8. ICU コード・ブルー
コード・ブルーというのは、危篤状態に陥った患者が出た時に発されるコードです。
ICU は日本でいうところの集中治療室の事だと思います。
さて、今日はどこで働くのかな、と思ってナースステーションに顔を出すと、今日はICUらしい。
ということで、まず休憩室に荷物を置いてから、ICUにあるナースステーションに行く。
「おはよ、チカ。今日はうちの手伝いなんだ。」
笑顔で迎えてくれたのは、夜勤のジェニー。
「おはよ。忙しかったの?」
「ぜ~んぜん。ラッキーだったよね。チカもラッキーかも。だって、今日は患者が12人しかいないから。」
ICUには24の病室があるから、その半分しか埋まってないってことになる。確かにラッキーかも。
「で、重体患者ばっかりってこと、ないんでしょ?」
「ん~、そうだね。2人ベントをつけてるけど、多分そのうちの1人は今朝のうちに取り外すことができるんじゃないかな? もう一人は・・・どうだろ。まだ意識が戻ってないから判らないよね。」
ベント(Ventilatorの略)っていうのは呼吸補助機とでも言えばいいんだろうか? 自力で呼吸して酸素を取り込めない人の口から肺に太い管を通して、ベンティレーターが呼吸の補助をしてくれる。ある程度意識が戻らないと取り外さない。意識が戻ったとしても、体の機能が自己呼吸できるところまで回復してないこともあるから。
「そっか。ま、あたし達にはどうしようもないからね。」
そういいつつ、周囲を見回せば、患者が12人しかいないっていうのにあたしと同じシフトで入っているナースの数が多い。ベントをつけてる患者は特に目を離せないから、どうしてもつきっきりになりやすい。そうなるとほかの患者にまで手が回らないから、ほかの患者のためにもナースの数を増やすしかない。
そうしているうちに今日の患者のリストが配られた。
そこに書いてあるのは、患者の名前、性別、年齢、病状、担当医、その他基本的な情報が乗っている、個人情報を除いて。
それぞれの患者の欄の余白に、さらに医療的に世話をするために必要な情報が書かれている。
一般病棟や外科病棟といったところでは、朝それぞれのシフト同士で録音されているテープを使ってミーティングで患者の情報を交換するんだけど、ここではそんなことをしている時間がないから、こうやってその日の主任看護士が一足先にきて、先の主任看護士と別室でミーティングをして、その情報が満載した患者のリストをもらう。それをもらってから、看護士達はそれぞれが担当することになる患者を夜の間担当していた看護士と話をして、それまでの経過や状況を把握することになってる。
あたしも、夜勤のCNAのジェニーからそこに載ってないことで知っておいた方がいいだろうっていう情報をもらう。
「ん~っと、3号室はジョーンズさん。彼は奥さんが泊まっててたいていのことは奥さんがしてくれるから、夜中でも特に何何度も呼ばれる事はなかったかな? それから7号室はボウエンさんだけど、この人はおもらしするからベッドをこまめにチェックしなくっちゃいけないわよ。一応屎尿瓶を使うってことにはなってるんだけど、大抵は忘れてるし、たまに憶えて使ってもどうも溢しちゃってるみたいだから。後は・・・そうそう、15号室のブライアンさんは94歳なんだけど、ちょっとぼけちゃってるみたいで、ベッドから抜け出そうとするから気をつけないとね。」
「ベッドアラームはつけてないの?」
「つけてる、もちろん。でも、94歳なのにベッドから起き上がるのが早くって・・・・アラームが鳴ってすぐに行かないと間に合わない。何度ベッド脇に立っていたのを見つけたことか・・・」
ほとほと困ったと言いたげに、は~っと大きなため息を吐くジェニーに思わず笑ってしまう。
「笑いことじゃないんだからね、チカ。昼間の方が起きてるだろうから、ベッドから抜け出ようってすること、多くなると思うよ。」
うっ、それは確かにまずい。笑ってる場合じゃないかも。
