「恋歌」
何だ? 何だ? 一体何が起きた?
クリスタがアネモネを刺して……は? ……は? "クリスタがアネモネを刺した"? 何で? 一体どうして? なぜそんなことを? いや、それより早く手当てを、手当て、手当て、血がこんなに、何か塞ぐもの。布、服でいい。とにかく出血を止めないと、そうでないと……
──アネモネが死んでしまう。
ぞわっ、と背筋に氷を流し込まれたかのような感覚が一気に通り過ぎる。思考がまともに働かない。何をしたらいいかが分からない。だからその治癒のメテオラを唱えたのは俺ではなく、後ろで様子を見ていたカナリアだった。
「癒せッ! メテオラ!」
白い光がアネモネを包み込む。
良かった……これでアネモネは助かる。
そう、思ったのに。
「何でだっ! 傷が塞がらないッ!」
悲鳴のような声を上げるカナリア。
え? 傷が塞がらない? メテオラを使ったのに?
「め、メテオラっ!」
遅れて俺もメテオラを唱える。再び白い光がアネモネを包むが、それも効果が見られなかった。おかしい。こんなの異常だ。メテオラで出来ないことなんてない、はずなのに。もしもメテオラに逆らえるものがあるとすれば、それは……
「……あ、ありえない……」
声が震える。体が震える。心が震える。
その事実を認めたくなくて。
だってそんなこと、あってはならないことだから。
「……ちっ! クソがっ!」
その内心燃え滾る怒りを隠そうともせずイザークが吼えたぎる。戦い終えたばかりだというのに、疲れ果て、傷ついた身体で尚イザークはその祈りを紡ぎ始める。
《陽が昇り、月が煌き、人は死ぬ。人が真理に勝てねェなら、疾く去るがいい。此処は殺戮の舞踏会、弱者は不要──》
それは敗北し続けた男の鎮魂歌。
奪い奪われる戦いの宿命を嘆いた男の贖罪の歌。
《──卑欲連理・汝に捧ぐ鎮魂歌》
黒の権能がイザークの両手に集まる。
これで必勝。何者にも負けない勝利を奪い取る拳の顕現だ。
このままではイザークはクリスタを殺してしまうだろう。だというのに、今の俺にはそれに構っているだけの心の余裕がなかった。
「アネモネっ! くそっ! 何で、何で傷が塞がらないんだ! 何で血が止まらないんだよッ! 止まれ、止まれってのっ! カナリア! イザーク! 誰でもいい! 誰か助けてくれッ!」
みっともなく助けを求め、半狂乱になって喚き上げる。
無様としか言いようのない俺を見るクリスタがそっと呟く。
「……今回もクリストフは私を見てくれないんだね」
が、その言葉すらも今の俺には届かない。聞こえてはいるがその音を情報として処理している暇がなかった。だから……
「でもいいよ。いつか振り向いてもらうから」
俺がクリスタの異変に気付いたのは、数拍遅れてのことだった。
《幾多の時を越えようと、私はあなたを忘れない──》
それはかつて幼い頃にクリスタが聞かせてくれた歌。
耳に馴染んだその音は少しだけ声音の成長したソプラノによって奏でられる。
《──悲しい時は笑いましょう、嬉しいときも笑いましょう──》
儚げなメロディーに乗せられたその声は高々と周囲に響き渡る。
悲しい時は笑いましょう……それが今の俺には悲痛な叫びのようにも聞こえた。
《──あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れない──》
『私! 忘れないからぁ……ッ!』
かつて村を出るときにクリスタから聞いた言葉を思い出す。
もしかしたら別人なのかもしれない。そんな微かな希望は一瞬で打ち砕かれる。間違いない。今この歌を歌っているのは間違いなくクリスタだ。俺の初恋の少女、クリスタ・フーフェだ。
ただ呆然とすることしか出来ない俺の耳に、俺も聞いたことがないこの歌の最後の一小節が届く。
《──否欲恋理・貴方に届け、恋の歌》
そうして現れるのは最後の理。
卑しい欲に連なる理ではなく、欲では否、恋の理を。
空色に輝くメテオラを纏ったクリスタに、
「見誤ったぜ……ッ」
イザークが悔しそうに声を漏らし、突撃する。
その拳は長年鍛え上げられた究極の一打。並みの人間では防御することすら不可能なその一撃を、
「ふふ……」
クリスタはひらりと回避してみせた。まるでその位置に最初から攻撃が来ることを分かっていたかのように、いとも簡単に。
