《五日目》 水曜 午前 少女の中の少年
あの神、ゴウベンが章子の前から消えて以降、まだ会ってもいない少年の存在はあの惑星よりも大きく章子の心の中の大半を支配していた。
章子は昨晩寝る時から今朝起きた時も学校に登校する時も片時もブレルことなく少年のことばかりを考えていた。
昨日の帰り際の教師たちの叱咤も、両親たちの追及もどこ吹く風だった章子の心は常に自分の想像する少年像を思いめぐらすことだけに夢中になっていた。
もちろん、今日の授業の内容も何もかも章子の頭の中には入っていない。今の何もしらない大人たちの言葉よりも、ただ一人だけその少年の存在を知っている章子の心の中で、自分にとっての理想の少年像を思い描くことのほうが余程遥かに有意義に感じられた。
だから今、章子の目の前で必死に何かを語り掛けているクラスメートにも何も返事を返す気にもならなかった。
ただそこにいて、きっとそうだろう少年と同じこの学校生活をただその時まで無造作にやり過ごしていけばいい。
章子は虚ろな目でそう考えていた。
今この時も、まだ見ぬ少年は章子と同じように章子には知る由もない少年の通う中学校で章子と同じようにこのつまらない授業を受けているに違いない。
(わたしにはそんなの耐えられない)
誰ともあの惑星が現われてからのいろいろな出来事を話すことができないなど、今の章子には苦痛以外の何物でもなかった。
(なんでその子は耐えられるんだろう?)
顔をうつ伏せにしていた章子の横でふととある男子の声が耳に止まった。
「なんでそこで光より速いものが出てくるんだよ」
その言葉が耳に入った途端、章子はガバと起き上った。そしてすぐに声を発した男子に顔を向ける。
その声の主であるクラスメートの男子はいきなりの章子の形相に面喰っていた。
章子はその表情を見て<違う>と思った。この男子ではない。成績は章子より少し劣るぐらいの男子だ。しかし、その男子が章子を知って優等生だからといって神からの招待状を断固として固辞するとはとても考えられない。
章子の目に落胆の色が深く浮かんだ。
「違う……」
それだけ呟いて、追いかける友も振り払い、ふらついた足で教室を出た。
もはや、したい放題だ。
章子は自嘲した。
こんな自分を本当に連れていく価値などあるのだろうか?
「そう思いませんか? ねえ? 神さま……?」
そして他愛無く談笑して章子とすれ違っていく男子に目を止める。
(もしかしたらこの子かもしれない……)
今まで章子には自覚がなかったが、それこそ今朝から章子は自分とすれ違う同じ年頃の男子たちを手当たり次第に目で追いかけていた。まるで異性に飢えた獣のようにそれはそれはその男子たちの後姿をつぶさに凝視していたことだろう。
それを今更ながらに思い至った章子は一人呟く。
「だってしょうがないじゃないか……」
会えないのだ。とても会いたいと思っているその少年に会えないのだ。あんな非常識な力を持つ神様が会わせてくれないのだ。
「だったら自分で探すしかないじゃないか!」
吐き捨てるようにドアを勢いよく閉め、大声で叫んだ。ドアにもたれるようにしゃがみ込み、むせび泣き始める自分を止められない。
しかし、今度はしばらく気が済むまで泣きつかれてから、自分自身で涙をぬぐって立ち上がることができた。
(なんでこんなことに気づかなかったんだろう……)
いつもの章子には似合わない誰にも見せられない鼻水顔をぬぐって中へ進みはじめたのは学校の図書室だった。
章子はそこで目的の棚の前で立ち止まった。
「結構、いっぱいある」
その書棚は自然科学の棚だった。見れば宇宙の神秘だの、アインシュタインの小学生でも分かる相対性理論だのと謳った宇宙科学の本がズラリと並んでいる。
章子はそれを眺めながら思った。
(その子は光よりも速いものを知っているとあの神さまは言っていた……)
自分にはさっぱりわからないそれを、その見知らぬ彼は認識している。
(だったらせめて、その少年に追いつくだけ追いつきたい)
その中の一冊を手に取って、章子は誰もいない席の一つに着いて本を広げた。
学校の中間テストはもう来週の初めに迫っていた。しかし、今の章子にとってはこちらの方が余程重要だった。
彼との邂逅の日は中間テストの日取りよりもさらに差し迫っている。
(時間はないけどやれるだけやりたい)
章子にとって、今やそれだけが少年と章子を結ぶたった一つの繋がりであり、章子がこれからの日々を生き抜くための糧でもあった。