6.OB ドラッグ中毒
OBは産科のことです。
「チカ、今日はOBね。」
おはようと挨拶をするあたしに、トレイシーがにこやかにそう言った。
そっか、今日はOBなんだ。OBというのはObstetricalの略で、産科、産婦人科を指す。あたしの住んでいる町は小さいから、この両方が一つのセクションに入っている。
このセクションにはあたしのような看護士の助手はいない。仕事の内容が内容なだけに、ちゃんとした資格を持った看護師が患者の世話をする。けれど誕生した新生児の数が多い時や、婦人科の患者の人数が多い時は、こうやってエイドが派遣される。
だから、あたしは今日はどちらが多いんだろう、何てのんきなことを思いながらOBのブレイクルーム(休憩室)へと向かった。
毎朝、シフト交代の前にブレイクルームでリポートが行われる。この時に患者の状態や、医者の指示、それに前日までの状況の情報交換が行われる。これをちゃんと聞いておかないと、ミスを犯しやすくなっちゃう。特にOBでは看護婦が、出産のために一旦患者の部屋に入ってしまうと、それ以上質問があっても聞けなくなってしまうから、余計な手間を煩わせないためにも、これはちゃんとしておかないといけない。
「今日は、ママとベビーが4人づつ、婦人科の入院患者が2人、それからこれから出産予定者が3人入院してます。」
と、まずは全体の人数の報告を夜勤ナースのシンディが始める。
いつもより多い人数だ。道理であたしがここに回された筈だ、なんてのんきなことを思ってる間もレポートは続く。
「15号室のジョーンズ・ママとベビー、17号室のヘイリー・ママとベビーは午前中退院の予定です。20号室のソマー・ママとベビーは夕方の予定です。ドクターの検診によって多少の変更はあるかもしれませんが、テストの結果はどのベビーも良好なので、多分予定通りになると思います。」
日本が何日くらい入院しているのか知らないけど、アメリカでは出産後24時間を経過し、ベビーの容態さえ安定していれば家に帰ることができる。けれど、未熟児だったり、ベビーの容態が安定していない時は、母子共に、またはベビーだけ入院することになる。
「12号室のヒラリーさんは、子宮全摘出の手術を昨日受けたので、あと2日は入院予定です。14号室のウィルソンさんは、今日はCTスキャンと、X-レイ(レントゲン)、それからラブのテストが入ってるので、NPOです。」
NPOっていうのはNothing Pass Oralの略で、テストのための絶食、つまりは飲食無しのこと。こういった患者の部屋の前にはNPOと言うサインが出されている。
ラブのテストっていうのは、血液や排出物の検査のこと。それらが行われるのが実験室だから、それらのテストはまとめてそう呼ばれてる。
「それから、今日の出産予定ですが、1号室のダインさんのレイバーが先刻始まりました。多分あと1-2時間くらいで出産が終わると思います。」
レイバーは、分娩のこと。デリバリーとも言うらしいけど、ここではもっぱらレイバーという単語を使う。
まぁ、確かに出産は労働であるんだろう。(英語で労働のことをレイバーといいます)
「2号室のベイヤーさん、4号室のドルリーさんは、まだ強い陣痛は起きてないようですが、おそらく二人とも今日中の出産になるのではと思われます。」
と、それに対する患者の状況が報告される。陣痛の間隔やその他の分娩を促す要素を説明、それからそれぞれの担当医への連絡など、話はドンドンと続く。
「それから、20号室のソマーさんのことなんですが。」
それまで冗談を織り交ぜながら報告をしていた夜勤の看護婦の口調が、深刻なものに変わったのに気付いて、室内の全員の目が彼女に向いた。
「出産前日のドラッグテストの結果がポジティブ(陽性)でした。担当医にその結果報告のあと、彼からの要請により機関に報告を入れました。退院予定時間が夕方の4時前後ですが、その2時間前に機関から担当者がやってくることになってます。ですから、ソマーさん本人、それに家族にはこの事は口にしないで下さい。ベビーはそのまま母親から引き取られ、担当者によって施設に連れて行かれることになってます。」
出産を控えて病院にやって来た妊婦さんは、血液検査と尿検査を受けることになっている。それによって、最後の検診からの体調からの変化を確認するためなんだけど、この時にドラッグテストもすることになってる。これは保健所からの要請で、生まれてくる子供の安全のため。たまにドラッグテストが陽性反応を示す妊婦さんはいるけど、大抵はマリワナ反応。これだと罰金その他がつくこともあるけど、だからと言って機関から担当者なんていうのが出てくる事はない。
なのに、今回は担当者が出てくることになっている。
という事は、この妊婦さんから出た陽性反応がもっと強いドラッグの使用結果と言うことになる。
一体、どんなドラッグを使っていたんだろう?
