第四十五話 「七つの原罪、七つの祈り」
夜の帳が都市を支配する。
とある酒場の一室。掘り炬燵式の小部屋にて、俺は奇妙な展開になったものだと密かにため息をついていた。
「おい、好きなもの注文しろよ。ここはオレが持ってやっから」
「……じゃあ、お茶で」
「酒じゃなくていいのかよ」
「これでも未成年なんでな」
未成年なんて、この世界では通用しない概念なのだが、この時の俺は昔からのポリシーを持って飲酒を断った。飲まなきゃやってられない状況ではあったが、それでもお酒は苦手なのだ。
それに対して同席者はつまらなそうに鼻を鳴らしてから店員を呼び、アルコールを注文した。自分だって、二十歳にもなっていないだろうに。まあ、こいつはそんなこと気にするタイプでもないか。
「ツマミも適当に頼んどいた。別に構わねェだろう」
「構わない。むしろ、お構いなくって感じで今すぐ帰りたい」
「それじゃあ何のため呼んだか分からねェだろうが」
ぴしゃりと告げる彼は俺を帰すつもりが全くないようだ。
やれやれ、どうしてこうなった。
最近口癖になりつつ愚痴を内心零しながら、俺は眼前の同席者へと向き合う。
「それで、何のようだよ……イザーク」
酒場を訪れてすでに一時間以上が経過していた。
俺の催促にも、気が早ェだの、酒が来るのくらい待ちやがれだのと散々焦らしたイザークは、酔いも回ってきたという段になってようやく本題に入ろうとしていた。
「だぁから、女は見た目よりも中身が大事なんだっつーの。よく言うだろォが、人は見た目じゃねェってよお」
「いや、俺もその意見には反対しないけどよ。それでもやっぱり第一印象を決めるのは見た目じゃないか。それに、彼女にするなら美人がいいに決まってるだろ?」
「だぁー、分かってねェな。これは比較の問題じゃねェ、優先順位の問題なンだよ。見た目と中身、お前はどっちが重要だと思ってンだ、あぁ?」
「それは……難しいな。どっちもある程度の水準は必要だからどっちか一択ってのは仮定として成立しないだろ」
「だーかーらー! 優先順位だっつってんだろ! そりゃあ、オレだってブスよりゃあ美人がいいがよ。けどそれだけじゃねェだろ、それだけじゃあ! はっきりしろよ、この優柔不断男が」
「無茶苦茶言うなよ……つーか、いい加減本題入れよ」
いい加減、酔っ払いの相手をするのも疲れてきた。激しく帰りたい。
何で俺がイザークと一緒に女の好みなんか語らなくちゃいけないんだよ。最初は何だったっけ、ああ、そうだ。イザークが『オメエ、好きな相手はいるかよ』って聞いてきたのが始まりだったっけ。こいつもこいつで、よく分からん奴だな。
「ああ、本題。本題か……そうだな」
イザークは酌をテーブルに戻し、額を指でトントンと叩いてみせる。彼も想定外に飲みすぎたのかもしれない。
「まあ……オレが言いたいのはアレだ……不確定要素は、出来るだけ排除しときてェってことだ」
不確定要素? 一体何のことだろうか。俺はイザークにもっと詳しい説明をするように催促する。すると、
「つまり、一言で言えば……オメエ、誰に付くんだってェことだ」
「誰に、付くか?」
「おう。誰の味方すンのかってことだ」
誰の味方って……改めて聞かれると、返答に困るな。
強いて言うなら俺の味方ってことになるのだろうが、イザークはそんな強いて言った答えなんて求めていないだろう。
「お前は、誰の味方なんだよ」
答えに窮した俺は、質問に質問で返した。
参考にしたいと言うのと、単純にイザークがなんと答えるのか気になったからだ。
「オレ? オレは今も昔もオレの味方だぜ。オレはオレのやりたいようにやるし、オレはオレの利益しか見えちゃいねェよ」
オレオレと、うるさい奴だ。オレオレ詐欺か。
「……そんなのでいいのかよ。だったら、俺だって俺の味方だ」
「違うだろ」
俺の回答を、すっぱりと否定するイザーク。
「違うって……なんだよ」
「オマエは自分の為だなんて自分本位な考え方をする奴じゃねェ」
知った風な口を利く。
「俺は人間には二種類のタイプがいると思ってる」
イザークはそう言って、指を全て閉じた拳を俺の眼前に叩きつける。
そして、その内の一本を立てて言葉を続けるのだ。
「一つは正。未来とか、情熱とか、覚悟とか、信念がコイツ等だ。求めてンのが自分の外にある連中だな」
そして、もう一本の指を立てるイザーク。
「一つは負。望みとか、憧れとか、愛がここに当たる。自分のことしか頭にねェ、そういう連中がこっちに分類される」