「イザークさん、でしたっけ。貴方は私が転生者だと分かっていたみたいですけど……どこかでお会いしましたっけ?」
「直接の接点はねぇよ。又聞きしてた程度だ。だが……ここまでやべェ奴だったなンて、聞いてねェぞ」
「それはそうですよ。私が自ら出張るのは"物語が終わってしまう時だけ"ですから」
「…………なるほど。そういうことかよ」
今のやり取りで何かを悟ったらしいイザーク。その額にたらりと汗が流れるのが見える。イザークはヴォイドとの戦闘ですでに満身創痍。戦えるような状態ではない。
だが、戦いとは時間や場所、コンディションを選んでくれるようなものではない。最悪の事態が重なったとはいえ、それを嘆いている暇はないのだ。
「オオオオオオオオオォォォォォォォォォォッッ!!」
イザークが吼え、再び突撃を試みる。体力的に長期戦はまずいと判断しての短期決戦。打てる手はそれくらいしかないとは言え、その特攻はいくらなんでも無謀に過ぎた。
振るわれる拳を細剣の腹で受け止める。あんな芯の細い剣でイザークの一撃を受け止められるはずがなかったが、
「な……馬鹿なッ!?」
クリスタの細剣はしっかりとイザークの一撃を受け止めていた。まるでアネモネの絶対防御のようにイザークの拳はクリスタの細剣にぶつかったところで静止していた。
「何だ……お前の権能は一体何なンだッ!?」
「さあ。私もよく分かりませんが。言うなら恋の権能、ですかね」
イザークの拳を弾き返し、すっ、と細剣を腰だめに構えるクリスタ。
それは抜刀の構え。すぐにその殺傷圏内から逃れようと後退するイザークの足が、地面を、滑った。
「好きな人のためなら何でも出来る。女の子にはそんな力があるんですよ」
まるでスローモーションのように見えるその世界で、ゆっくりとクリスタの細剣がイザークに迫る。その、刹那。
《星は空に集い、宵に満ちる。ただ一筋の明星よ、聞き届け──》
紡がれるのは反逆の歌。強きものを挫くその権能が発動したということが、カナリアの内心の焦りの象徴でもあった。
《──ただ一筋の刃を以って、我、鬼と成らん──》
勝てない、と。
歴戦の猛者であるカナリアが直感的にそう悟っている。その事実。
《──弱き者よ、剣を取れ──》
カナリアの腰に差されている八本もの刀が同時に空中に浮遊する。
なぜカナリアが普段から八本もの刀を帯剣しているのか、その理由は権能にある。カナリアは常に周囲に刀剣類があるとは限らない戦場で自分が持てる最大限の質量を持ち歩いているに過ぎない。
《──卑欲連理・血塗られた戦乙女》
だが、それも今回ばかりはあまり関係がない。
なぜなら周囲には先ほど俺が使った武器がいくつも散らばっているからだ。いくつかはヴォイドに壊されたが、それでも五十は優に超える。それら全ての刃がクリスタに矛先を向け、一斉に襲い掛かった。
あのヴォイドですら捌ききれなかった弾幕。
その嵐の中を、クリスタはなんと"優雅に歩いてきた"。
「ぐっ、馬鹿な! なぜ当たらない!?」
いくら精度が高かろうとも操作するのは人間。である以上いくらかハズレが出るのは仕方がない。だが、だがそれでも目の前の光景は異常に過ぎた。
まさに雨の中を傘も差さずに歩くがごとき所業。驚くべきはそれら全ての雨粒を一切受けずにいることだ。ただの一粒も、ただの一撃も喰らうことなくクリスタはカナリアの付近まで歩いてやってきた。
「貴方のことはよーく知ってますよ。カナリアさん」
その可愛らしい顔に、笑顔を浮かべて。
「貴方は私から最初に奪った人ですからね。印象深いし、その分恨みも人一倍強いんです」
「な、何を言っている……」
「つまり──死んでください」
ひゅんっ、と死神の鎌のような一撃がカナリアの首元に迫る。だが、カナリアも熟練の兵士。その一撃を軽くしゃがんでかわすと周囲に展開していた自分の刀八本を同時に構えた。
「八双……百日紅ッ!」
放たれるのは角度の違う八筋の斬撃。至近距離から放たれたその全てがかわすには不可能なタイミングと速度で襲い掛かる。もしクリスタの権能が防御に特化したものだとしても、この攻撃はかわせない。かわせるはずがない。
「あはっ!」
だがそんな必殺の連撃を──キィィィィィィィン!
