5.AC 僕のハズバンド?
小さなカートに担当患者の数だけ氷水の入ったカップを乗せて、他の人の邪魔にならないように廊下を押して、今日担当する病室のあるほうへと歩いていく。
朝最初にする仕事は、糖尿病患者がいればその人の血糖値チェック。そうでなければ氷水を配る。その時に一緒に病室の番号と名前を書いたインテイク&アウト・シートを部屋のクリップボードに挟む。
このインテイク&アウト・シートって言うのは、患者が飲んだり出したりしたものを記録するためのもので、シフトの最後にコンピューターに記録しなくちゃいけない。
ということで、今日も自分の担当患者の部屋を氷水の入ったカップを手に回っていく。
「おはようございます。」
ノックとともに部屋に入って、今日の挨拶をする。患者さんが寝ていたら起こさないようにそっと入っていって氷水を置いて、シートをクリップボードに挟んで出て行く。起きているようだったら簡単に自己紹介をして、氷水を渡してシートを挟んで出て行く。
薄暗い病室の中、物音もしないから寝ているんだろうと思って、そっとベッド脇のテーブルにカップを置いて、クリップボードにシートを挟んで、としているとゴソゴソとベッドの患者さんが動く音がした。
「おはようございます。起こしてすみません。」
起こしちゃったみたい。
ま、確かにいくら静かにと気をつけても、やっぱり多少の音はするわけで。
「・・・て」
「はい? なんですか?」
凄く小さな掠れた声がしたけど、一体何を言ったのかよく判らなかった。
「電話して・・・すぐに来て欲しいって」
「電話ですか? 誰にすればいいんですか?」
「ジェシー・・・僕の夫。」
「お・・・っと?」
え~っと、今、夫、といったんだろうか?
でもきこえてきた声はどう考えても男の人の声で・・・・
「電話番号判りますか?」
「・・・・憶えてない。でも、昨日ナースさんが電話してくれたから・・・」
ということはチャートにちゃんと載っているって事だ。
おこしおこお判りました。ナースステーションへ行って、聞いてみますね。」
「・・・・ありがとう。」
今にも消え入りそうな弱々しい声で、それでもちゃんとお礼を言ってくれる。
失礼しますと声を掛けてから、あたしは病室の前にカップが並んだカートを置き去りにして、そのままナースステーションへと足を向けた。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど。」
そう声を掛けたのは、つい先刻電話を掛けてくれといった部屋を担当しているナースのジャマラ。
「今18号室へお水を持っていったんだけど、えっと患者さんが彼のハズバンド(夫)に電話して欲しいって言われたんだけど・・・ハズバンドじゃなくって、ワイフ(妻)の間違いだ・・・よね?」
「違ってないわよ。クリスには法的には無理だけど、ハズバンドがいるもの。昨日も来てたわよ。」
「マジ?」
聞き間違いしたんだろう、と思いたいあたしの希望とは裏腹に、ジャマラはしっかりと患者の言葉を肯定してくれた。
そっか~。ホントにハズバンド、なんだ・・・・
日本だと隠すと思うんだけどな、そういうことって。でも同性婚の認められている州もある国だから、オープンみたい。
この州では同性婚は認められてないけど、形だけでも書類にしたいという人達はわざわざ同性婚を認めている州に行って、結婚をするという人もいる。ただそれは違う州での許可だから、この州に住んでいる限りそれは無効なんだけど・・・・
確かにあたしの仕事上の女友達にも、ワイフがいるって言う子はいるわけだし・・・それにしても。
「さすがアメリカ・・・」
「聞こえてるわよ」
思わず呟いた言葉は英語で、しっかりと聞き取られてた。
「・・・すみません。」
「ま、チカの気持ちも判るけどね。私も昨日はちょっとびっくりしたし。それで、彼がどうしたの?」
「あっ、そうだった。夫のジェシーに電話して欲しいって頼まれたんだけど、夫って言われてちょっと動転しちゃった。」
