《三日目》 月曜 午前〜夕暮れ 神の目的
名古屋市立中央市中学校。駅西と呼ばれる名古屋の西部、まっ平な土地の続く平坦な街の中にあるその中学校の2のAの教室で章子は学級日誌をつけながら窓の外を時折眺めていた。
窓からはもうあの巨大な惑星の姿は見えない。あれは出現当時の最初だけで、その後は昼間でも薄くその小さい姿が肉眼で確認できるほどの大きさにまで縮小していた。
それでも休憩時間にもなれば誰もがふとあの惑星を見上げては仲間内の話題に挙げている。
その空気を横目に見て章子は、はぁとため息をついた。
中間テストまであと一週間を切ったのに教師にも生徒にもその緊張感がない。馬鹿正直にそれを学級日誌にしたためるのも気が引けていたが、土日の前の金曜日当日が本当に混沌とした内容になっていたので、その流れにのり、もはや躊躇もなくありのままを綴ることにして鉛筆を走らせていた。
やはり学校の中では気が付けば教師も生徒もあの惑星の話ばかりになっていた。どうやら昨日、一昨日と休日なのをいいことに、テストも目前に迫っているにも関わらず、あの謎の巨大惑星の特集を始めた名古屋の中心部にある名古屋市科学館に足を運んだ生徒が結構多数いたようだった。
聞くところによると、目玉の新型プラネタリウムであの巨大惑星を解説したイベントでは待ち時間が六時間に達したという。
今やこの学校も世間も空前の天文学ブームが巻き起こっていた。つい一週間前までは最低部員数さえ規定に届かなかった我が校の冴えない天文学部も今や入部希望者が殺到し、男子部員などはほんの少しだけ興味の覚えた多数の女子生徒たちに取り囲まれるなどちょっとしたモテ期に突入している。
しかし、章子はそのどれもから一歩、身を引いた場所から眺めていた。
今の章子の関心事はもう一度あの惑星を創っ張本人に会うことと、もう一人の少年に会うことでいっぱいだった。
昨日、一昨日と学校が土日で休みなのを意識してか、あの黒い人物が再び現れることはとうとうなかった。そして一体いつになったらまた会えるのだろうと思ってた矢先に再び出会ったのが、また学校から下校中の夕暮れ時だった。
「いい加減、警察を呼びますよ」
「面白いことを言うね」
男はやはり軽く笑って章子の鋭い視線を受け流していた。
また下校中に会うかもしれないと思い努めて一人で下校していたのが奏効したのか、ともかく男は章子の前に出現し、今こうして面と向かって会話していた。
「いろいろと私に聞きたいことが増えたんじゃないのかな?」
「あの惑星は何なんですか? 本当にあそこにあるんですか? 本当に重力はないんですか? 向こうにある文明社会ってどんなものなんですか? そしてあなたは一体何者なんですか?」
一度に捲し立てる章子にも男はやはり笑って答える。
「まだ名前も名乗っていなかったね。私の名はゴウベン。ヨスベル・ニタリエル・ゴウベン。世を統べるに足り得るという君たちの言葉をただ単に当てただけの名前だけどね」
どうでもいいことを言ってその男、ヨスベル・ニタリエル・ゴウベンはおどけて見せた。
「そういう言い方をしてると、とてもあの惑星を創った本人には見えないんですけどね」
「君にどう思われようと私は一向に構わないんだが、しかし結局あの惑星はあるだろう?」
「ありますよ。あるからみんな怖がって、でも無視もできなくて、憧れて……」
「もうそろそろ、君たちの世界は向こうの世界にアプローチするだろうね」
そうだ。昨日あたりから章子たちの現実世界は電波などを使ってあちらの世界にこっちの惑星社会のことを伝えようとしている。
「しかしこれから先、向こうからの返事は一切来ないだろうね」
ゴウベンはさも当然のことのように断言する。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「向こうはもう自分たちの出てきた時間軸が分かっているからだよ。星座標さ。自分たちのもといた時代の星の位置と今の星の位置で現在の時間軸を測る。彼らはもう気づいている。今が一体いつの時代かということにね」
「時代? 時代ってことはあの惑星は本当は過去の時代からやってきたということですか?」
章子の疑問に男は答える。
「そうだよ。正確には遥か古代にこの地球で栄えては滅んだ文明世界だ。それをすべて記録してあの新しく作った惑星の上に肉付けして呼び起こしたのがあの惑星世界だ」
「そんな……」
やはり章子にはこの男の言ってることがわからない。
「それって一体いつぐらい昔の時代なんですか?」
「二十六億年ほど前かな」
「そんな昔に高度な文明社会があったなんで聞いたことがありません」
ゴウベンはそれはそうだろうという顔をする。
