《七日目》 金曜 黄昏 誘いの神
もはや噂はどうしようもないところまで広まっていた。
朝起きたら、父も母も何もしゃべらない。中学一年の弟も章子と顔を合わせる前にそそくさと家を出て登校していった。
「昨日、先生から電話があったぞ」
父親が睨むように章子に語り掛けてきた。
「なんて?」
「どこか変なところに外出しませんでしたか? ってな」
章子は少し吹き出しそうになっていた。
「で? わたしはどこか変なところに外出しましたか?」
父親はため息をついて首を振った。
「いや、どこにも行かずまっすぐ帰ってきたんだろう? おまえは」
「わかってるじゃない」
そして手を突き出す。
「携帯返してください」
父親はしぶしぶ茶棚から取り出した娘の携帯を章子に渡す。
「どうせくまなく見たんでしょ」
「当然だ」
「それで何か不審な電話かメールでもありました?」
「アプリもなかったな」
そこまで見たのかと章子はすこし感心した。
でも疑いが晴れたわけじゃない。
この分で行くと明日は外出を許してくれそうもないと章子は半ば絶望的に感じていた。
明日は花の土曜日だ。そんな羽目の外しそうな誘惑の日にこの堅物の親たちが疑惑の娘の外出を許すはずはない。
「どうしようか」
章子は真剣に悩んでいた。
一日中、そればかりを考えていたから、また学校では更なる不審を抱かせたに違いない。
だからか、帰り際に一人の男子生徒が章子を呼び止めた。
「よう、待てよ」
章子を呼び止めたのは一つ年上の幼馴染だった。
「なんだ、タっくんか」
「なんだはないだろ。なんだは」
小麦色によく焼けた肌が制服の袖から覗いている。幼馴染の渡瀬達也は一学期には運動部のエースだった三年生だ。
「いいの? 受験勉強は?」
「これからするよ。家で」
スポーツバッグを片手にひっさげて頭を掻く。
それから二人して校門を出た。家は向かい同士だから、どちらかが道を外れるということはない。
「それで? 何か聞きたいことでもあるの?」
正直に言って章子は面倒くさかったから単刀直入に聞いた。
「そういうのお前らしくないよな。何があったんだよ?」
章子は本当に面倒くさかった。
「援助交際はしてないよ」
「そりゃそうなんだろうけど、なんでそんなケンカ腰なんだ?」
章子はそんなやり取りもめんどくさくて本音を言った。
「余裕がないの! もうそんなタッくんと話してる余裕もないの! わかってよ!」
「なんでそんな余裕がないんだよ?」
章子は降ってわいた憤りに任せて口を開こうとしたが急にそこから先が出てこなかった。酷い徒労感が章子を襲っていた。
「もういい。それさえ話す余裕もないの……。ごめん、ごめんなさい」
大きく吸い込んだ肩を一気に落として章子はトボトボと歩いていく。
「好きなやつがいるのかっ?」
大声で幼馴染が聞いてきた。一生懸命な顔を章子に向けている。章子はそれですべてを悟っていた。
章子は疲れ果てたように静かに首を振った。
「いないよ」
しかし、そこで章子は思い直した。
「でも……気になってる子はいる」
「どんな奴? そいつ?」
章子はやはり首を振った。
「知らない……」
「は?」
「知らないの……」
「知らないって、そんなことあるかよ!」
詰め寄ろうとする幼馴染に章子は言った。
「教えてくれないんだ」
「誰が?」
「その子を紹介してくれる人」
「やっぱりエンコ—かよ!」
章子はそれを聞いてとても悲しい顔をするしかなかった。
「そんな顔……させるヤツなのかよ、そいつ」
章子はやはり黙っている。しかし。
「ね」
「なに?」
「内緒にしてくれる?」
「何を?」
「わたし今日、その人に会うの」
「……それで?」
「それで……明日、家出するの」
「お前っ ……それ、本気でっ?」
「だから、わたし、余裕、ないの……」
「家出……したいのか?」
章子は頷く。
「そいつと一緒に行くのか?」
章子は頷く。
「どうして……?」
金銭目的じゃないのはこの幼馴染にもよくわかっていた。
「あの惑星……」
章子は指を差す。
「あの惑星に行かないかって」
「言われたのか?」
章子は頷く、涙が自然と地面に落ちた。
「その子も来るんだって」
幼馴染の顔は見えなかったが茫然していることだけは分かる。
「わたし……その子に会いたい。どうしても……会いたいの」
「オレじゃダメなのか?」
章子は少し振るえたが、少し待ってからはっきりと頷いた。
それを認めて幼馴染も頷いた。
「そうか」
「ごめん」
「いい」
「ごめんなさい」
「いいよ」
そして章子に歩み寄る。
「余裕ないんだろ? ならまず歩くぞ」
章子は幼馴染の後についていく。
「いつ会うんだよ? そいつ」
「ここ」
章子は立ち止まる。
「ここできっと待ってる」
「そうか」
そこで幼馴染と別れた。幼馴染は何度か章子に振り向いたようだったが、章子は気にしなかった。
「彼はやっぱり君のことが気になるんだろうね」
「でしょうね」
突然自分の背後から現われたゴウベンに章子は生返事を返す。
「そんなことより、約束の一週間です。早く彼に会わせてください」
ゴウベンんは眉をひそめた。
「気が早いな。そんなにあわてなくてももう機会は目の前だというのに」
「だったら早く会わせて!」
ゴウベンはため息をつく。
「決めたのかい?」
章子は頷く。
「行きます」
「わかった。場所はまた追って知らせよう。今日はもう帰るといい」
「待ってください! それじゃ話と違います! 今日、今日教えてくれるって言ったじゃないですか!」
「そうだよ。今日の今夜だ。だから早く帰って眠るといい。その時に教えよう。微睡みに包まれた夢の中で君はきっと体験するだろう」
ゴウベンの姿が日暮れの迫った影の中に消えていく。
「君の向かうべき場所も、彼と会える場所も……」