使っていたドラッグの種類によっては、新生児に与える影響がもろに反映してしまうものもあるから。
「ソマーさんの退院前に担当者との2者会談があります。それから、担当者が到着次第、ソマーさんのベビーは保育室の方に保護することになってますので、ソマーさんがベビーとの面会を頼んできても、何らかの理由をつけて断ってください。」
「彼女の担当医は、ドクター・マックギルですよね? ドクターは担当者との会談には参加されないんですか?」
日勤の今日のチャージナースである、リサが話が途切れるのを待ってそう聞いてきた。
「ドクター・マックギルの参加は必要なし、と機関から言ってきたそうです。その代わり警察の方から警官が2人、2者会談のあとでする事情聴取のためにやってくるそうです。彼らは事情聴取を終えたらそのままベビー輸送の警護を兼ねて、担当者と一緒に施設の方に向かう予定になってます。」
「まぁ、ねぇ・・・確かにドラッグ使用に関しては、ドクターは関与してないから、話す必要はないんだろうけど・・・それでも一応ドクターには、いざと言う時に母親と話をしてもらえるように、連絡くらいは取れるようにしておいてもらった方がいいかもしれないわね。」
「そうね、母親が切れて何をするか判らないし。」
呟くようなリサの言葉に、ナタリーが相槌を打つ。しんみりとした雰囲気がブレイクルームに広がるけど、だからと言ってそれに対して、母親に何かをして上げる事はできないから。
そっか、子供は取り上げられちゃうんだ。
ここで働く前は、公立の中学校と高校で働いていたから、身内からの虐待等で生徒を保護のために家から引き離すというケースを何度か見てきたから、こんなのは初めて聞く話じゃない。
けれど生まれたばかりの赤ちゃんを、生まれて1日で母親からすぐに引き離すんだと思うと、親を知ることも出来ない子供が可哀想な気もする。
「それで、ベビーにはドラッグの影響は出てないの?」
気持ちを切り替えるように、リサが訊ねる。
「今のところは。でも今の段階でははっきりとは言い切れなくって。まだ小さすぎて出来るテストが限られてくるから、いまは血液検査と尿検査しか出来てません。」
「その結果では、ドラッグ反応が陰性ってことなのね?」
「そうです。」
念押しをするように聞き返すリサに、シンディが答える。
それだけで、ホッとした空気が流れる。
生まれた時から、ドラッグの影響が出ていると、これから育っていく上でも大変だろうから。中でも一番心配されるのは脳への影響。知能発育低下、脳のダメージ、色々とたくさんの影響が出てくることになる。
でも、今の段階では反応は出てないから、それだけでもいいニュースと言える。
「じゃあ、ソマーさんの件は口外秘ということで。他にも何か報告がある?」
「以上です。ああ、そうそう、今日退院する予定のお母さんたちの書類は出来てます。あとは退院する時にサインをしてもらうだけになってる書類は、それぞれのチャートに挟んでるのでわすれないで下さいね。」
「それじゃあ、担当する患者の振り分けをするわよ。」
報告が一通り終わってから、リサがそれぞれの看護士に担当する患者を振り分けていく。
あたしがするのは看護士の助手って言う仕事だから、患者全部があたしのところにはやってくる。 と言っても、患者の用事をしたり、ヴァイタルサインを取ったり、というのが基本的な仕事だから、忙しいだろうけどいざとなれば看護士達にに助けを求めれば助けれもらえる。
ヴァイタルサインというのは、体温、脈拍、呼吸数、それに血圧のことを指す。ヴァイタルマシンと呼ばれる機械をゴロゴロ言わせながら引っ張って、それぞれの患者の部屋に行って、体温その他を調べるんだけど、一応標準値というのがあってそれから外れると、看護士に教えるのはもちろんのことだけど、今度は手動の血圧測定器とかで調べなおさなくっちゃいけない。
どうやらリサが患者の振り分けを終えたみたいで、みんなが立ち上がってブレイクルームから出て行き始める。
あたしはみんなの後ろを付いて歩きながら、前を歩いていたシェリーに声をかけた。
「ね、シェリー?」
「何? チカ。」
「こんな風に機関が介入してきて、子供を母親から取り上げるなんて事、よくある訳?」
OBでは滅多に働かないから、こんな事はあたしにとっては初めてだ。
「そうね・・・・しょっちゅうって事はないけど、でも全くないとは言えないわね。」
「そうなんだ。」
「大抵は、マリワナくらいだから、子供の安全のために担当が付いて、定期的に検査をするなんて事はあるけど、そういう時は子供は取り上げられないから。まぁ、繰り返すような親だと、親権を他の身内に渡されちゃうか、子供を施設に強制的に収容ってことになることもあるんだけどね。」
「でも、今回はすぐに子供を施設に連れて行くんでしょ? ってことは、マリワナなんかより強く作用するドラッグってことだよね、きっと。」
少し考えながら、それでもあたしの質問に答えてくれるから、あたしも疑問をドンドンぶつけていく。
「おそらく、LSDかMethじゃないかしら? この辺りで手に入れやすいドラッグって言うと限られてくるから。」