「今より八億年から五億年ほど前かな。その期間に地球内の地核から地殻外部、地上全域、気候、大気圏に至るまで全ての地球構造はほぼ完全に書き換えられてるからね。君たちの科学解析程度ではそれ以前の本当の地球学的史実なんてかけらも覘くことはできないだろう」
この男の語るスケールは章子の想像の遥か上をいっている。
「あなたが……それを書き換えたんですか?」
この男ならできるはずだ。あの地球よりもはるかに巨大な惑星をいとも簡単に創ったこの男ならこんな小さな地球の地層から何からに至るまで全てを書き換えることなど造作もないように章子は思える。
しかし意外にもゴウベンはまさかという顔をした。
「私はしないよ。彼らさ。彼らが人為的にやったんだ」
ゴウベンは虚ろな目で物思い深げに言う。
「でないと……彼らの時代の地球はもたなかったからね。ただ、それもただの時間稼ぎにしかならなかった。私が今このタイミングであの惑星を呼んだのには二つのわけがある。
一つは君の他にもう一人呼ぶそのの子が思春期とはいえ人格的に適応な段階にまで成長したこと。もう一つはこの地球がその時間稼ぎのタイムリミットを迎えつつあるということだ」
ゴウベンがそう言い終わった時に章子の足元で微かに大地が揺れ動いた。
「地震……」
「そう。最近、君たちの近くで地殻変動が多いだろう? それもこの予兆のひとつだ。この惑星は彼らの時間稼ぎに仕込んだ仕掛けの限界に来ている。しかしそれは別にすぐというわけではない」
ゴウベンは章子に付け足す。
「短く見積もってもあと数十万年の猶予はある。その間に君たちの文明は存在してるかどうかも怪しいだろう? しかし向こうにとっては数十万年という時間は決して長いものではない。君たちの社会と違って向こうの文明世界は億単位で栄えているからね。彼らにとってはすぐに明日の出来事になる可能性がある。だから今のうちに呼んだんだよ。彼らをね」
「その人たちがこの地球を救ってくれる?」
ゴウベンは首を傾げた。
「それはどうだろうね。私の用意したあの惑星はとくに問題らしい問題も起こらないようにしておいた。彼らは彼らで安全な向こうから危険になったこの惑星を他人事のように眺めてるだけかもしれないね」
「そんな、そんなことって」
「ただ」と最後にゴウベンは付け加える。
「そうなるかどうかは彼次第になるだろう」
ゴウベンは遠くを眺めるように東の方角を見る。
「彼って、わたしの他に行くもう一人の子のことですか?」
ゴウベンは頷く。
「その子にもこの話を?」
「いや」
ゴウベンは首を横に振る。
「しかし、彼はおおよその見当がついてるだろう。もちろん向こうの文明水準もね」
「向こうの文明水準……」
「君にはわかるかい? 向こうの文明水準が」
今度は章子が首を横に振った。
「だろうね。しかしこの世界でただ一人、彼だけが気付いている。向こうの科学水準がどれだけ自分たちとかけ離れているかをね」
「なんでその子は、そんなことが分かるんですか?」
ゴウベンはさあ、と言ってとぼけて見せる。
「少なくとも彼は、君たちとは違って『光より速いもの』を明確に知識として予測し認識しているからね」
「光より速いもの?」
ゴウベンは頷く。
「君たちにはわからないだろう? 光よりも速いものが」
「光よりも速いものなんて存在しません!」
章子は断言するが、ゴウベンの方もまた断言する。
「いや、光より速いものは存在する。ただそれを認識する器官が君たちにはまだ未発達なのだから仕方がない。しかし、向こうの彼らは気づいている。自分たちが一体どうやってこの世界に現われたのか、その科学的根拠をね」
「それって、一体どういう……」
「ヒントをあげよう。私があの惑星を出現させた時、あの惑星はその創造の瞬間に光の速度を大幅に超えている。でないとあの惑星を創造できないんだよ。光の速度を超えなければすぐに雑多な空間法則に掴って惑星召喚を正常に完遂できない」
「それは……」
「もう一つ付け加えるとね。君たちの知る限りの理論では、光が一秒間に進む距離以上に巨大な物体がこの世界に存在できることを説明することはできないんだよ」
それは衝撃的な一言だった。
「でないと光の速度より巨大な物体はすでに光の速度を超えて存在していることになるからね」
光の速度より巨大な物体はすでにその存在自体が光速を超えている。
この男は章子にそう言っていた。
「彼はそのことに気づいてる。そして彼はその答えに自力でたどり着いた。君のように私に教えられることもなくね」
ゴウベンは言う。
「彼はね。向こうにとっても稀有な少年なんだよ。だから私は、君よりも率先して彼を向こうに連れていきたいんだ」
それは神の告白にも等しい決意の言葉だった。