「黒と白の少年」
『父さんみたいに誰かを守れるような人になりたい』
いつか俺が語ったその言葉。
クリストフ・ヴェールがまだ栗栖蓮だったころの話。俺という人間を形作る上でその根幹にあったものが何かと問われれば、俺は迷わず栗栖大吾の名前を挙げるだろう。
ぶっきらぼうで、愛想の悪かった彼はいつも回りに誤解されて生きていた。
善行に対して必ずしも善行が返ってくるわけではない。
そんな悟りめいた言葉を最初に俺に教えてくれたのは前世の父だった。いくら人の為を思って行動しても、それが必ずしも自分の利になるとは限らない。世知辛い世の中だと、父はよく愚痴を零していた。
けれど、そんな理不尽とも言うべき不遇に晒されようとも彼は決して己の生き方を変えようとはしなかった。それを不器用と呼ぶのか、頑固と呼ぶのかは俺には分からない。ただ、一つだけはっきりしていることは……
──俺はそんな父の生き方を、心から尊敬していたことだ。
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過去の残滓に思いを馳せていた俺はゆっくりとその瞼を持ち上げた。
黒と白の激突から、どれくらいの時間が経ったのだろうか。俺が意識を失っていたのはどれくらいの間だろう。数秒だろうか、数分だろうか、それとも数時間? まさか数日ということはないだろう。俺は霞む意識の中、はっきりとその姿を視認していた。
「ぜえ……ぜぇ……」
荒い息を吐き、吹き飛んだ左腕の傷口を手で押さえ出血を抑えているイザークの姿を。それだけの傷を負いながらも、決して倒れないイザークの姿を。
「…………ぐっ」
俺のほうもかなりのダメージが残っている。
衝撃の中心にあった俺の右腕はイザークの左腕と同じく、肘の辺りから吹き飛んでしまっていた。腹に開いた風穴も健在だ。ドロドロと流れだす血液が俺から刻一刻と寿命を奪い取っていく。
しかし、それでも……俺はまだ、生きていた。
「……ったく、しぶてぇヤロウだぜ全く」
ふらふらと、風に揺られる草花のようにその身体を揺らすイザークが苦々しい笑みと共にその言葉を吐き出した。
「殺しても死にやしねェ。どうやらオレの権能じゃァ、テメェを殺すことはできねぇみたいだな」
むかつくぜ、と最後に血反吐と共に悪態吐いたイザークはとうとう限界と言わんばかりにその膝を地面につけた。それでも彼なりの矜持なのか、最後の意地なのか決してその身体を地面に横たえようとはしない。
「し、しぶといのは……どっちだ……」
何とか搾り出した声は情けないほど掠れていた。
声だけではない。自分が今、両足で地面に立っていることすら不思議な状態だ。まさに満身創痍、死にかけもいいところだ。だが、それでも……
「……オレは……負けたのか……」
途切れ途切れになりながらその言葉を吐いたイザーク。
膝をつくイザークと、未だ立ち続ける俺。客観的に見て、イザークは己の敗北を悟ったのだろう。
「……正直、俺とお前に差なんてなかったよ」
「…………」
ゆっくりと独白を始める俺の言葉を、イザークは黙ったまま聞いていた。
「きっとお前も納得がいかなかったんだよな。お前の権能を受けてみれば分かるよ。俺も……同じ想いだったから」
奪われ続けた人生。
それが俺とイザークに共通する傷跡だった。
「同じ想いから派生した権能だからこそ、あそこまで拮抗していたんだと思うぜ。最後の一撃なんて特に」
「……だったらなんでオレが膝をついてる。なんでお前は立ち続けていられるンだよ……クリス」
俺の独白に始めてイザークが言葉を返した。
その言葉に俺はイザークへと視線を移し……絶句した。
「なんで……オレはいつまで経っても勝てねェんだよォ……ッ」
悔しげに、悔しげに、悔しげに、悔しげに、イザークは涙を流していた。