「しっかりしたナースが担当になってくれることを祈るしかないね。」
「ま、だから一応ナースステーションの真ん前の病室にしてあるんだけど・・・それでも一晩に5回起き上がってたかな? トイレに行くんだっていって起きてくるのよ。」
「そうなの? でも、ここにフォリィーって書いてあるけど?」
ブライアンさんの名前の欄を見るとちゃんとフォリィー(多分日本語で尿道カテーテルっていうんだっけか)って書いてある。フォリィーをつけてるから小便のために起き上がる必要はない筈なんだけど・・・・
「知ってる。でも、覚えてないんだもん。毎回起き上がるたびに言ってるんだけど、それでもすぐに忘れちゃうみたいで・・・参っちゃった。トイレに行きたいっていう彼に、フォリィーがあるから、そのまますればいいって言うんだけど、それじゃ駄目だって言ってきかないんだよね。」
「ん~、ま、仕方ないよ、94歳だもん。」
って、何が仕方ないのか判らないけど、とりあえずそう言っておく。
ジェニーもそれが判ってるのか苦笑を浮かべて、残りの患者さんのことを話してくれた。
とりあえず、今すぐにどうこうなるっていうような患者がいないことにホッとして、帰って行くジェニーに手を振る。
さ、仕事を始めよう。
とにかく仕事は山ほどある。
ICUはナースの数が多い分、大抵の場合CNAは1人だけ。
だから、基本的にはナースが殆どの世話をすることになってる。それで人手が必要な時にあたしに手助けを要請する筈、なんだけど・・・・実際はナースは医療方面での世話が忙しいから、どうしてもあたしがする仕事が増えてきてしまう。食事が来ると、患者さんがちゃんと起きて食べているか確認して歩いて、その中で食事の介助の必要な人には手を貸してあげる。それから今度はベッドのシーツ交換や清拭の介助。あとはシモの世話もあるし。それに、動かないといけない患者さんは、一日に何度かICUの通路を歩くからその補助もしないといけない。
今日の事件はそんな一日の、夕食を配り終えて少しは落ち着いてきたかな、と言った頃にいきなり起きた。
それぞれの病室の必需品を確認して部屋を覗いて回っていると後ろポケットにいれてある電話が鳴った。
あわてて表示を見ると、ジェシカから。
「チカ、悪いけど、18号室のジェニングスさんをベッドに戻す手伝いしてくれない?」
「オーケー。」
「待ってるからすぐにきてね。」
「はいはい。」
ポケットに電話を突っ込んでから、18号室に歩き出す。
ここではお医者さんや他のスタッフ達との連絡が緻密にとれるようにと、1人1人院内専用の携帯電話を持たされている。といっても普通の携帯電話じゃなくって、ポケベル兼用のようなもの。他のナースと電話で連絡を取り合うだけじゃなくって、担当の病室の患者がボタンを押して助けを呼んだら、その電話にベルが鳴るようになっている。
といっても、それはナースの電話だけで、あたしの電話には患者の呼び出しは鳴らないようになってる。っていうかこのフロアの患者全員のベルが鳴ると、さすがに返事しきれないから、ここでは鳴らないだけで、他のセクションでこのシステムを使っているところへ行けば、ICUみたいに全員の患者を持たされることもないから、あたしの電話も鳴るように設定されてしまう。
とはいえ、患者がナースコールを押すと、そのベルがナースステーションで鳴り続けるから、
ナースが応答しない時は代わりにナースステーションの子機を使って応対をすることになるから、結局は忙しいことには変わりはないんだけどね。
それでも今のところは結構スムーズに1日が進んでいて、今のところ仕事は順調に運んでいた。
今電話で言われたジェニングスさんは、1時間ほど前に夕食のためにベッドから椅子に移した患者さんのこと。パーキンソン氏病がかなり進んでいて、介助なしでは震えを止めることのできない体ではベッドから出ることもできない。けれど手助けさえすれば、自分の体重を支えて立ち上がることもできる。
