第四十四話 「想いの重さ」
この街に来たときからずっと感じていた違和感。
俺はついにその正体を知った。
ずっと、何かが足りない気がした街並み。足りないものは、『女性』だったのだ。
街を歩くのはどこもかしこも、男、男、男だ。
台車を押して果物を売り歩く商人も、大きな噴水の前で大道芸を披露する若者も、聖書片手に信仰とは何かを説いて回る神父も、裸足に着の身着のまま新聞を売り歩く子供も、襤褸をまとった物乞いの老人も、全てが男性だったのだ。
都市にはその都市のルールがあり、その法の中で動いている。そのことを俺は理解しているつもりで、理解していなかった。
そもそも、奴隷制度についてもそうだ。
俺は奴隷という存在に触れて、何とかしてやりたいと、このままでは駄目だと思っていた。
だが……その考え自体、『傲慢』に過ぎる願いだったのだ。
都市にはその都市のルールがある。
同じように、その世界にはその世界のルールがある。
奴隷制度という仕組みがあって、世界が成り立っているのならそれに対してどうこうしようというのがそもそもの間違いだ。ここは元いた世界ではない。
ならばこそ、前の世界に近づけようとすること自体がこの世界への冒涜へ他ならない。
……いや、奴隷制度が駄目だという意見自体は正しいのかもしれない。
だが、そこには確固たる自身の意見がなければならない。
ただ駄目だから駄目なのではなく、なぜ駄目なのかをはっきりと言えなければ、そんなことを願う資格はない。
同じように、このツヴィーヴェルンという都市を覆う、『女性差別』という現実も、きちんと自分の目で見なければならなかった。
だというのに俺はそのことに気付かず、言われてようやく思い至ったのだ。
俺が男だから? 到着して日が浅いから?
そんなものは言い訳にもならない。
気付けたのなら、気付けたはずなのだから。
だが、俺は気付けなかった。
つまりは、そういうこと。
「大丈夫か、クリス」
ツヴィーヴェルン邸からの帰り道、俯き歩く俺にカナリアが心配そうな声音で声をかけてきた。
結局全ての報告を俺が行った今回の任務。俺とシュトルム卿のやり取りを聞いている間、さぞや居心地が悪かったことだろう。
いや、女性というだけで意見を無視され、いないようなものとして扱われた事実を考えれば『居心地が悪い』程度で済むのなら、寛大に過ぎるというものだろう。
俺なんかよりもよっぽど堪えているはずのカナリアに、気遣われているなんて情けない。いい加減頭を切り替えよう。
「大丈夫、少し驚いただけだからさ」
「そうか、ならばよいのだ」
表面上は全く気にしていないといった様子で、カナリアがほっとした表情を見せる。俺も、しゃんとしないとな。
「これからどうする。一応シュトルム卿には報告したんだし、ユーリ達と合流するか?」
「ふむ、それがいいだろう。あ、いや、その前に一度宿に戻ろう。彼女たちにも説明していないと危なそうだ」
彼女たち、つまりは借家で待っているエマ、クレハ、アネモネのことを言っているのだろう。確かに、この都市のあり方を伝えておかないと、一人で外を歩いて危険な目に合わないとも限らない。
早いうちに、伝えておいたほうがいいだろう。
「分かった、それならすぐ戻ろう」
カナリアの判断で、俺達は借家へと戻ることになった。
足早に歩く俺達。カナリアがどうかは知らないが、俺はすぐにでもツヴィーヴェルン邸から遠ざかりたくて仕方がなかった。正確には、あの館の気持ち悪い主から、逃げ出したかった。
『女性など、知能の高い獣と変わらん』
全く、反吐がでる。
どんな思考回路をしていればあんなことを至極全うな表情で口に出来るというのだ。
「…………」
いや、これも結局は俺の独りよがりな考え方なのかもしれない。
奴隷差別も女性差別も基本的に、根本的に、深層的には同じものだと思う。
誰だって、自分の中にある正しさを信じて生きている。だとするならば、俺が『奴隷差別はいけないことだ』と考えるように、シュトルム卿は『女性差別は当然のことだ』と考えているのだろう。
そして、彼の考えを理論的に否定することは……残念ながら出来ない。
やろうとするのならば、それはどうしたって感情論の域を出ない。究極的には我侭の範疇になってしまうのだ。
そして、その感情的な意見というものを、かの御仁が尊重するとは到底思えない。そもそも、女性が男性に劣る理由として行動原理が感情論に根ざしているから、という論を展開する人物だ。むしろ、そんな意見は低俗で非論理的なものとしか彼の目には映らないだろう。
