「笑顔」
生とは何か。
俺はその意味を知らずに生きていた。
安然とした生活に、何の疑いもなく、自分が幸福であるだなんて気付くこともなく暮らしていた。人は失って初めてそのモノの大切さに気付く。全くその通り過ぎて笑うことすら出来やしない。
自分だけは、自分の周りの人間だけは死んだりしないだなんて、思い上がりも甚だしい。世界は……この異世界は、そこまで優しく出来てなどいない。
俺はそのことを、知らずに生きていた。
だから……これは俺の罪。
傲慢の原罪だ。
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窓から差し込む日の光に晒されて、俺の意識は覚醒した。
あまりにも重過ぎる意識に、何があったのかと思い出せば、そう。俺はあの戦場を離れてからすぐに意識を失ったのだった。ぷつりと電気が切れたようにその場に倒れこんだ俺が今こうしていい香りのするベッドに横たわっているのはなぜだろう?
疑問に導かれるように上体を起こした俺。
やはり疲労は色濃く残っているようでその動作だけでも億劫だった。鉛のように重い腕を持ち上げて額に押し付ける。少しだけ……熱があるようだ。
(かなり無茶したからな……ん?)
連戦に次ぐ連戦だったのだ。それも仕方がないと納得したところで、俺はベッドの掛け布団が妙に膨らんでいることに気が付いた。別に男の朝特有の局部的盛り上がりのことを言っているのではなく、その膨らみは俺の右隣、明らかに俺の体とは別の物体がそこにあることを示していた。
まさか……とは思いつつも、確かめずにはいられない。
ゆっくりと掛け布団をはがしたそこには──
「すー……すー……」
まるで自分の体を抱くように縮こまって眠る、アネモネの姿があった。
「…………」
まあ、俺だって別に人の布団に入り込んだくらいで怒ったりはしない。それが好意を寄せる相手となれば尚更だ。むしろ嬉しいと声を大にして言いたい!
しかし、しかしだ。
その相手が……マッパだとしたらどうだろう。
話は大違いだとは思わないだろうか?
「ん……朝?」
俺が内心の動揺を必死に鎮めていると、俺が身動きしたことでアネモネが目を覚ましてしまったようだった。もぞもぞと動き、眠たげな瞼を擦るアネモネ。
ああ……可愛いなあ。
って! そうじゃなく!
「おい、アネモネ。何でお前服着てないんだよ」
努めて冷静を装いつつ、嗜めるように注意を飛ばす。
「代えの服、持ってない」
「だったら最初着ていた服をそのまま着てれば良かったろうが」
「血まみれ」
ああ……そういえばそうか。
そこまで言われてようやく俺は納得した。
仕方の無い事情があったのならこれ以上文句を言うのも筋違いだろう。それに気絶した俺をここまで運んでくれたのはまず間違いなく彼女。だったらまずは感謝を言うのが道理というもの。
「ありがとな、アネモネ」
俺は礼を言ってから、つい、いつもエマにしていたようにアネモネの頭を撫でてしまっていた。撫でてから思い出したが、彼女は接触することを嫌う。俺は慌てて手を引っ込めようとしたが、
「……ん」
目を細めてわずかに頭を押し付けてくるアネモネ。
どうやらそこまで嫌と言うわけでもないらしい。
俺は何度か髪を梳くように頭を撫でてから、気になっていた事をアネモネに聞いてみた。
「そういや、ここどこだ? どこかの宿には見えないけれど」
周囲には人目で高級と分かる家具が配置されている。明らかに一般宿の水準を超える調度品に、俺はここがどこか気になっていたのだが……
「……クリスには悪いと思ったけれど、私には頼れる人は極端に少なかった」
「ん? 何の話だ?」
アネモネはまず、俺に申し訳なさそうな顔をして見せた。