今日は息子のお嫁さんが夕食の手伝いをしてくれていた。ジェニングスさんの奥さんは、今日は家でいろいろとする事があるらしくって、それを済ませてから彼の夕食が終わった頃にここに来ると聞いている。
「おまたせ。」
「大丈夫、待ってないから。」
「よく言うよ、すぐに来いって言ったくせに。」
いつものように、のりのいいジェシカのジョークにあわせてると、ジェニングスさんが笑ってる。その横で義理の娘も笑ってる。
「じゃ、ジェニングスさん、ベッドに戻りますよ。立ち上がる準備はいいですか?」
あたしが入り口に設置されているビニール製の手袋をはめて準備できたのを横目に、ジェシカがそう声をかける。
それをみて、ジェニングスさんの義理の娘が立ち上がった。
「ここにいたら邪魔になりますね。外に出てましょうか?」
「別にそこにいたままでいいですよ。ベッドに戻すのにそんなに時間はかからないから。」
「でも、いないほうが楽じゃないですか?」
「大丈夫。ジェニングスさんが出て行けといわない限りはここにいていいですよ。」
彼の義理の娘さんはとてもいい人で、あたし達の邪魔にならないようにって気を使ってくれる。
とりあえずテーブルや点滴のポールが邪魔にならないように動かして、それから彼が座っている椅子をベッドの近くまで動かす。ジェニングスさんがどのくらいしっかりと立つことが出来るか判らないから一応安全のために少しでもけががないようにとの配慮のため。
「立ち上がったらピボットでターンして、そのままベッドの縁に腰を下ろしましょうね。」
患者の右に立ち位置を決めたジェシカがそう声をかけてる間に、あたしも左側に立ち位置を決める。変なポジションをとってしまって、患者が倒れたりした時に一緒になって倒れたり体を変にひねるようなことをしちゃうと、プロとして恥ずかしい。
「じゃ、1、2の3で立ち上がる手助けしますよ。はい、1、2、3っ。」
ジェシカのかけ声にあわせて、一緒に力を込めてジェニングスさんが立ち上がるのを手伝う。
ジェニングスさんは身長が6フィート2インチ(約185センチ)あるとかで、立ち上がると彼よりも30センチくらい低いあたしはまるで大人と子供のよう。それでもたちあがるて助けくらいはできる。
自分の足で立ち上がったジェニングスさんの、途端にブルブルと震える体を両方から支えて彼がバランスを崩さないようにゆっくりとベッドの方に移動を始める。
と、それまで震えながらも笑顔を浮かべていたジェニングスさんの呼吸が変わった。
「ミスター・ジェニングズ?」
不審に思ったジェシカが声を掛けるけど、返事もなくそのまま彼の足から力が抜けていくみたいに、腕に掛かっている彼の体重が一気に重さを加えてきた。
「しっかり立って。あと少し。」
「頑張って! 大丈夫、立てるから。」
ジェシカと二人掛かりで声をかけるけど、彼からは何の反応もなく、そのままその場に崩れ折れそうになるのを必死にジェシカと二人でベッドより位置が近い、先刻まで彼が座っていた椅子に座らせる。それもなんとかギリギリ端っこにだから、今度は彼が椅子から滑り落ちないように気を付けなくちゃいけない。
「ミスター・ジェニングズ、大丈夫?」
そう声をかけて彼を見下ろすと、顔色が真っ白。
それに息をしてないような気がする。
「誰かっ! 手を貸してっ!」
ジェニングスさんを支えているジェシカをその場に残して、あたしはすぐにドアの前からナースステーションに向かって声を上げた。
「すぐ来てっ!」
ナースでもないあたしにはできない事ばかりだから、ここはナース達に来てもらうしかない。
あたしの声に反応してすぐに3人の看護士が部屋に飛び込んでくる。
「チカ、クラッシュ・カートを取って来い!」
「コード・ブルー!!」
最初に飛び込んできたアランが、中の様子を見て取ってすぐにあたしにそう指示する。
コード・ブルー。
それを聞いて、ステーションにいたロビンがすぐに館内放送で、コードブルーを伝える。
あたしは返事を返しながら既に部屋から走り出している。