「これは運命なのか? オレはいつまで立っても奪われるだけなのか? オレはどうすれば……大切な人を守ることができるンだよォッ!」
それは慟哭だった。大切な人を失い続けた男の悲しい叫びだった。
「オレは前世をやり直すッ! そして、もう一度あいつ等を……家族を取り戻すンだよッ! もう二度と、絶対に奪われたりなんかしねェ!」
「……イザーク」
「全部オレのせいなんだッ! だからオレがやり直さなくちゃいけないんだよ! オレの罪は、オレの力で清算すべきなんだッ!」
転生者は皆等しく罪深い。
それはいつかの酒の席でイザークが語った言葉だ。
「罪……」
「あぁ、罪だよ。クリス。オレ達はいつだって自分の罪に追われてンだ。お前にもあるだろう? 前世で犯したどうしようもない罪ってやつがよ」
「それは……」
俺はイザークの言葉を否定しようとして、できなかった。
妹のことを……最愛の家族のことを思い出してしまったから。
「オレとお前に差がないというのなら教えてくれよ。何でお前は立ち上がれるッ!? 何でお前はそこまで強くなれた!? もともとお前は戦うような人間じゃなかったはずだろう!? オレと同じく、負け続けた人間だったはずだろうッ!?」
まるで藁にでも縋るような気持ちでいるのか、半ばやけを起こしたかのような声音でイザークは俺に問いかける。なぜ、お前はそこまで強くなれたのかと。
「……イザーク。俺とお前の違いを教えてやるよ」
「違い……だと?」
「ああ。小さな、決定的な違いって奴だ」
それはきっとイザークからしてみれば取るに足らないようなことなのかもしれない。思慮にも値しない、ゴミ屑当然のものなのかもしれない。だけど、それこそがきっと決定的な違いなのだ。そして、その違いとは……
「俺はな、イザーク。この世界が好きなんだよ」
この世界、ひいてはこの世界に住む人間達のこと。
それらは俺にとって、とても輝いて見えたのだ。
「確かに俺はこの世界で戦うことを強いられてきたさ。それに辛いことや悲しい事だってたくさん経験してきた。だけどさ、それでも俺はこの世界にこれてよかったって思ってる」
「……それが、違いだってのかよ……だが、それは……いずれ捨てるものだろう? 前世をやり直せば『この世界はなかったことになる』。だったらこの世界はただの前座にすぎねェ。そんなものに未練を残すのは無意味だ、違うか?」
「違わない。けど……俺にとっては違うんだよ、イザーク」
「……何を言っている?」
俺の言いたいことが本気で分かっていない様子のイザーク。そういえば俺はこいつにはっきりとした答えを残していなかったな。酒場でも、旅の途中でも、コイツはいつも俺が誰につくのか聞いてきた。そして、俺は毎回それに対して明確な答えを返さずにいたのだ。だから、こいつは見誤った。ただ、それだけのこと。
「俺はな、イザーク。もし代理戦争を勝ち抜いたとしても前世をやり直すつもりなんかないんだよ」
俺の告白に目を見張るイザーク。この答えは彼にとって予想だにしていないものだったのだろう。その証拠に、イザークは小さな声で反論を試みた。
「だが……それはおかしいだろう。だったら何でお前の女神はお前を転生者に選んだ? 勝ち抜きたいのなら前世に悔いを残した奴のほうが都合がいいはずだろう?」
「その辺は俺にも良く分からない。女神とはそんなに詳しい話もしてないしな。アイツが何を思って俺を転生者に選んだのかなんて知らないんだよ」
「……そんな、いや……だとしたら……」
未だ納得がいかないのか、イザークはブツブツと何事か呟いている。そして、
「お前は……クリスは前世に全く未練がないのか?」
最後にその質問を俺にぶつけてきた。
「お前の権能は明らかにオレと同じ、奪われ続けたものの祈りだ。なのに、オレと同じ仕打ちを受けて尚、前世に全く未練がないってのかよ?」
