「神速の剣」
アドルフ・ロス・ヴェールは戦場を疾走する。
その戦場の香りは彼にとって慣れ親しんだもの。すでに幾人もの兵士を死体に変え、それでも彼は止まらない。何かに突き動かされるように。
「アアアああああああッ!」
気合と共に自前の剣を横薙ぎに振るう。それだけで空気が裂け、衝撃波が空間を叩く。神速とうたわれる彼の剣速はすでに音速に届こうとしていた。
これほどに剣の腕を磨き上げたものは他にいない。たった一人とはいえ、世界最高の腕を持つ彼にとって、脅威になりうる人物は数えるほどしかいなかった。
アドルフは立ちふさがる兵を次々に薙ぎ倒していく。普段であれば動けなくなる程度のダメージに抑えるところも、躊躇なく命を刈りにいく。それは領主として公の立場に身を置く普段のアドルフからは考えられないことだった。
「発勁・鉄破!」
左足を軸に、足、腰、肩、腕、手へと順々に力を伝える。個々で生み出されるエネルギーは微々たる物でも、それが重なれば大きな力へと変わる。無駄のない完璧な体運びを求められるその一撃はまるで弾丸でも打ち出したかのような快音を響かせ、目の前の兵士を吹き飛ばす。
「何をやっている! 相手はたった一人だぞ! まとめてかかれ!」
しかし、後から後から湧いてくる兵に限りはない。
前方から二人、後方から二人。挟み撃ちの形に誘導されたアドルフに四つの刃が振り下ろされる。
「──フッ」
短く息を吐き出し、跳躍。
四つの斬撃の網をかいくぐるようにして、横に飛んだアドルフはすぐに次の手を打つ。斜めに駆け出し、敵が一列になったところを狙い一人ずつ相手にしていく。一対多の戦いでは後ろを取られないよう、常に駆け回りながら戦う必要がある。そのため動きっぱなしの身体はすぐに悲鳴を上げ、肺と心臓が酸素を求めて暴れまわる。
アドルフはその体の内側から上がる苦痛を無視し、一人、また一人と屠っていく。まるで何かに突き動かされるように。
それは後悔。
それは悔恨。
守ることのできなかった己の不甲斐なさを。
どうすることもできなかった己の無力さを。
アドルフは深く深く、嘆いていた。
(……サラ)
愛しい人の名を呼ぶ。
しかし、いくら呼びかけようと、いくら求めようと……返事が返ってくることはない。これから一生、ないのだ。
「ラアアアアアアアあああああぁぁぁぁあぁッ」
迫り来る二人の兵士をまとめて斬りとばす。そのまま振り返りざま、眼前に迫る白刃を柄に当て弾き返す。そしてがら空きになった相手の腹部に再び掌底。体勢を崩したところを追撃し、首を跳ね飛ばす。
飛来する弓、魔術に関してはかわすしかない。近距離攻撃しかできない以上、相手取るのは不利。できるだけ遮蔽物となるものを利用しながら、次の獲物を探す。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
物陰に身を潜めたアドルフは束の間の休息を味わう。
すでに体中から血があふれ出している。自分でも気付かないうちに攻撃を喰らってしまっていたようだ。戦闘の高揚感が一時的に痛みすら忘れさせる中、その胸中に渦巻く『痛み』だけは消えることなくアドルフを苛み続ける。
「──ッ」
気付けたのは偶然。
そして回避できたのも偶然だった。
上空から舞い降りた影、短刀を携えたその男と対峙したときアドルフは目の前の男の力量を即座に悟る。
「シッ!」
鋭い踏み込みと共に振るわれる短刀を身をひねってかわす。短刀はリーチが短い代わりに力強い振りが可能だ。さらに短刀の峰には刃を折るための凹凸が刻まれている。衝突は不利と悟ったアドルフは即座に戦闘スタイルを変更。半身に構え、剣を突き出す刺突の構え。
短刀を逆手に構え、突進してくる男に向け──ヒュンッ!
