第十六話 「アイデンティティー」
「エマの名前は、エマっていうの。よろしくね主様」
「いや、その主様ってのはやめてくれ。俺にはクリスって名前があるんだから」
俺は奴隷だった少女、エマと道端で話しこんでいた。
いや、確かに俺も軽率な行動だったとは思うけどさ。いくらんでも、極端じゃないですかね。いきなり主になれだなんて。
「じゃあクリス」
「あ、そこは呼び捨てなのね」
「エマの主人になってよ」
繰り返し迫るエマに、俺は言葉に詰まる。
正直、面倒だ。奴隷の身分を解放されて、行き場の無い自分を養えと言っているのだ。この少女は。いい根性している。
「いや、確かに俺の責任ではあるけどお前……もっと自由に生きろよ」
「エマは奴隷以外の生き方なんて出来ない。だから、責任とって主になってよ」
「…………」
どうしたもんかね。
ここでこの少女を見捨てるのは簡単だが……それもまた違うだろう。
男なら自分の行いに責任を取るべきだ。
「よし、分かった。そういうことならお前を俺の子分にしてやろう。これからはお兄ちゃんと呼びなさい」
「分かった! お兄ちゃん!」
……くっ! 予想以上の破壊力だぜ!
なんて曇りの無い目で俺を見るんだ。
「どうしたのお兄ちゃん。どこか痛いのお兄ちゃん。お兄ちゃん? お兄ちゃん、一体……」
「分かった! お兄ちゃんはやめよう!」
俺の羞恥心が持たない!
俺がエマにお兄ちゃんだなんて呼ばせているのが誰かにバレたらそれだけで悶死する自信がある。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「す、好きに呼んでくれ……」
「じゃあ……クリスだから……ク○リンって呼んでもいいかな?」
「それは色んな意味でアウト!!」
何てピンポイントなネーミングしやがる!
クリ○ンのことかああぁぁ! いえ、俺のことです!
「えー、じゃあ……しらが頭」
「それ、ニックネームじゃなくてただの悪口だから!」
「注文多いなあ、もうお兄ちゃんで良くない?」
「飽きるの早いな、おい。普通にクリスじゃ駄目なのかよ」
「いいよー」
「いいのかよ!」
つ、疲れる……
なんだこの少女は。口に爆撃機でも積んでんのか?
にこにこと笑うエマは先ほどまで奴隷だったとは思えないほどいい表情をしている。肝が据わっているというか、豪胆というか。
「とりあえず一緒に来るなら、昨日の件のこと、エリーに謝っておけよ」
エリー自身は気にしてはいなさそうだが、盗んだ事実は変わらない。
後で遺恨を残す結果になってもつまらない、と俺はそう提案するのだが。
「うーん。謝るのはいいんだけど……エマは反省なんてしてないよ?」
言うだけなら構わない。
そんな不遜とも言える態度のエマ。
「なんでだよ。悪いことをしたら、謝る。当然のことだろうが」
「エマにはあれが悪いことだとは思えないんだよね」
「……なんだと?」
エマの物言いに、僅かに口調が荒くなる。
エマは俺の態度もどこ吹く風で、腕を頭の後ろで組みながら自分の意見を主張する。
「だって、食べ物がないと人間は死ぬんだよ? 生きるか死ぬかを前にして、良い悪いなんて考えてられないって」
エマは自分の言い分を完全に信じている様子。
当然でしょ、と言わんばかりだ。
「けど、それは違うだろう。人間は社会的動物だ。だから、社会の一員としてそこにあるルールを守ってだな……」
「社会のルールはエマを守ってなんかくれない。なのにエマには社会のルールを守れって言うの?」
「そ、そうは言ってねえけどよ……」
俺の言葉に被せる形で放たれたエマの言葉に、俺は思わずたじろぐ。
エマは後ろ手に腕を組みなおしてから、言葉を続ける。
「クリスは正しいことを言ってると思う。けどさ、正しいからって間違っていない訳じゃないと思うんだよね」
「…………」
……参ったな。俺より年下であろう少女に、完全にやり込まれてしまった。
お互い正しい部分と、間違っている部分があると思う。それでも心情的に、俺は少女の意見に心が傾いてしまっていた。
それでもなんとかプライドを保とうと、
「それじゃ極論何をやっても許されちまうじゃないか……」
と、ボリュームの数段落ちた声で俺はなんとか反論を試みる。
ジトー、と効果音が付きそうな視線で俺を見るエマ。痛いから止めて。
バツが悪くなった俺は、顔を逸らして誤魔化そうとする。その時だ、
「人を殺すのは良くて、物を盗むのはダメなんだね」
ポツリ、と漏れたエマの声に、俺は一瞬心臓が跳ねる思いだった。
「な、なんでここで殺人の話になるんだよ」
「……ただのたとえ話ですよー」
それだけ言ってそっぽを向くエマ。
それから俺たちは微妙な雰囲気のまま、帰路についた。当然のようにエマが付いてきたのは言うまでもない。
それにしても昨日はエリー、今日はエマと大喧嘩。我ながら対人能力低すぎるだろ。情けねえ。
内心涙目になりながら、とぼとぼと歩く俺の後ろを、エマが若干の距離を空けて付いてきている。その物理的距離が、二人の精神的距離を表しているようだった。
質素な借り部屋に戻ると、エリーが仏頂面で待っていたがエマの姿を見るや否や、嬉しそうに表情を輝かせた。
「昨日突然いなくなっちゃって、心配してたんですよー!」
うりうりと頬をこすり付けるエリー。
エマはエマで若干嫌そうな顔をしているが、無礼を働いた貴族相手に強いことは言えないようだ。ざまあみろ。
俺は借りてきた猫みたいに大人しくなったエマにささやかな嫌がらせを決行する。
「エマはエリーの部屋に泊まれ」
「ええっ!?」
案の定、嫌そうな声を上げるエマ。
とはいえ、俺の部屋に泊めるわけにもいかない。
「新しく部屋を借りるのも金がかかるし、悪いけど我慢しろ。エリーも、それでいいな?」
「大歓迎ですっ!」
「…………」
まあ、流石に間違いなんかは起こらないだろう。たぶん。
一抹の不安を残しながらも、俺はエリーとエマを置いて部屋を出る。
扉一枚隔てた先から、エマの断末魔のような声が来たのは気のせいだろう。
「……今日は少し、疲れたな」
自分の借りた部屋に戻った俺は、ふと最近の出来事を振り返っていた。
二年間、ずっと一人でいたのに、最近になってから急に周囲が騒がしくなってきた。
なんだろうな。
こうして誰かと触れ合うことが少なかったからか、少し感傷的になっているのかもしれない。
──俺が普通の人間だったら、ずっとこんな風に過ごせてたのかな。
今もヴェール領で、アドルフとサラとクリスタと、皆と一緒に……
「……無駄な感傷だな」
今更過ぎる。
俺はもう誓ったのだ。英雄になると。
……けど、たまに思うのだ。
俺のやってきたことは本当に正しいことなの、と。
正しいことは、間違っていないという意味ではない。
俺がそれを正しいことだと判断して行動した結果、助けることが出来た少女自身に言われた言葉。
その言葉は俺の心に深く深く突き刺さった。
正しい道だと信じて歩き続けた俺の道を、真っ向から否定された気がしたのだ。
夜の帳が下りた室内で一人、自問自答を繰り返す。
答えは未だ、出ない。
それでも……
「誰かを助ける行いが、間違っているわけなんてない」
たった一つの信念を胸に、俺は考えることを放棄した。
その行いの先に……何が待っているのかも知らず。
──報いの時は、近い。