それで慌てて部屋を出てそのままここに来たんだ、と説明すると、ジャマラは苦笑を浮かべて、そのままナースステーションに入って彼のチャートから、そのジェシーという人の電話番号を見つけ出しそのまま掛ける。
きっとあたしがそれ以上のことを聞いていなくても、クリスがどうしてジェシーに電話してもらいたいのか判ったんだろう。
あとで薬とかもっていくだろうから、その時に電話の結果もつたえてくれるだろう、と勝手に決め付けて、あたしは残りの氷水を配るために置き去りにしていたカートを取りに戻った。
う~~ん、やっぱり男の人だった。
あのあと、朝食の配膳の手伝いをして、その他もろもろの仕事を片付けてから、ナースコールに呼ばれるようにクリスの部屋に入ると、彼の枕元に1人の男の人が座っていた。
ベッドにいるクリスより少し背が高いだけ、くらいの同じような中肉中背の男の人なんだけど、きっと彼がクリスの夫とやらなんだろう。
「なんでしょうか?」
「ちょっと体勢を変える手伝いをしてもらいたいんだけど。」
「いいですよ。でも1人じゃ無理だから、手伝いをよんできますね。」
「大丈夫、ジェシーが手伝ってくれるよ。」
クリスのその言葉と同時に椅子から立ち上がったジェシーがあたしに笑って頷いてくれた。
確かにわざわざ手助けを探しに行くよりは早いから、あたしはありがとうと言って、ジェシーが座っているいる側のベッドとは反対側へ移動する。
ベッドをフラットにして、クリスの下に敷いてあった体のポジションを変えるためのシーツの端を掴む。
1、2の3と掛け声で少し上に引っ張りつつ自分の方へと引き寄せる。それからジェシーにあたしの側のシーツを掴んでもらって体を彼のほうへ向けて、そのシーツの下の部分に枕を詰める。そうする事で、クリスの体は右を向く形に横たわるから。
「どうですか? これで大丈夫かな? それとももう少し動かした方が楽ですか?」
「ん~、そうだね。多分取りあえずこれでいいかな?」
体勢を変えてすぐだとあんまりよく判らないみたいで、ちょっと考えながらクリスが言う。
「じゃ、また変えたくなったら、また言って下さいね。」
「了解。」
少しやつれた感じはするものの、それでもニコニコと笑顔を浮かべて、変えた体勢のまま少しだけ上体を動かしているクリスを横目に、そのまま彼の体に視線を向ける。
彼が女の人だったら臨月と間違えそうなほど膨らみきっているお腹。どう見ても大量の腹水が溜まっているとしか思えない。
今朝のレポートの時に、彼がヘップC(Hepatitis C-C型肝炎)とHIV(エイズの事)に感染している事は報告済みで、だから、彼に触れる時は必ずグローブをはめるようにと注意を受けている。
おそらくヘップCのせいで、肝臓機能低下によって腹水が溜まっているんだろう事は、言われなくても判る。他にも過去の経歴として多種のレクリエーション・ドラッグに手を出していた事も知っているから、そのせいでもあるんだと思うし。
レクリエーション・ドラッグって言うのは、その名の通り楽しむために使用するドラッグで、マリファナやLSDなんかがそれにあたる。このあたりではメスの使用率も高い。メスというのはMethamphetamine という日用品やスーパーで買える風邪薬とかを使って作る事ができるお手軽に作れるタイプのドラッグで、ドラッグの使用による検挙率もマリファナに次ぐくらいだから、簡単に手に入るタイプのドラッグという事になる。
実際撃ちの近くでも家で作ってるって言う噂の人が住んでる。そういう人は車庫や倉庫を遣って作ってるみたいだけど、たまに小さな爆発とかを起こして消防署の世話にもなってる。もちろんそのあとで今度は警察の世話になるんだけど。
「清拭もついでにしちゃいますか?」
「う~ん、そうだね。でも今はいいや。ランチのあとにでもお願いできるかな?」
「それでいいですよ。でももう少ししたらバイタルサインのチェックに来なくちゃいけないから、起こしたって文句言わないでくださいね。」
「朝も起こしたくせに。慣れてるから今更だよ。」
クスクス笑いながら、今朝の事を揶揄するクリスをジロッとみる。