未来、情熱、覚悟、信念、望み、憧れ、愛。
どこかで聞いたようなフレーズだ。
イザークはまるで、それらの単語を誰か特定の人物でも語るかのように話す。
「どれもこれも正にも負にも成れそうで、でも決して成れやしねェ。それがソイツの格であり、核だからだ」
「格? 上下関係があるのか?」
「もちろんあるさ。万事事象には優劣が付きまとう。そうでなくても人間ってのは比べるのが好きだからなァ」
笑いながらイザークは両手を突き出して再び指を立てる。今度は七本。
「オレの中で飛びっきり上等なのは『覚悟』だな。これは揺るがねェ。そんで一番下らねェのも『望み』で動かねェ」
「そもそも何なんだよ、その七つは」
「この七つは、原罪の派生なんだよ。そういう意味じゃ、どいつもこいつも果てしなく罪深い。だがまあ……」
ちらりと、こちらを見たイザークは、言葉を続ける。
「一番罪深いのは、間違いなく『愛』だろォな」
「愛?」
「ああ、色欲の派生で、類型で、典型だ」
「色欲って……愛ってのはそういうもんじゃないだろ。それに素敵なことだと思うぜ、恋とか愛ってのはよ」
イザークの言い方が、何故かシャクに触った俺は棘を含んだ口調で言い返す。
それに対してイザークはどこ吹く風。全く変わらない態度で糾弾を続ける。
「人は愛ってのを尊重しすぎなんだよ。愛の為なら全てが許される? ンな訳ねェだろうが。愛だろうが恋だろうが結局は自己満足の延長でしかねェ。だからこそ、揃って全て下らねェ祈りなんだよ。だってのに、愛って奴だけはそれをまるで尊いものかのように主張しやがるンだ。私はあなたを愛してる。だから全ては許される。はっ! 自分の尻拭いすら、相手にさせるンだぜ? おぞましい形じゃねェか。自己満足どころか相互依存にすらなってねェ。独りよがりもここに極まりってな」
「だったら! ……だったら、お前の言う愛ってのは何なんだよ」
思わず荒げてしまった声を落ち着かせ、俺はイザークに尋ねる。
愛とは何か、そんな酔ってなきゃいえないような恥ずかしい問いを、真面目な表情でよりにもよってイザークへと問いかけた。
いつものイザークならこんな下世話な問い、一笑に付すところだろうが、酔っているからなのか、自分から言い始めたことだからなのか、それはともかくイザークは俺の問いに答えてくれた。
「求めないこと」
ただ、一言で。
淡々と、あるいは朗々と。
「なあ、色欲と物欲の違いって分かるかよ。強欲と色欲の違いっつってもいい。どちらも同じ『欲する』という一点の感情だが、オレは似て非なるものだと思ってる」
いつになく饒舌に語るイザークは、喋りつかれたのかそこで一度酒でのどを潤してから、言葉を続ける。
「何が欲しいか、そこに問題がある。ようは無機物か有機物か……っと、これは余りスマートな例えじゃねェな。そうだな、例えるなら対象に『心』ってモンがあるかどうかの違いだ」
「心?」
「ああ。要は求めた先に、自分で考えられるだけの知能があるかって話だ。ぶっちゃけりゃ、生物に対するのが色欲、非生物に向けるのが強欲ってところだな」
「……それは大した問題でもないんじゃないのか? お前の言葉を借りるなら、どちらも欲するってことなんだし。そもそも、無機物にだって愛着っていう形があるわけだろ? だったら色欲とまでいかなくても、無機物にだって愛はあるだろう」
人が人を愛するように。
人は物を愛せるのか。
「物に宿る愛着だって、元は人から来てる訳だろ。何の縁も縁もねェ、ただの物にそこまで思いを寄せられるはずがねェだろうが」
「…………」
確かに、イザークの言うとおりなのかもしれない。
物と人。全くの同列で愛することが出来ないように、物に対する思いもまた、人に付属するものでしかないのかもしれない。
例えば、誰かからのプレゼント。それはもちろん愛着が沸く。それが親しい人であれば尚のこと。逆に言えば、全く見も知らぬ人からもらったものであれば気持ち悪いと思ってしまうだろう。そのプレゼントが全く同じものだとしても、だ。
物に対する愛憎は、それに関する人から生まれる。
イザークが言いたいことは、つまりはそういうこと。
「だとするならばだ、やっぱり最初の二極論に戻ってくる。要は者か、物か。求めるモノの違いだな」
かかっ、と快活に笑うイザーク。
自分で自分の台詞に笑っているのだろう。全く、酔っ払いと言うのはどうしようもない。そろそろこの戯言にも付き合いきれなくなってきたぞ。
