7.AC スペリング・ビー
ACは普通病棟のことです。
スペリング・ビーというのは、英語の単語のスペルを言えるかどうかのコンテストの名称です。小学校から学校、地区、州、そして全国へと進み、アメリカ1の単語のスペルが出来る子を選ぶコンテストのことです。
「チカ、今日はここ。」
オハヨーと声を掛けたあたしに、フロントデスクに座っていたステーシーがそう言ってくる。
ここって事は、普通病棟でのお仕事ってことか。
「何人くらいいるの、今日?」
「あ~、っと、15人かな?」
そっか、って事は多分CNAは2人。1人7-8人ってところだったら、そんなに大変じゃないかも。
そんなことを思いつつ、ブレイク・ルームに入ると、そこにはすでに3人のナースと2人のCNA。
あれ?
既に2人のCNAがいるって事は、あたしはいなくてもいいんじゃないのかな? それとも15人を3人のCNAでケアするってこと?
だったらちょっとラクチンかも。
何て甘いことを思いつつ、今日のチャージ・ナースの手許にある予定表を見ると・・・
あたしの名前の横には 1:1と書かれてる。
ってことは、またサイキ? でも、それにしては部屋がステーションから遠いんだけど。
普通サイキ患者だと、出来るだけナースステーションから近い部屋を割り当てることになってる。そうすることでいざという時にすばやく対処が出来るから。
なのに、予定表の部屋を見ると一番遠いって訳じゃないけど、それでも近いわけでもない。
そんな思いが顔に出てたのかもしれない。顔を上げた今日のチャージ・ナースのキムが悪戯っぽく笑いながらおはようと言ってきた。
「チカはワン・オン・ワンだけど、サイキじゃなくって、痴呆患者さんの面倒を見ることなの。特に昨日の夕方手術をして、いまはCBIの最中だからね。ドクター・スコットの要請で、くれぐれも患者がフォリィーを抜かないように目を光らせているのが仕事。よろしくね。」
ドクター・スコットは排尿理科の先生でCBIとはContinuous Bladder Irrigation 、つまり術後の膀胱の洗浄の事。1時間に2-3リットルの水を使って洗浄を続けるのでかなりの違和感があるらしく、術後の患者は麻酔が半分効いているせいか、無意識に取り除こうとするらしい。大体は12-24時間の洗浄をする。
なので、ドクター・スコットはそれをしている間は家族か病院のスタッフを部屋に詰めさせる事が多い。
特に痴呆の入っちゃってる患者だと余計に気が抜けない。なんせすぐに忘れてフォリィーを抜こうとするから。
そうじゃなくても術後の痛みがあるのに、もし万が一フォリィーを引き抜いたりしたら、更なる痛みで大変な事はいわれなくても想像がついてしまう。フォリィーの先端には小さな風船のように膨れる部分があって、挿入後そこに10ccくらいの水をいれて抜けないようにするんだけど、無理矢理引き抜くって事はその風船が萎まない状態だから、当然大きすぎてその部分が裂けたり無理矢理開かされるからそのせいでかなりの痛みと出血を伴う。
以前、ドクター・スコットの患者じゃないけど痴呆の入った患者が無理矢理引き抜いて、出血が止まらなくなったのを見ているだけに、考えただけでこっちまで痛くなってくる気がする。
ま、ワン・オン・ワンということはレポートに参加しなくてもいいってことだから、とりあえずこのまま病室へ行こうっと。
「オハヨ、チカ」
そう声を掛けてきたのは、エドナ。あれ? 彼女はICUのCNAなんだけどな。
「なんでここにいるの?」
おはようと返すのもそこそこに、思わず疑問を口にする。
「うち、そんなに患者がいなかったのよ。だから、出張してきたってこと。」
「いいじゃない。ICUがヒマって事は、重病人がいないって事でしょ?」
「まぁね。でも、昨日コードったみたいだけどね。」
「えっ、そうなんだ。」
コードしたっていうことは、コード・ブルーが発令したってこと。このコード・ブルーっていうのは、心臓停止などの本当に緊急の状態に陥った患者に対して発令される。特に夜はICUには医者は常駐してないから、ERに常駐している医者やその他の手の空いている看護師たちが病院の各フロアから飛んでくる。