赤いクラッシュ・カートはナースステーションの隅っこにおかれてるから、それを押して部屋に戻る。
室内はさっきよりもナースの数が増えていて、3人掛かりでジェニングスさんをベッドに寝かしているところだった。
ジェニングスさんの口から何かが出てきているのを見て、あたしは吸引のためのチューブ、その他の備品をとりにサプライ・ルームに走る。
ところが、サプライ・ルームは今日、中をいろいろと配置換えしたばかりで、肝心の探しているものがすぐに見つからない。
早く早くと焦りながら、端から端まで目を走らせて、やっと必要なものを見つけて、また走ってしまう。
本当は走っちゃいけないんだけど、今は1秒でも時間が惜しいから、あとでお叱りは受け入れるつもり。
そうやって部屋に戻って、すでに人工呼吸を始めているナースをよそに、邪魔にならないようにサクションをセットアップする。これを用意しておけば、もしジェニングスさんののどが詰まったとしても、すぐに吸引する用意はできている。
ミスター・ジェニングスの部屋の中にはコード・ブルーをかけたことで飛んできたERのドクターをはじめ、いつのまにかERやその他の全てのセクションから集まってきたナースたちが、蘇生のために一生懸命手を尽くしている。
コード・ブルーの時は、病院に常駐しているドクターとしてERのドクターが先頭に立って、そこにいるみんなに指示を出している。
なのであたしが手助けをする必要もないくらいのナースがいろいろなセクションから集まってきているのをみてとってから、あたしは部屋の外へ出た。
ナースでないあたしには出来ることが限られていて、見た感じではあたしに出来ることはない。なら邪魔にならないようにと気を遣って外に出ることが、今のあたしに出来ること。
その代わり、今ここでジェニングスさんを助けるために頑張っているほかのナースの代わりに、ナース・コールに応える。
そうやって小一時間くらい忙しく他の患者の世話をしていると、ナースたちがジェニングスさんの部屋から出てくるのがみえた。
どうなったんだろう。
「チカ。」
覗きにいっていいものかどうか悩んでいたら、そんなあたしに気づいたのかジェシカが声を掛けてきた。
「悪いけど、手伝ってくれる?」
「あっ、はい。ジェシカ?」
名前を呼ぶ事で、あたしの聞きたいことが判ったんだろう。そんなあたしにジェシカは小さく頭を横に振ることで応えてくれた。
それで、あぁ、駄目だったんだなって判った。
それから2人で黙々と作業を始めた。
ジェシカに言われるままジェニングスさんの最後の清拭を済ませているところに、彼の奥さんがやってきた。
何が起きたのか知ってるみたい。多分義理の娘さんから連絡があったんだろう。
「朝から・・・早く来いって何度も電話してきてたのに・・・・雑用なんかほっといて、言われたまま来れば良かった――」
言葉が詰まって、そのまま泣いてしまうミセス・ジェニングスに返す言葉が見つからない。
それでもただ聞いてもらうだけでもいいのか、そのまま涙ながらに今朝ジェニングスさんから電話があった事、その時にランチくらいの時間に来いと言われた事、それでも雑用が溜まっていたから夕食が終わった頃に行くと言った事、ランチのあとにもう一度電話があって、その時にすぐに来いと言う彼に同じ返事をまた返した事、そんなことをポツリポツリ涙に声を詰まらせながら、彼女は口にした。
「あの時判ったって言っていれば・・・そうしたら・・・」
涙に暮れる彼女の肩をそっと抱き寄せて、ポンポンと軽く叩く。
こんな時、もっとちゃんと英語が話せたら、って思う。
ううん、言葉だけだったらそれほど不自由なく話せる。でも、こんな時になんと言えばいいのか、単語が頭に思い浮かばなくて、なんて慰めていいのか判らない。
それでも多分、あたしの気持ちは伝わったんだろう。
彼女はポンポンと叩くあたしの手にそっと自分の手を合わせてきて、ありがとうと言ってくれた。
それから部屋の外で待っていた息子夫婦の許へ歩いていく彼女を見送った。