数ある斬撃の中でも特に防御しにくい突きを繰り出す。一撃、二撃、三撃目にしてようやく男の肩をアドルフの剣先が捕らえるが、男はすでにアドルフを殺傷半径に収めていた。
「……死ね」
ぞっとするような冷たい声と共に振るわれた男の短刀が太陽光を受けてキラキラと反射する。首元を狙って放たれたその一撃、何とかかわそうと上体を反らすが……
(しまったッ! フェイクかッ!)
その一撃は男にとって本命ではなかった。人体の急所を狙われたことにより反射的に回避行動をとってしまったアドルフにはその蹴りをかわすことができなかった。
シャキッ、と軽快な音を立て男の靴先から仕込みナイフが刃を覗かせる。刃渡りはそれほどでもないが、その一撃は深々とアドルフの胴体、右脇腹に突き刺さった。
「ぐっ……ッ」
「おっと」
何とか試みた反撃も、軽くかわされてしまう。明らかに男の方がアドルフよりも高い戦闘能力を持っている。駆け引きの仕方や攻撃のタイミング、隙の作り方が抜群に上手い。
「あ、暗殺者ってのはこそこそ裏を取るのが上手いだけだと思っていた」
「死ぬ前に一つ賢くなれて良かったじゃないか」
会話の隙に腹部に突き刺さったままになっていたナイフを引き抜き、様子を伺う。余り時間はかけていられない。同じ場所に留まり続けるのはリスクが高過ぎる。
一瞬で覚悟を固めたアドルフは、
「今度はこちらから行くぞ」
死にかけた恐怖を振り払い、一気に駆ける。
今度は剣先を地面すれすれまで低く構え、振り上げる体勢を作っておく。向こうの対応を見て、こちらも即座に反応できるようにだ。
「…………」
無言で短刀を順手に構えなおした男は左手をアドルフから見えないよう、背後に回す。これも上手い手だ。これでアドルフは左手から飛び出す見えない武器にまで気を使う必要ができた。
しかし……
(私の剣を、片手で受けられるかな?)
神速。
鍛え抜かれた一筋の閃光は風どころか音すらも置き去りにして男を逆袈裟に斬りつける。
「ぐぅっ!」
そこで初めて男は苦悶の表情を浮かべた。剣を受けとめる短刀が振るえ、押し込まれる。
「はああああああああああああッ!」
その隙を千載一遇の機会と捉え、一気に踏み込むアドルフ。しかし男も打ち合った瞬間に押し負けることを悟っていたのか、剣閃を短刀の上で滑らせる。横合いに転がり、アドルフの一撃を回避した男の右手からダラダラと血が流れ地面に真っ赤なシミを作り上げる。
「ぐぅぅ……ゆ、指が……ッ」
「今度からは鍔もつけておくのだな」
己の手を情けない顔で見る男の指は……二本しかついていなかった。
残りの三本は取り落とした短刀と共にそこらに転がっているだろう。これで、勝負ありだ。
「悪いな。まだ私は死ぬわけにはいかないのだ」
「ッ! ま、待てッ!」
男の懇願虚しく、振るわれた剣は男の頭部を軽々と跳ね飛ばした。
「…………っ」
次の瞬間、不意に視界が揺れアドルフは自分が倒れこんだことに気付く。そして己の背中に感じる違和感にも。手を伸ばし、確認すると数本のクナイが背中に突き刺さっていた。先ほどの交差の隙に残した男の置き土産だ。刃にはたっぷりと毒が塗られていたことだろう。
「ぐ……っ」
不覚。
攻撃にばかり気を取られ、奴の左手に注意が足りなかった。
「が、はっ……こ、こんなところで、私は……」
死ねない。
続く言葉は口から出てこなかった。甘い痺れのような感覚が全身を満たしていく。今際の際で、アドルフの脳裏に浮かんだのは家族の姿。
(サラ……クリストフ……)
思えば後悔ばかりの人生だった。
何一つ、正しいことをできた自信がない。
あの時も、あの時も、あの時も……もっと自分に力があれば、救えたかもしれないのに。
(すまない……サラ。すまない……クリストフ)
不出来な自分を許して欲しい。
守りきることができなかった自分を許して欲しい。
そんな後悔と悔恨に包まれ、意識を闇に落としていくアドルフの背後に……
「……死なせませんよ。絶対に」
物語の鍵を握る一人の少女が姿を現した。