彼らがやって来るまではそのフロアのナースたちはCPRをして、とにかく蘇生するべく努力をする。
ただ、その確率はそれほど高くないのが現実だけど・・・・
「それで、大丈夫だったの?」
「判んない、だってわたしはここにいたからね。あとで一度ICUに顔を出してから帰るつもりだから、その時にでも聞いてみるつもりではいるんだけど。」
「そっか。」
無事に蘇生できてるといいんだけど。
そう思いつつも、エドナが早く家に帰れるように、彼女と患者の情報交換をする。
「彼はミスター・ヘッド。73歳。もう知ってると思うけど痴呆がはいってる。だから、フォリィーがあるってことも忘れてて、トイレに行こうとするから気をつけてね。それから、フォリィーのチューブを引っ張ったりするから、それにも気をつけるようにしないと、万が一のことがあるとヤバイよ。」
それは知ってる、あたしだって。ドクター・スコットは腕のいい先生なんだけど、なにぶん短気だからなぁ・・・・もし患者がフォリィーを抜かないまでも引っ張って出血でもしたら、絶対に怒鳴られる事が目に見えてるもの。
彼がナース達を怒鳴っているのをみたのも1度や2度じゃない。今のところあたしは怒鳴られたことはないものの、それを見ているだけで絶対に気をつけようって思うものね。
ふとベッドの端に引っ掛けられているフォリーバッグに目をやると、中に溜まっているのは透明なピンク色の液体。
「結構キレイじゃない。」
「そうね、わたしがここに来たばっかりの頃は結構濃い赤だったんだけど、この2-3時間でかなり色がおちついてきたみたい。多分巡回に来たときに洗浄水の量を減らすんじゃない?」
「そうだったら、楽になるんだけどね。」
なんせ1時間に2-3リットルの洗浄水をいれているんだから、3リットルのフォリーバッグはあっという間に一杯になるのはいわれなくても判る。とはいえ、もっと多い量の洗浄水を流している時は、その下に10リットルの入れ物を置いて、そこに溜まるようにしている。そうでもしないと、とてもじゃないけどおいつかないから。
ベッドに目を向けると患者であるミスター・ヘッドはまだ寝ている。
ま、とりあえず朝食が運ばれてくるまでは寝かせておこう。
朝食を機に、眠っていたミスター・ヘッドを起こしたまではいい。それから濡らした手ぬぐいを渡して顔と手を拭かせて、その間に朝食をセットする。
それから食べ始めたのを見届けてから、あたしはまた椅子に座って手にしていた本に目をやった。
だけど、半分くらい朝食を食べたミスター・ヘッドが不意にあたしの存在に気がついた。
『君、どこから来たの?』と聞かれたときが、これの始まりのサインだった。
「日本からです。」
「ここで生まれたの? それとも日本?」
「日本で生まれ育って、それからここにきました。」
ふぅん、とビスケットにグレービーを掛けながら、なにやら考えるようにあたしの顔を見る。
「英語、読み書きできる?」
「あぁ~、まぁ、一応。」
きっと、この言い方が悪かったんだと思う。
一応何て言わないで、読み書き問題なしって言い切ればよかった。
だけど、そこで出てくるのは日本人気質で、やっぱり謙遜して言っちゃうんだよね・・・
それにこの時は彼の言う読み書きがどの程度のことを指しているのか、見当がつかなかったし。
ここ、アメリカに住んでかなり長いけど、それでも自慢じゃないけど英語には自信はない。大体アメリカに住みつくつもりでアメリカに来た訳じゃなかったし、元々英語は苦手だったから。
それに何と言っても日本語アクセントがしっかりとあって、そのせいで何度も聞き直されるなんて事、ざらだし。
そう応えたあたしの顔をじっと見つめながら、ミスター・ヘッドは何かを考えてますといった感じの思案顔を見せる。
「じゃあ、スペルのチェックをしようか。」
「は?」
「僕がこれからいう単語のスペルを言ってくれるかな?」
これは一体・・・
「まずは簡単なものがいいな。じゃエッグ」
「・・・イー・ジー・ジー。EGG」
「よし、あってる。次はベーコン」
目の前に並んでいる朝食のトレイの中にある食べ物を見ながら言ってるみたいで。
と言うか・・・・スペリング・ビーをやられているのか、あたしは?