MethというのはMethamphetamineのことで、スピードとも呼ばれている。
LSDはドラッグに漬け込まれた紙を1センチ四方くらいの大きさに切ったもので、それを舌の上に乗せたり舌の下に挟んでにじみ出てきた薬でハイになれる。Methは粉状のドラッグで吸引式で体内に取り入れてハイになる、らしい。
あたしはどちらも話に聞いているだけで実物を見たことがないから、これ以上の説明は出来ないけど、一度使い始めると止められないらしい。
以前患者として病院で世話をした女性は20年以上Methを使い続けていたとかで、40歳前後だったのに、外見はどう見ても60歳を越えているようにしか見えなかった。それに、脳へのダメージもかなりのものみたいで、常に意識混乱状態でまるで痴呆患者のようだった。ドクターの話では脳がすかすかになるんだとか・・・
なのに、恐ろしいことにこのMethは普通のスーパーで買える物品で、作ることが出来てしまう。おまけにインターネットに作り方も載っている、らしい・・・・・ だから、これを作って売る人が後を絶たないんだとか。
「そうだよね。でも、警察がやってくるって事は、それだけテストの数値が高かったってことだよね?」
「そうね。きっと2者面談の時に彼女の夫もいれば同じように警察から事情聴取を取られて、強制的に検査を受けさせられるかもしれないわね。」
「強制的に?」
「そう、ソマーさんにとって、今回生まれた子供は3人目なのよ。だから、事情聴取の結果によっては、先に生まれている子供たちも施設に収容されるかもしれないわ。ドラッグ中毒者では後見員としてふさわしくないから。彼女の身内が見てくれるって言うんだったらいいけど、そうなると世話をするって言う人達も強制的に検査を受けさせられちゃうかもしれないしね。」
「そこまで厳しく取り締まるの? だって、その人たちはソマーさんの検査の陽性反応には関係ないんじゃないの?」
「子供の安全のためよ。子供が育つ環境を整えてやらないと、情操教育に良くないでしょ? それに、ドラッグの禁断症状の被害者にならないとも限らないしね。」
そっか。ドラッグの禁断症状まで考えが及ばなかった。意識が錯乱するだけならまだしも、幻覚を見て子供たちに危害を加えないとも限らない。そういわれると、確かに子供には安全な環境とはいえないんだろう。
「彼女だけがドラッグに手を出しているって可能性もないわけじゃない。でもね、大抵は1人がやってると、その周囲に同じようにドラッグに手を出している人がいる確率は高いのよ。下手をすると親戚中って事もないとは言えないから。」
「え~っ、ホント? ドラッグが違法だって知ってるんでしょ? なのに親戚そろって手を出すって言うの?」
信じられない話に、思わず反論してみる。
マリワナにしてもLSDやMethにしても手を出すだけで、十分留置所行きだ。それどころかまずは留置所に拘留されて、そのあとで裁判によって実刑が付くに違いない。
「始めた当初は罪悪感とか、警察に捕まったらなんていう恐怖感とかあるんだろうけど、一旦ドラッグにはまってしまうと、そこまで考えられないのよ。とにかく、人のものを盗んでもドラッグを買い続けるでしょうね。」
「下手をしたら刑務所なんだよ? そこまで考えない訳?」
「考える考えないっていう段階じゃなくなってるのよ、そういう人達は。だから、おそらくソマーさんの調書は裁判所に提出する報告書の一つになるでしょうね。そうなると、機関が子供たちを保護しないと、誰にも面倒を見てもらえないって状態になるだろうから。下手をすれば病院から留置所に直行ってことになるかもしれないし。」
「そうなんだ・・・」
事が重大すぎて、それ以上は何を訊ねればいいのかも判らなくなってくる。きっと彼女にしたって、ただ気分がハイになることが出来るからって、お酒の延長のような気分で手を出したんだろう。
それなのに、手を出した代償が子供は施設、親は刑務所なんて、笑い話にもならない。
なのに、それが現実なんだ。
「ね、きっと彼女が更生すれば、子供を取り戻すこと、できるよね?」
「そうね。彼女次第ね、そればっかりは。彼女が本当に子供が大切だったら、きっとリハビリを受けて子供を取り戻すことが出来るでしょうね。」
それを聞いて、少しだけホッとする。
子供を取り戻すチャンスがあるんだったら、きっと彼女も刑務所で頑張って刑期を終わらせて、それからもっと頑張ってリハビリでドラッグを抜くことが出来るだろうって思えるから。
少しだけ気分が楽になって、あたしはシェリーと笑みを交わす。
それから、仕事を始めた。
実際に年に数回こういったケースがあります。
こちらも一応相手に気づかれないように気をつけてはいますが、1度赤ちゃんの祖母がそうなることを想定して、ケースワーカーの人が赤ちゃんを連れにくる前に赤ちゃんを病院から連れ出して逃げることがありました。もちろん警察がすぐに赤ちゃんを保護しました。この場合は、祖母もドラッグを使うということで、彼女に親権はいかないことが判っていた上での行動だったそうです。