《約束の日》 土曜 午前2 少女と少年
「お互い着替えとか何も持ってないね」
章子は砂丘の斜面に座る少年の隣に腰を下ろした。ゴウベンは一人章子たちから離れたところで波打ち際から海を見つめている。
「やっと話ができた」
少年は膝を抱えて蹲っていた。
「えっと……ごめんなさい……きみの名前、教えてくれる?」
「……半野木、半野木……昇」
「わたしの名前は咲川章子。これからよろしくね」
笑って話しかけるが昇からは何の返事もない。章子は自分から見ても多少は可愛い部類だと思っていたのでこの反応は結構傷ついていた。
「わたし、ずっと話したかったんだけどなあ。きみと」
わざとらしく聞こえるように呟いた。それでも少年からは何の反応も帰ってこなかった。
「この一週間ずっと待ってたのに……。あの人、君のこと何も話してくれなかったもの」
章子はちらと少年を見る。
「話をしてどうしようっての?」
少年がやっと顔を上げ水平線を遠目に見て言った。決して章子と目を合わせようとはしない。
「だって話したいじゃない? あの惑星のこととか、それを創った神様みたいな人の話とか」
「そんなものかな……」
少年は頬杖をついていた。
「ね?」
「なに?」
「光より速いものって何?」
章子は身を乗りだして聞いてみた。少年は少し考えて答える。
「魔法だよ」
「え?」
「光より速いものは魔法なんだよ」
「それって誤魔化してる?」
しかし少年の目はいたって真面目だった。
「向こうに行ってみれば分かるよ。多分、向こうの科学レベルは魔法の域まで行ってる」
「科学が魔法?」
「ああ、そこからの認識なのか」
少年はやれやれといった感じで空を仰いだ。
「魔法っていうのはね科学のその先の科学、超科学の行きつく先なんだよ」
少し章子は唖然とした顔になる。
「どういうこと?」
少年はすこし苦笑していた。
「説明するより向こうへ行って見た方が早い。科学の先にあるのが魔法だっていうことがよくわかる」
章子はまだ釈然としない顔をする。
「ほんとに?」
「わかった。じゃあもっと難しくなるけど僕たちの言葉で言います」
章子は息を呑んだ。
「位置エネルギーだよ」
「は?」
「光より速いものは複数あるんだけどその中で割かし君たち……えっと」
「咲川、咲川章子!」
「咲川さんたちにも分かりやすいのは引力、そして引力より速いものが位置エネルギーなんだ」
「位置エネルギーって、あの位置エネルギー?」
「そう理科で習うあの位置エネルギー」
「それが光より速いの?」
少年はため息をついた。
「たぶん、これが一番わかりやすい説明だと思うけど。銀河系の端と端に同時に天体が現われたらたぶんその位置エネルギーは一瞬で繋がってつり合ってるよ」
「でも位置エネルギーって自己完結のエネルギーなんじゃないの?」
これは章子の学校の理科教師が言っていた言葉だ。
「違う。位置エネルギーは相互作用エネルギーだ。これにはやっぱり銀河系の自転速度問題が一番わかりやすいだろうね。聞いたことない? 銀河の真ん中と端とで自転速度が同じだって」
章子は頷く。
「これが暗黒物質や暗黒エネルギーの影響だって言ってるけどそれは違う。ただ単なる位置エネルギーの相互作用ってだけの話だよ」
「暗黒エネルギーが位置エネルギー?」
「まあ見えないからね」
少年は頷く。
「位置エネルギーは速い。そして引力とは違い物と物との距離が天文学的に離れていれば離れているほど強い固定力を指し示す力だ。逆に言えば近ければ近いほどその力は弱い。つまり速いけど弱い。多分、太陽系ぐらいの直径距離じゃあ重力よりもニュートリノよりも各段に弱い。でも速いんだ。だから銀河の端から端までも一瞬で伝わる。そして重力の届かない距離でも位置エネルギーだけは届いている。光よりも引力よりもはるかに弱い力だけどその距離に開きがあればあるほど確実に強く届いているんだ。
これは人間の今の観測だけでは絶対にわからない。それでも、暗黒エネルギーや暗黒物質の予測分布図と星の数・位置に位置エネルギーとして斜線を繋ぎ合わせた図を照らし合わせればつり合いは取れてるはずだ」
「そんなバカなこと」
「自分でもバカな考えだと思うよ。でもそれ以外に考えられない。そしてそう考えてたら、あの神さまが目の前に現れた」
少年は神・ゴウベンを見る。
「これは完全な中二の妄想だよ。でもその子供の度外れた妄想に神は直々に喰いついたんだ。これは恐らく宇宙の深淵に近い」
章子は呆れたように少年を見る。
「そんなこと信じられない」
「信じなくてもいいけど、ついでにこれも言っておこうか」
少年は立ち上がって言った。
「咲川さんは重い物と軽い物を同時に落としたらどっちが早く落ちると思う?」
それは理科で最近習ったから知っていた。
「どっちも同じでしょ」
しかし少年は首を振って立ったまま足元から小石を一つ拾い上げる。
「重い方だよ。重い方が早く落ちる」
「そんなっ……、だって」
「じゃあ、この石を地球と月で落としたらどっちが早く落ちるでしょうか?」
「え?」
「地球と月で落としたらどっちが早い?」
「そりゃ、地球じゃないの?」
「じゃあそれはなぜなのか?」
「なぜって月は地球よりも重力が軽い……あっ」
「そう地球の重力の六分の一、そこまでいって初めて目に見えて落下加速度の違いが顕著になる」
問題は何を落とすかではなかった。何処で落とすかだったのだ。
「まさか」
「最初に重い方が早く落ちるって言った奴は実は正しかったのさ。でもその直感は見かけだけでも成立してしまったら実証されたと認定してしまう施設外での実験成果で押しつぶされてしまった。でもこんなことは遅かれ早かれ誰かが気付いたことさ。あの……誰だっけ? 重力を発見した人……」
「それって万有引力を発見したニュートン? アイザック・ニュートンのこと?」
「そう、そのニュートンやアインシュタインがアポロ11号の月面歩行の映像を見ていれば、こんなことはすぐに気が付いたはずさ。月より重い地球の方が早く落ちるってね」
章子はやはり呆れている。
「よくそんなこと考えられるね」
「よくそんなに教科書のことを鵜呑みにできるよ」
少女と少年ではやはり決定的な差がここにはあった。