「だからオレは求めねェ。人の心なんて、余計な者なンだよ」
ポツリと、今までとは違って独白のような雰囲気で、イザークは言葉を吐き出す。
「分からない者は怖い。人の考え、思いなんてオレには全く分からねェ。なあ、クリス。お前はどうなんだよ」
初めて、イザークから名前を呼ばれた俺は微かな緊張と共に、吟味する。
イザークの想いを、考え方を理解しようとして、それは不可能だと悟る。
誰だって他人の考えていることなんて分からない。それを恐怖だと言ったイザークの言葉も、分からないではない。本当に怖いのは、幽霊や怪物などではなく、人間である。何かの怪談のようではないか。
でも、それだけでは……寂しいだろう。
「……俺は、分からないからこそ、尊いと思うんだ」
「…………」
俺の言葉を、イザークは黙って聞いている。
「人の可能性っていうのかな。誰にだって成りたい自分ってのがあって、その為に努力できる。そして、それは全員の価値観が違うからこその多様性であって、進展性なんだと思う。人は一人で生きていけないから、誰かに頼る。自分に出来ないことを頼む代わりに、自分に出来ることを頼まれる。そういう相互扶助の形は、嫌いじゃない」
俺の言葉に、イザークはなるほどな、と呟いて、閉じていた瞳を開く。
「やっぱり、お前はポジティブだな。オレには到底そんなこと思えねェ。オレは、いつだってオレ以外を信じられねェ……だからこそ、」
オレは、ネガティブなんだろうな。
最後の言葉、微かに聞き取れた程度の音量はそう俺の耳に届いた。
それは悔恨に満ちた言葉だった。
「成れるだろ」
だからだろうか。
俺はつい、イザークの言葉を否定してしまっていた。
俺がそんなことを言ってやる義理など、ないというのに。
「言ったろ。人の可能性だって。お前だって成りたい自分ってのがあるだろ? だったら成ってみればいいじゃないか。それが理想と違ったとしても、後悔しかしなかったとしても、少なくとも……納得は出来るだろ」
「……納得、か」
イザークは何度かその言葉を舌で転がした後、いつもの快活とした笑い声を上げる。
「カハハ! それもそうだな。納得か、できりゃぁ少しはすっきりすっかもな!」
楽しそうに、嬉しそうに、イザークは笑う。
本当に、何で俺がこいつを励ましてやらなくてはいけないのか。
「ほら、そろそろ帰るぞ。いい加減付き合いきれねえ」
「ああ、悪かったな、つき合わせちまってよ」
「別に、会計はそっちだからな。特に文句もねえよ」
「んじゃ、帰るか」
来たときよりも少しだけ、晴れ晴れとした表情のイザークと会計を済ませ、俺達は揃って店を出る。それから「夜風に当たりてェ」と言ったイザークとはそこで別れることになった。
酔っ払い一人で平気か悩んだが、そこまで付き合う必要もないだろうと俺は思い直す。だから、結局最後に俺は、イザークに一言だけ送ってやることにした。
「なあ、イザーク。結局、お前、誰が好きだったんだ?」
俺は問いかけ、にやりと意地の悪い笑みを浮かべてやる。
イザークは嫌そうな顔をして、答えなかった。
そのまま答えないまま夜の街に消えていくイザークを見送って、俺も借家へと戻ることにした。
いや全く。イザークの最後の表情は傑作だった。
長々と戯言につき合わされたのだ、最後にちょっとした意趣返しくらい構わないだろう。
「色々思わせぶりなことを言ってたけどよ」
結局のところ、イザークは『恋愛相談』がしたかっただけのように思えるのだ。色々と言葉をひねってはいたけどな。
俺の好みを知ろうとしたり、愛とは何かみたいな真面目腐った話題で誤魔化そうとしたり、誰に付くのか、何てまさしく『お前、誰が好きなんだよ』って副音声が付いて聞こえそうなくらいだったぞ。
「最初はまさかと思ったけどな」
あのイザークが、何て思わないでもない。彼だって人間だ。だとするならば、普通に恋をして、人を愛するのだろう。本人が、なんと言おうとも。人は人を愛するように、出来ている。
「…………」
ふと。
ふと、思ってしまう。
人が人を愛するように出来ている、というのなら。
『物は人を愛することが出来るのだろうか』、と。
「愛とは何か、ねえ」
結局言う機会のなかった俺のスタンス。
愛とは何か、その答え。
「愛とは愛で、それ以上でもそれ以下でもないだろうに」
人は言葉で遊ぶのが好きだなあ。
なんて、思いながら俺は借家へと歩いた。




