませんか? 私は思います。ええ、そんな不条理はあってはならないのです」
アダムは朗々と、自分の弁を展開する。
しかし、いくら聞いても理解できる気がこれっぽっちも沸いてこない。
確かにそれは不条理なのかもしれない。
俺だってエマが臥せったときは思った。何て理不尽なのかと。
だが……
「お前の言い分を肯定するつもりはない。エマの病気を今すぐ治せ。それが俺の要求だ」
「要求? またおかしなことを言うんですね。要求するということは、それなりの対価を覚悟しなければなりませんよ?」
「…………」
悔しいが、こいつ以外にエマの病気を治す方法はない。
ならば、四の五の言っている場合でない。頭を下げてでも、こいつの手を貸して貰わなければ希望はない。
「……そっちの要求は、何だ」
俺の問いに、アダムはにっこりと笑みを浮かべる。
「いいですね。その目的の為なら手段を選ばない精神力。羨ましいです」
「御託はいい。さっさと言え」
「そちらにも時間はないのでしたね。ふむ、それでは……ああ、そうだ。確か貴方達、任務でこの都市を訪れたのでしたね」
「……それが何だよ」
にっこりと、笑みを深めたアダムは……
「その任務に従事している軍人を、皆殺しにしてください」
どこまでも無慈悲に、その要求を突きつけたのだ。