破綻していると、思わされる。
それが彼を指しているのか、世界そのものを指しているのか、それとも人間という多様性に対してのものなのかは、はっきりしていないのだけれど。
(……駄目だな、どうも思考がまとまらない)
下手の考え休みに似たり。
俺は意識を切り替えるためにも、カナリアに話しかけてみた。
「なあ、カナリアにはシュトルム卿の考え方、理解出来たか?」
「全く出来ん」
カナリアはカナリアで先ほどの謁見のことを考えていたのか、一切の躊躇も、一泊の間もないまま断言した。
「我は差別というものが大嫌いなのでな。彼の偏見的な意見には賛同できん。一応言っておくが、これは我が女だから、などという立ち居地からくる癇癪に近い反論ではないぞ」
「ああ、それくらいのことは分かっている」
十二分にな。
カナリアという光の強さを、俺はすでに知っている。
「まあ、カナリアがそういうだろう事は分かってたよ」
「なら、なぜ聞いたりしたのだ」
「強いて言うなら、確認のためかな。もちろん、カナリアの意見の確認じゃなくて、俺の考え方がどれくらいズレているのかって確認」
シュトルム卿から、カナリアから、あるいは世界から。どれほどズレているのか、それともズレていないのか。
「ふむ……」
俺の言葉に、カナリアは何かを考えるように顎に手を当てる。
「我々は他の世界を知っているからな。その分、現状に対する違和感は強いのだと思う。クリスは幸福度という言葉を知っているかね」
「ああ、知識としてなら」
「あれと似たようなものだと思うのだよ。誰だって、自分の環境が恵まれているのか、それともそうでないのか、それを知るためにはまず比較対象がなければ始まらない。ええと、つまりだな……」
自分の中で言葉がまとまらないのか、口ごもるカナリア。
俺は彼女の言いたいことが何となく分かったので、それ以上の追求はしなかった。
幸福度、つまりは自分が幸福か、不幸かってことだ。
それを知るには比較対象がいる。自分より不幸なものがいれば、自分は相対的に幸せであり、逆もまた然り。
つまりは元の世界という幸福を知っているせいで、俺にはこの世界が間違っているように見えてしまうということだ。そして、それは事実としてあるのだろう。
俺はこの世界が間違っていると、旅を始めてその思いを強くしてきたが、それだって元の世界を知らなければそもそも思いもしなかった反感なのだ。
「そう思うこと自体は悪いものではない。誰にだって幸せになる権利があり、そうするだけの義務がある」
義務。
幸福になる、義務。
それもまた極論のような気がしたが、俺は黙ってカナリアの意見を聞いていた。
「ようはどこで妥協するのか、という問題に帰結すると思うのだ。いくら考えても成否が出ない問題ならば、自分の中で妥協するしかない」
「……やっぱり、そうなるのかな」
「そうだと思うぞ。人の行いに、善悪の二元論は通用しない。見方を変えれば、立場を変えれば、条件を変えれば、いくらでも言い逃れることが出来る。……我はそのような妥協は好きではないのだがな」
ああ。カナリア・トロイという女はそうだろう。
一切の妥協なく、ただ自身の望む黄金に向けて突き進む姿はまさしく光。
そのあり方はとても尊い。
だが……こうも思うのだ。
誰もが光り輝く彼女のような存在であれば、そうなれない存在はきっと、瞳を焼かれて身動きが出来なくなってしまうだろう。
妥協することが許されない世界では、弱い者はただ淘汰されるしかない。
カナリアの思い描く理想の世界は、余りにも弱いものに厳しすぎるのだ。
もっとやれる。自分の限界を自分で決めるな。無理、不可能なんてあり得ない。弱きものよ、奮い立て……そんなカナリアの叱咤は、余りにも重い。
ともすれば、理想に潰されてしまうほどに。
例えば、男性恐怖症の少女。
結果には過程が伴い、原因が付属する。
で、あるならば。
彼女は……エリザベス・ロス・ツヴィーヴェルンは一体どんな原因から、どんな過程を辿り、結果へと辿り付いたというのだろう。
カナリアの語る世界が俺にとって、重く感じられるように。
エリーもまた、ツヴィーヴェルンという世界が果てしなく重かったのではないだろうか。
ともすれば、潰れてしまうほどに。
そう、思わずにはいられなかった。