そんなことは有り得ない、と半ば確信めいた口調でイザークは俺に問いかける。そして、それに対する俺の答えは決まっていた。
「未練がないわけない。今だって俺はあの日のことを後悔している。妹を……鈴を救えなかったあの日のことを」
闘病生活に耐え切れず身投げした妹の姿を、俺は一生忘れることができないだろう。それこそいくら生まれ変わろうと、忘れることなんてできない。
「……鈴?」
「ああ、俺の妹の名前だよ。俺の救えなかった家族の名前だ。お前の言う罪ってのが俺にもあるのなら、俺の罪はまさにそれだ。俺は病に苦しむ妹から……逃げたんだ」
辛そうな妹の姿を見るのが辛かった。
悲しそうな妹の姿を見るのが悲しかった。
そしてそんな姿を見て、何もできない自分が悔しかった。
惨めな自分を隠したくて俺は妹から離れてしまった。誰が一番辛いのか、悲しいのかなんて……分かっていたのに。だからこれは俺の罪。自分本位な考え方しかできなかった俺の『傲慢』だ。
「……………………嘘だろ」
俺の独白を聞いて、イザークは呆けた顔で呟いた。それは誰に向けて放ったものでもない、思わず口から漏れ出た言葉だった。
「あり得ねェ……そんな偶然……」
明らかに狼狽した様子のイザーク。一体どうしたというのだろう。
俺がイザークに声をかけようとした、その瞬間……
「この……バカ共がッ!」
そんな絶叫を上げてこちらに駆け寄る姿があった。
「お前ら二人とも死ぬ気か!? 一体何をやっているのだッ!」
激しい怒りを隠そうともせずカナリアがイザークの元へと駆け寄った。
「くッ、さっさと治療するぞ! おい、ユーリ、ヴィタ手を貸せ!」
イザークの状態を非常に危険だと判断したのか、切羽詰った声で指示を送るカナリア。どうやら俺たちの意地の張り合いもここらが潮時のようだ。
「クリスもだ! 治療してやるからさっさと中へ戻れ! 話は全部その後だ!」
「……ああ」
正直、今にも倒れこんでしまいそうな状態だ。治療してもらえるというのならそれ以上のことはない。
「…………ッ」
戦いが終わった途端気が緩んだのか、俺はフラッ、と貧血でも起こしたかのように後ろ側に倒れこんでしまった。情けない、この程度の傷で。
地面への衝撃に身を固めるが俺の背中に伝わったのは固く冷たい地面の感触……ではなく、柔らかく温かい感触だった。
「……無茶しすぎ」
耳元に届く柔らかい声は愛しい人の声だった。
「……悪い」
俺は謝罪を口にしながらも自分から起き上がろうとはしなかった。体が動かなかったのもあるが、アネモネに支えてもらえているこの感触がとても心地よかったからだ。
いつまでもこうしていたくなるようなまどろみの中、アネモネの身体にいくらかの裂傷が刻まれていることに気付く。
「お前……戦ってくれたのか?」
俺の問いにアネモネはこくり、と頷くだけで答える。
俺とイザークの戦いに邪魔が入らないよう、カナリア達を抑えてくれていたのだろう。全く、最近のお前は気を使いすぎだっての。
「ありがとな、アネモネ」
「別に、構わない」
いつもの無表情でそう言ったアネモネ。こういったところは変わらないようだ。もう少し笑ったほうが可愛げあると思うぜ。わざわざ口には出さないけど。
「…………(ジトー)」
俺が内心失礼なことを考えていると、アネモネは非常に冷めた目つきで俺を見つめた。
ああ……そういえばアネモネは触れている相手の心が分かるんだった。
気付いたときにはもう遅い。俺の体からぱっ、と手を離したアネモネ。そうなると当然俺の体が重力に引かれ地面へと叩きつけられる。
ひぇぐッ、と変な声を出しながら地面に着地した俺はそのダメージで今度こそ限界が訪れたのか、そのまま闇の中へと意識を沈めていった。
今度からアネモネに触れるときは妙なことは考えないことにしよう。そう、心に決めて。