スペリング・ビーって言うのは、スペルの競技会のこと。学年を問わないで町単位、州単位、それから国単位で行われて、全国大会なんて、テレビでやるくらい盛んな競技会だ。
ルールは簡単。試験官がいう単語のスペルを間違わないで言えるかどうか。中には一体なんという意味なんだろうとあたしが思うような単語もあって、なかなか侮れない競技だと思う。
とはいえ、なんであたしがここでそれをしなくっちゃいけないんだろう・・・・
ほとほと呆れながらも、それでも患者相手に嫌だとはいえなくて、しぶしぶながらも付き合う。
と言っても、ちょっとボケが入っちゃてるせいか、自分が何をしているかなんてすぐに忘れちゃうみたいで、スペリング・ビーをしてたな、と思った先に今度は朝食を食べるのに一生懸命になって黙り込んじゃうし、そうかと思えばどうも違和感があるのかフォリィーを触りだす。
「それ、触っちゃ駄目ですよ~。」
「なんかここに刺さってるぞ?」
「刺さってるんじゃなくって、いれてるんです。ほら、昨日手術をしたでしょ? そのための洗浄をしてるんだから、それに触ったら、ドクターに叱られちゃいますよ。」
大きな洗浄液の入った袋がぶら下がっているのを指差してみるもののその方向に目を向けることはなく、どうしても股間がきになるようで、彼の気をそらすことはなかなかに難しい。
それでも時々思い出したように、テレビを見たり、スペリング・ビーを始めたり・・・
なかなか長い一日になりそうな予感がしてきた。
「英語は喋れるのか?」
また始まった・・・
今日何度目になるか、考えたくもない質問をされて、それでもにっこりと笑って日本人だと答えないといけない。
先刻まで1時間ほど眠っていて、その間に少しだけのんびりとさせてもらえていた。出来ればこのまま勤務時間が終わるまで、何て思っていたけど、さすがにそこまで甘くはなかったみたい。
「よし、じゃあスペルチェックをしよう。」
そう言って始まったスペリング・ビー。これも今日何度目なんだろう。
「次はオートモービル(車)。判るかい?」
「エー・ユー・ティー・オー・エム・オー・ビー・アイ・エル・イー。Automobile」
「あれ、間違ってるよ。」
「えっっ?」
違ってないと思うんだけどな。
「ほら、一緒に言ってみようか。」
いや、別に一緒に言わなくてもいいんだけど・・・・
とは思うものの、そうはいえなくて、仕方なく声を揃える。
「「エー・ユー・ティー・オー・エム・オー・ビー・アイ・エル・イー。Automobile」」
「ほら、合ってたでしょ?」
「そうか? 違ってた気がしたんだけどね。」
おかしいなと言う表情で、ちょっと頭を傾げているその仕種が、ホントにおかしいなと思ってる様子で、思わず笑ってしまった。
たかがスペルくらいで、そんなに真剣に考えなくてもいいのに、と思ってしまう。
トントン
と、ドアを叩く音がした。
あたしは椅子から立ち上がって、開くドアから入ってくる人を確認する。
入ってきたのはミスターヘッドとそう年の変わらない年配の男性。
「フィルは起きてるかい?」
「あっ、はい。どうぞ入ってください。」
ニコニコしながら入ってきたその男性に向かって軽く挨拶をしてから、ミスター・ヘッドを振り返る。
「お客様ですよ。」
「調子はどうだい、フィル?」
片手をあげて挨拶をしながら入ってきた彼を、ミスター・ヘッドはじっと見ている。
どうやら知ってるような気はするがいまひとつ思い出せないといった感じ。
「俺のこと、判るかい?」
「・・・知ってる気がする」
ちょっと考えて、それでも思い出せないみたいで、そんな彼に苦笑しながら握手をするために片手を差し出した。
「ウェインだよ。ほら、いつも一緒につるんでいただろう?」
「ウェイン?」
「そうだ、ジョシーから入院してるって聞いてびっくりしたよ。」
ウェインと名乗った彼に椅子を勧めて、あたしはベッドの反対側にある元々座っていた椅子に腰を下ろす。