その意味が分からなかった俺は首をかしげるしか出来なかったのだが、その謝罪の意味を直ぐに知ることになる。
まさに俺が疑問符を頭に掲げたその瞬間、キィ、と軽い音がして部屋の扉が開かれた。動物というものは音のした方向に振り向いてしまうという性質があるらしく、俺は気付けばそちらに視線を向けていた。
そして、入室してきたその人物と視線が合った瞬間に俺は全てを悟った。
なぜアネモネが謝ったのか。
そして、アネモネの言った『頼れる人が少ない』とはどういう意味だったのか。
つまりアネモネはぶっ倒れた俺を傍らに途方にくれていたのだ。そして、困ったときにどうするか。まず真っ先に思い浮かぶのが誰かに助けを求めるということ。
そして、アネモネはそうしたのだ。
アネモネの頼れる数少ない相手、つまり……
「久しぶりだな、クリス。我のことを覚えているかな?」
なんて、嫌味たっぷりの笑みを浮かべる女の子。
ああ……あの笑顔、間違いない。
ぶっっっっっっっっっっっっちぎりで怒っていらっしゃる。
「あ、ははは……嫌だなぁ、俺がお前のこと忘れるわけないじゃないか」
俺は大量の冷や汗を流して、必死に頭を回転させる。
どうすれば許してもらえるのか、どうすれば怒りを静めてもらえるのか、どうすれば死なずにすむのかを。
しかし、それら全ては結局無意味な思考だった。
思えば彼女が俺を許すはずがないのだから。
それだけのことを、俺は彼女にしてしまっている。
誰よりも真っ直ぐで、曲がったことが許せない彼女。そんな彼女を裏切ってしまった俺が、今更許しを乞おうなんて虫が良すぎる話だろう。
光のように真っ直ぐで、黄金のように輝く少女。
カナリア・トロイがそこにいた。
「それは光栄だ。てっきりクリスは我のことなどすっかり忘却の彼方へ消し飛ばしているものとばかり思っていたぞ。何せただの連絡の一つもなく姿を消されたのだからな。お前にとって我はその程度の取るに足らない存在だったと認識してたのだが……違ったのかな? うん?」
いつになく饒舌なカナリアはその顔に笑顔を貼り付け迫り来る。
笑ってはいるが……これほど怒った様子のカナリアを見るのは初めてのことだった。
「い、いやあ……俺もあの時はいっぱいいっぱいだったというか、皆に迷惑だけはかけられないなぁ、なんて思っていた訳で……」
「ほう! それは殊勝な心がけだな! しかし、おかしいなあ。それにしては困ったことが多過ぎたぞ? 上層部からは脱走兵を出したとしてグチグチと恨み言を授かり、棒給三ヶ月だ。これは迷惑の範囲には入らないのか? ん?」
「わ、悪かったよ。金なら返せる範囲で返すからさ……」
「金! いやいやいやいや、我は別に金銭的保証がして欲しい訳ではない。迷惑がかかったのもその点だけではないのでな。その程度の補填で許される程度の迷惑だったと思われては困る。迷惑だ。迷惑の上塗りだ」
おかしい……カナリアはこんなじわじわと追い詰めるタイプだっただろうか。女の腐ったような、とまでは言わないがこんな精神から追い詰めるようなやり方はカナリアらしくない。
いや、まあ俺が全面的に悪いのだけれど。
言い訳していても始まらない。
「お、俺はどうすればいいんだ」
精一杯の誠意を込めて、カナリアの要求を飲み込むつもりだった。
尋ねる俺に、カナリアは今日一番の笑顔を浮かべて答える。
「とりあえず……一発殴らせろ♪」
あ……やっぱり肉体も追い詰めるのね。
何となくいつものカナリアらしい台詞に安堵する俺に、
「この馬鹿者がぁぁぁぁぁああああああああああッ!」
カナリアが怒声と共に拳を振りぬいた。
昔の訓練を思い出す俺は吹き飛ばされながら意識を闇へと沈めていった。我らが隊長はここでパーを出してくれるほど、優しくはないのだ。