八つの斬撃が重なるただ一点を抑えることで一度に防御に成功する。
「馬鹿なッ!?」
何度目とも分からない驚愕の声を上げるカナリア。
「有り得ない! 全ての斬撃が重なるような角度で放ってはいないぞ!? なぜだ、なぜこんなことに!?」
本来八つもの斬撃が全て一度に同じ箇所に集まるなんてことは有り得ない。それが線であろうとも。時間の差、角度の差、二つの差から放たれているからこその必殺。たとえ重なる斬撃があるとしてもそれは二つか三つがいいところ。八つの斬撃を自由に動かせるカナリアがそんなミスをするわけがないのだ。と、なると……
「それがお前の権能……なのか?」
漏れるカナリアの声は尻すぼみになっていく。カナリア自身、何がどうなっているのか理解できていないからだろう。
クリスタの権能によってそれが起きたのかは分かった。でも肝心の能力の詳細が分からないのだ。
今まで起きた現象は大きく二つ。
かわせるはずのない攻撃をかわしたことと、防げるはずのない攻撃を二回とも細剣で防いだこと。
回避と防御、似ているようで全く違う防御方法であるためクリスタの能力が今だおぼろげにしか見えてこない。恐らく防御寄りの権能。そう判断したらしいカナリアが再び切りかかる。
だが……
「私相手に接近戦は……おすすめできないなあ」
苦笑を浮かべたクリスタは細剣を鋭く構え、放つ。細剣は斬ることよりも突くことに重きを置いた武器だ。一撃で弱点を突く正確さと、鋭い一撃を生み出すための速度が要求される。反面敵の攻撃を防御しにくいためあまり好まれては使われない武器だ。
使いこなすには相当の腕が必要な熟練者向きの武器。
それを巧みに使いこなすクリスタの一撃はカナリアの八本の防御をかいくぐり、脇腹へと鋭い一撃を叩き込む。
「ぐ、ふっ……」
脇腹を突かれたことにより噴出する血液。カナリアほどの武人がいくら防御しにくい突きとはいえあそこまで無防備に食らうなんて有り得ない。喰らった本人も訳が分からないのか目を白黒させている。
まるで魔術。
こちらの攻撃はなぜか届かず、向こうの攻撃はなぜか当たってしまう。まさに悪夢としかいいようがない状況だった。
「くっ、ならばっ!」
叫んだカナリアはクリスタの持つ細剣へと手を向ける。
そうだ。その手があった。カナリアの権能にかかればどんな武器であろうともその主導権を奪われる。くるりと反転しクリスタの手から離れた細剣をカナリアが取り上げようとして、
「なっ!?」
その"柄を掴み損ねていた"。間違って刀身部分を握ってしまったカナリアの手から赤い雫が垂れ落ちる。有り得ない。カナリアが武器を握りそこなうなんて、それこそ有り得ないことだ。
「運が悪かったね、カナリアさん」
その様子を見ていたクリスタは可哀想なものを見るような目でカナリアを見つめ、そして……その手刀をもってカナリアの腹部を貫いた。
「な……ん、で……?」
なぜ自分が負けたのか、その理由をカナリアは倒れるその瞬間まで分からなかったことだろう。傍目から見ていても全く原理が理解できなかったのだから。
「ぐ、」
そして、その光景を見て、
「ああ、あああああああああァァァァァァァァァァァァッ!」
黙っていられない男がいた。
「死ね! 死ねッ! 死ねぇぇぇぇぇえええええええッ!!」
絶叫を上げ、滂沱の涙を流しながら怒り狂う修羅。まるで代わりに憤怒を受け継いだかのようにカナリアの怒りを代弁するイザーク。その身体はすでにぼろぼろ。立っているのが不思議なほどだった。故に、
「邪魔だよ」
クリスタの一撃を防ぐ余力が、イザークには残っていなかった。
