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旅の疲れのせいか、エピオルが目覚めたのは夕方だった。
やらなきゃいけない事が山積みなのに、思いっ切り寝坊した!
慌ててタンスから服を引き摺り出し、屋根裏に隠してある鍵を使って家中のドアと窓を開放する。
タタキとホウキで目に付く埃を家から追い出した後、水桶を持って井戸に走った。
村人達が久しぶりに見るエピオルに声を掛けて来るが、時間の無いエピオルは簡単な挨拶でそれを避ける。
井戸で水桶を洗い、エピオルでも持てる量の水を入れて家に帰った。
そして家の水瓶に水を注ごうとして動きを止める。
「うわ、虫が沸いてる!気持ち悪!あー、もぅ。水瓶も洗わなきゃいけないのかー」
空っぽに見えた水瓶の底には少量の水が残っていて、長時間放置したせいで変な虫の住処になってしまっていた。
エピオルの背では底に手が届かないので、水瓶を横に倒して中身を台所の床に撒いた。
水瓶はそのまま転がして家の外に出し、太陽の光で消毒する。
太陽の強さは自分の肌で理解しているので、冬の夕方でもそれなりに効果は有るだろう。
そして水浸しになった台所の床は、虫と埃をモップで掃き出しながら片付けた。
台所がある程度綺麗になったら、次はリビングの掃除。
飲み水の分を水桶から鍋に移し入れ、残りで雑巾掛けをする。
そうして無心で掃除に励んでいると、世界が段々と暗くなって行く。
夜が訪れてしまったのだ。
「洗濯、出来なかったな」
呟き、寝室の床に落としたままにしてあった旅の服を手に取った。
着ていた時は気付かなかったが、他人の物だったら触れないくらいに臭くてボロボロだったので、思い切って捨てる事にした。
掃除洗濯は母の真似をすれば何とかなる。
実際なっている。
だが、裁縫はそうはいかない。
服の綻びは教わらなければ直せないのだ。
汚れた服をゴミ箱の横に丸めて置き、掃除道具を片付ける。
「はぁ」
一息吐いてリビングのソファーに座る。
火の気が無いのにリビングは明るい。
窓を閉め忘れていた。
だから月の光が容赦無く入り込んで来ている。
「……窓、閉めないとなぁ」
滅茶苦茶寒いが、一度座ったら立ち上がるのが面倒臭い。
座ったまま手を伸ばしてみても、ソファーの位置からでは窓に届かない。
その手に青白い光が当たり、床に影が落ちている。
満月に近いのか、満月を過ぎたのか、満月なのか。
とにかく、今夜は雪を降らす雲が無い。
「ワン、ワン」
手を犬に見立て、影絵で遊ぶ。
「おかーさん。お腹空いたよ。おかーさぁん」
遊んでいても、望めば食事が出て来る。
それが当然だった。
だが、もう夕御飯は出て来ない。
母は帰って来られなかったから。
「……ちくしょう……。ちくしょう。ちくしょう!ちくっ!」
汚い言葉を使うなと母に言われていた事を思い出し、つい口から出てしまった単語を呑み込むエピオル。
だが押さえようもない怒りが身体全体を震わせ、噛み締めた歯が耳障りな音を立てる。
今の自分の顔は化け物の様だろうな、と冷静に考えてみても、人間に対する憎しみが消えない。
母の遺言は人間を憎むなだった。
しかし憎くて憎くて仕方が無い。
気持ちを落ち着かせようとソファーに寝転がって悶えていると、右手にクッションが当った。
お客様用のクッション。
それを両手で抱え、立ち上がるエピオル。
「ガァァーー!」
エピオルはクッションを引き千切った。
自分でも驚く程の咆哮と共に。
宙を舞う羽毛を被りながら次のクッションに手を掛けた瞬間、玄関のドアがノックされた。
クッションを床に落とし、玄関に向う。
「おかえり、エピオル。お腹空いたでしょ?これ食べて」
野生の獣の様に警戒しながら玄関ドアを開けると、布の掛かったお盆とランプを持ったミンナがそこに居た。
「あ、うん。ただいま」
普通に接してくれる友人に毒気を抜かれ、普通に返事をするエピオル。
予測していなかった状況に頭の中を真っ白にしているエピオルは、押し付けられるままにお盆を受け取る。
「火種、居る?」
ランプを掲げるミンナ。
その光でエピオルの頬を濡らす涙が輝いた。
「竈の準備がまだだから、今度で良いよ。明日、準備する」
「そっか。じゃあさ、明日の午後、本を読みに来て良いかな?火種を持って。その時までに準備が整ってなかったら、私も手伝うよ」
お盆を傾けない様に気を付けながら、片手でミンナに抱き付くエピオル。
人の温もり。
この子は生きている。
そして、優しい。
「うん。ありがとう」
ミンナの肩に顔を埋め、頷くエピオル。
しかしすぐに離れ、小さく手を振る。
「また、明日、ね」
「また明日。おやすみ、エピオル」
ランプを揺らしながら帰って行くミンナを見送った後、リビングのソファーに座るエピオル。
お盆の布を取ると、サンドイッチと小さな水筒が乗っていた。
水筒の中は暖かいお茶だった。
「美味しい……」
フワフワのパンと潰されたゆで卵がエピオルの緊張を解いて行く。
湯気立つお茶が五臓六腑に染み渡る感触に酔うエピオルの目に写る、引き裂かれたクッション。
「……ミンナじゃなかったら殺したかも知れない……。……喰べてたかも知れない……。人間が、憎かったから……」
教会の奴等と同じ事をしそうになった自分を恥じながらサンドイッチを味わうエピオル。
今後はしっかりと自分を保ち、ちゃんと料理された物を食べる事にしよう。
食べ終わり、白い息を吐いて落ち着いたエピオルは、夜をどう過ごそうかと考えた。
人形で遊ぶ気にはなれない。
月光で本を読むのも良いが、寒いので風邪を引いてしまうかも。
だから窓を閉めて寝る事にした。
数時間前に目覚めたばかりだから眠れないかも知れないが、太陽が登らないと何も出来ない。
あ、水瓶、庭に出しっ放しだ。
「ヘックシュン」
エピオルは羽毛に鼻を擽られながらベッドに入った。
今日は自分のベッドに入った。