2人が話している間はフォリィーの心配をしなくても大丈夫かも、そう思って持ち込んでいたモバイルでチャートをする。なんせ起きちゃうとすぐに股間に手を伸ばして引っ張ったり抜こうとしたりするから、なかなか気が抜けない。
先刻、彼が寝ている間に殆どのチャートは済ませたけど、まだ少し残っているから。
あとでヴァイタル・サインをチェックしないといけないけど、まだ少しそれまで時間がある。
なんて思いつつミスター・ヘッドに目をやるとどうやら眠ってしまったようで。
「あれ、寝ちゃいました?」
「ああ、このまま寝かせてやればいいさ。起きたら、少しは思い出してくれるかもしれないし。」
「付き合い、長いんですか?」
「40年くらいかな。一緒に仕事をしていたんだ。こいつがジョシーと知り合うよりも前だよ。」
懐かしそうに目を細めて言うウェインさん。
「君はどこから来たんだい?」
どうも、みんなあたしがどこから来たのか、気になるらしい。
というか、聞かれないことのほうが珍しいくらい。特にこんな田舎には日本人なんていないみたいで、今まであったことはないから、きっと見た事のないアジア人とでも思って聞いてくるんだろう。
「日本からです。」
「日本人なんて、珍しいね。こっちで生まれたんじゃないのかい?」
「いいえ、生まれも育ちも日本です。そうですね。あたしも見た事ないですから、きっとこの町には日本人はあたししかいないかもしれませんね。」
ま、こんな小さな田舎町に住むような日本人、いないと思うし。っていうか、仕事をしているこの町はあたしが住んでいる町よりは大きいんだけど、実際あたしが住んでる町は人口500人なんていう、見た事もなかったほどの小さな町だから。
「上手に英語を話してるね。」
うんうんと頷きながらそう言ってくれるウェインさん。
「そうですか? そんな事ないと思いますけどね。日本語アクセントがあるから。」
「いやいや、そんなことない。もっとアクセントの強い英語も聞いたことあるからね。君の英語は判りやすい方だと思うよ。」
「でも、ミスター・ヘッドはそう思ってないみたいですよ? つい先刻までスペリング・ビーをやらされてましたから。」
「ワハハッッ。そりゃ、彼がスペリング・ビーが好きだから、だよ。いつもは孫たち相手にやってるんだ。」
「そうなんですか?」
どうも私が外国人だったから、じゃないらしい。
「スペリング・ビーが好きでね。思い出せない単語があると、すぐに辞書で調べてたよ。だから、俺もスペルが思い出せない時はいつもフィルに聞いていたものだ。」
豪快に笑いながら、ウェインさんはミスター・ヘッドの孫の誰がいつも一緒になってやっていたとか、仕事中は辞書で調べられないから、スペルの事で口論になったこともあるとか。話を聞いていると、本当にスペリングが好きなんだなって思えてくる。
「まぁ、面倒を掛けるかもしれないがみてやってくれ。」
そう言って、もう一度眠っているミスター・ヘッドを見下ろしてから、ウェインさんは帰っていった。
出て行ったウェインさんを座ったまま見送ってから、あたしは眠っているミスター・ヘッドに視線を向ける。
そっか、そんなにスペリング・ビーが好きなのか。
あたしの勤務時間は12時間。ってことは、まだあと5時間はここにいなくちゃいけない。そう思うと、ちょっとだけ溜め息が漏れた。
その5時間の間に、一体何回スペリング・ビーをやられるんだろう?
っていうか、どこから来たかとか、そう言った事もおそらく覚えてないだろうから、それもまた聞かれるんだろうな。
なかなか先の長い一日を思うと、やっぱり溜め息しか出なかった。
アメリカ人、スペルのできない人が意外と多くて、日本人のあたしにこれってスペルどうだっけ? なんて平気で聞いてきます。それも簡単な単語を含めて・・・
そんな事あたしに聞かないでよ〜って言っても、チカの方が単語よく知ってるから、だって。それってアメリカ人的にどうかと思うんだけど・・・・(苦笑)