《約束の日》 土曜 午前 少女は少年と出会う
章子はそこにいた。
海の匂いがする。聴こえてくる波の音。砂浜の感触。そして遠くに見える水平線。
ここがどこだか章子には分かった。
そこで章子は目を覚ました。時刻は七時。
その時刻を見てあわてて章子は飛び起きた。自分の意に反して章子はぐっすり眠ってしまっていたのだ。
すぐに着替えて部屋を出る。一階の洗面所と二階の自室を行き来し身支度を整えた。
外出する言い訳は考えてあった。
達也から昨晩「オレをダシにしていいぞ」とメールがあったのだ。
「タッくんと待ち合わせしてるから」
それだけ言えば両親には通用していた。父も母も何も言わず昔から知っている向かいの渡瀬家の長男なら安心だと思ってるのだろう。
外出許可はすんなりと下りた。
とうとう付き合いだしたかとでも言いたげに父親などは何度もうんうんと頷いている。
「もう行くの?」
キッチンから顔を出して母親の声が聞こえてきた。
「うん、もう行く」
「帰りは何時?」
エプロンに手を包みながら玄関まで顔を出す母親に章子は一瞬狼狽する。
「買い物に付き合ってもらうから、少し遅くなるかも。一応またメールする」
それが母親との最後に交わした言葉だった。
「いってきます」
家の玄関に出てもう一度自分の家を見る。
「ごめんなさい。お母さん。お父さん。みんな」
そして家を出ると向かいで達也が待っていた。
「お待たせ」
章子が言うと達也もおう、と返す。
達也と二人で近くの大通りから市電に乗り名古屋駅に向かう。
「荷物、何もいらないんだな」
章子の手ぶらな様子を見て、達也は口を開く。
章子もそれに頷いた。
どうやら手荷物は何もいらないようだった。夢の中にいた章子はただ制服姿でそこに立っていただけなので、きっと何もいらないのだろう。
「本当にそれで向こうに行くのか?」
その質問には章子も頷くしかない。
「いつまで向こうにいるんだよ?」
章子は夢の中で感じた感覚からこの旅がだいたいどれくらいかかるのか、見当はついていた。
「たぶん一年ぐらい」
「じゃあ帰ってきた時はお互い高一と中三になってるな」
章子は頷いた。
「なら一年まってるわ。それまで元気に行ってこいよ」
「お父さんとお母さんには」
「わかってるって。今日だけは適当にごまかしておく。だけど、そのあとはちゃんと言うからな」
章子は頷いた。
「ありがとう」
「いいって。その代わり、そいつによろしくな」
達也はどこかそっぽを向いて章子に言った
章子はただ笑って頷いた。
それから名駅前で達也と別れ、新幹線のホームから新幹線に乗った。
目指したのは隣県の地方都市だ。夢の中と同じ駅名で降りて章子はバスに乗った。
バスに乗れば目的地はもう目の前だった。
その目的地とは西から東まで海岸線のずっと続く松原だった。その松原の奥に砂丘があり。
きっとその砂丘の先に件の二人が待っている。
章子がバスの停留所に降りると足元には松原の入り口から砂丘の砂がそこまで飛んできていた。
「今年は行ってなかったな」
海なんて久しぶりだった。今年の夏は海に一度も行かなかったことを章子は改めて思い出す。
一歩を踏み出して松林の入り口を通り抜けると目の前には広大な砂丘が広がっていた。
そこは人っ子一人いない静かな所だった。
しかしそこに一つ、一人分の歩いた足跡が砂丘の先に続いているのを見つけると章子の鼓動がドクンと一つ高鳴った。
(いる……)
やっと会える。
そう思うと章子は知らず知らずに砂丘を急いで歩いた。
砂丘を越えると外洋から吹き抜ける強い風を受けて見えた先は水平線の広がる大海原だった。
太平洋だ。 高い波が波打ち際にまで押し寄せている。
その波打ち際に二人がいた。
一人は昨日も会ったゴウベン。そしてその面と向かっているのが……。
「おーい! おーい!」
章子は思わず手を振っていた。
その章子のがむしゃらな様子に気づいて二人が振り向くのが分かった。
振り向いた一人は笑っていた。
そして肝心のもう一人は何か、酷く嫌なものでも見つけたかのように顔を歪めている。
しかし章子は構わず二人のもとへ駆け寄った。
「おはようございます。ゴウベン」
「待っていたよ。咲川章子くん」
互いに挨拶を済ませ、これで役者が揃ったことを確認する。
しかし、他のもう一人だけは何か苦いものをかみつぶしているような表情をしていた。
「はじめまして。咲川章子といいます。これからよろしくお願いします!」
快活に自己紹介をして手を差し伸べるが少年はやはり怪訝な顔をしている。
「どういうことですか? ゴウベン」
章子を視線で指し制服姿の少年が言った。
「君と一緒に行くもう一人の子だよ」
「聞いてません」
「それは当然だ。今言ったからね」
言われた少年はすごい形相で神を睨む。
「僕ひとりだけって言いましたよね?」
「言ったよ。男は君一人だけだとね」
少年の顔がさらに険しくなった。だが応酬はそれだけで少年はゴウベンを睨むと砂丘の出口の方へと歩き始めていく。
「帰りの電車賃まで持ってきたのかい? 用意周到なことだ」
神は惚けて見せるが少年は意に介さない。
「まって!」
慌てて少年の手を章子は掴んだ。
「ここまで来たのに帰るなんて……」
「じゃあ君だけで行ってくればいい。僕と一緒なんかよりもよっぽどその方が気が楽だろう」
「わ、わたしバカなんだ。だから……」
「そんな子を連れてくんですか! ゴウベンッ!」
怒気を孕んだ声で少年は言う。
「光より速いものを知ってるんだよね?」
少年は掴む章子の手に渋面をつくりながら黙っている。
「女の子一人で行かせるのかい?」
見かねたゴウベンの言葉だが、それには少年も言い返す。
「もう一人男を呼べばいいでしょう。あなたならできるはずだ。ですよね、ゴウベン?」
「できるよ。だけどそれをしてはやらないな。君以外では向こうでは役不足だ」
ゴウベンはやさしく見つめて説いかける。
「しかも……私にも君は必要ときている」
それは神が人間に対して斯う懇願だった。
「時間をあげよう。それまで少し頭を冷やさないか?」
少年は視線を下げた。辛うじてここに一時の休息が設けられることになった。