ポンッ、と軽い音を上げ吹き飛ぶイザークの右腕。その残虐を為したのは皮肉にも落ちていたカナリアの刀だった。片腕を失い、噴水のように血を撒き散らすイザークは、
「ま、だだッ!」
しっかりとその二本の足を持ってクリスタへと突撃する。
最早根性や努力といった精神論で乗り越えられる領域をはるかに凌駕している。だというのにイザークは滾る想いを糧に、突撃を続けるのだ。
「くたばれッ! この、ゲスがぁぁぁぁぁあアアアアアアッ!!」
振るわれるイザークの左腕が再び宙を舞う。かみ殺してやると走り寄るイザークの両足が転げ落ちる。何とか一撃だけでもと這う体の中心部に刀が深々と突き刺さり、その動きを止める。最後に呪い殺してやると殺意を込めるイザークの体中に、刺す、刺す、刺す、刺す刺す刺す刺す。都合八本。カナリアの持っていた刀の全てがイザークの体に突き刺さり、まるで昆虫の標本か何かのようにその亡骸を地面へと縛り付けている。
そこでようやく……
「────────は?」
俺の脳みそが、現実に追いついた。
「カナリア……?」
明らかに致死量の血を撒き散らすカナリアから声はない。
「イザーク……?」
四肢を転がしその体を磔にされたイザークから声はない。
そして……
「…………アネモネ?」
俺の腕で瞳を閉じる愛しい人……アネモネから声はない。
三人が三人とも、瞬殺されたのだ。たった一人の少女の手によって。
「これで二人きりだね、クリストフっ」
そしてこの地獄を作り出した女の子……クリスタは笑顔を浮かべてそう言った。現実感がまるで湧かない。何だこれ? 冗談? ドッキリ? 何でもいいから早く覚めてくれ。この悪夢から。
いくら願っても、いくら望んでも、いくら祈っても、目の前の光景に変わりはない。だとしたらコレは現実なのか?
カナリアが死んで、イザークが死んで、アネモネが死んだ。
つい数分前まで一緒にいたのに。一緒に、今後について語り合っていたというのに。ようやく……和解できたと思ったのに。
もしもこれが現実ならここは間違いなく地獄だ。何よりその地獄を作り上げたのが大切な人だということが、その凄惨さを際立たせている。
冷静な状況分析ができない。俺は今、混乱の境地にいる。
俺は完全に感情を持て余していた。
「今のクリストフが何を言っても無駄なのは分かってるよ。だからさ、落ち着いたらもう一度会おうよ。今度は断らないでよ? こっちにはエマちゃんとエリザベスさんもいるんだから」
「エ、マ? ……エリー?」
「そう。可愛い子達だよね。彼女達は転生者じゃないから殺す必要はないの。まあ、それもクリストフが私の言うこと聞いてくれるなら、だけどね」
「殺す……?」
「だからそれはクリストフ次第だってば。あ、そうそう。ついさっき師匠も拾ったから一緒に連れて帰るね」
「父、さん……」
「そ、落ち着いたらヴェール領の屋敷で会おうよ。皆もそこにいるからさ。でもあんまり待たせないでよね。待つのには慣れてるけどそれでもやっぱり辛いんだから」
「辛い……」
「うん……それじゃあね、クリストフ。また今度」
最後にそう言ったクリスタは俺の元から姿を消した。
突然現れ、突然去っていった。まるで災害か何かのようにそれは俺に衝撃を与えていったのだ。残されたのは俺だけ。俺だけが……生き残っていた。
「あ、は……」
乾いた笑いが漏れる。
「ははは、ははははははッ」
──悲しい時は笑いましょう。
こんなときに俺は、そんなどうでもいいワンフレーズを思い出していた。
「──────────────────」
そして、世界に音が溢れた。
鼓膜が破れんばかりの哄笑に、俺は自分が狂ったことを悟る。
そして……もう、全てがどうでも良 く な っ て
い ッ
た 。