「そうですね。だったらすぐにバイタルマシーンを取ってきて、チェックします。それなら寝たところを起こしたって言われないですから。」
「あっ、それがいいかも。その方がこれ以上邪魔もされなくてすむし。」
「え~、あたし、邪魔なんですか? ジェシーが来たからって、途端に冷たくなるんだから。」
からかっていると判ってる相手に同じようにクスクス笑いながらそう返す。
ナースの話では、数日中には彼を病院患者からホスピスケアの方に移行させるという事で、と言う事は彼はもう長くないという事。
それなのにこんな風に明るくニコニコと笑って冗談を言える彼を強いな、とも思う。
そしてそんな彼の面倒を見ているジェシーも強い。
「起きててくださいよ、寝てても起こしてチェックしますからね。」
「寝てたら、チェック無しとか?」
「それはないですね~。」
仕方ないから起きてる、とブツブツ言ってるクリスとそれを笑いながらみているジェシーに軽く手を振って、ヴァイタルマシーンを取りに行った。
後日・・・・・
「よお~。」
不意に後ろから掛けられた声に振り返ると、そこには半年ほど前に入院していたクリスとそのハズバンドのジェシー。
「クリス?」
「相変わらず、忙しそうだね。」
「え~っ、本当にクリスじゃない。」
あたしのびっくりした声に気づいたのか、廊下の向こうにいたジャマラがやってくる。
それにあわせて、彼の入院中に彼の担当になっていたほかのナースたちも集まってきて、みんなが元気になったクリスを見て驚いている。
驚くのも仕方ないと思う。だって、入院中の妊婦さんと言ってもおかしくないくらい膨らんでいたお腹はペチャンコとまではいかなくても、それでもちょっと太ってるってくらいにまで小さくなっているし、入院中よりははるかに顔色もよくなってる。
でも、確かあの入院のあと、そのままホスピスケアの建物に移ったはずなのに・・・・
「あれから2ヶ月は入院してたんだけど、経過がよくって、ホスピスドクターが家に帰って養生すればいいって言ってくれたんだ。」
「そのあとの経過もよくてね。こうやって元気になってくれたんだよ。」
ニコニコと笑いながらいうクリスに続いて、ジェシーも本当に嬉しそうな顔をみんなに向けてくれる。
お腹もへこんだでしょ、といいながら自分のお腹をさすって見せるクリスに、みんなお腹をみながらうんうんと頷いている。
入院中は週に1回は腹水を抜いていたんだとジェシーが言い、退院してからもしばらくは月に1-2回は抜いてもらっていたんだとジェシーに続くクリスの声に、あたしは改めてお腹を見た。
細身のクリスにはやっぱり不似合いなお腹なんだけど、それでも当時の大きさを思えば腹水はもう溜まってないというクリスの言葉を信じられるくらいには小さくなってる。
「それでこうやって歩き回れるようになったから、クリスが病院に顔を出そうって言い出してね。忙しいからといったんだけど。」
ごめんねと、苦笑を漏らすジェシーと、みんなに自慢したかったと誇らしげなクリス。
「ううん、来てくれてうれしい。元気な姿を見せてくれただけで十分。」
「チカならそういうと思った。」
「ちゃんと名前も覚えてくれてたんだ。」
「そりゃもう、なんせ軍曹みたいに、きっちりと面倒見てくれたからね」
う~む、それは褒めてるんだろうか・・・・
だけどそれに続いたジェシーの言葉に、あたしはウッと言葉に詰まった。
「そうそう、あれからホスピスハウスに移っても、チカの豪快な清拭が忘れられないって、クリスがよく言ってたよ。」
途端に周囲のナースたちが笑い出す。
あたしは笑えばいいのか、それとも文句を言えばいいのかちょっと考えたけど、結局隣に立っているクリスを軽く小突いてから一緒に笑った。
ま、いっか。こうやって元気な姿を見れたんだから、それだけでも良しとしなくちゃね。
たまにこんな賑やかなサプライズがあるのもいいものだから。
あたしの住んでいる州では、同性婚は認められていません。
なので、あたしの知り合いの同性愛者カップルはワシントン州まで出かけました。ここでは認められないんですけど、それでも結婚の証が欲しいと言ってました。