4.AC クレージー・ウーマン
ACとは内科病棟の事です、多分・・・・
「チカ、今日は3階ね。」
「は~い。」
今日は3階で仕事らしい。この3階と言うのはAcute Care、つまり急病患者の病室のある階。
と言ってもここは田舎だから、そんなに急病患者がいる訳もない。一応日本語に直訳すればそうなると言うだけで、多分日本で言うところの普通病棟にあたるんだと思う。
で、言われた通り3階に上がってそこにあるブレイクルームのドアを開けると、あたしのようなエイドが思ったより多い。ここにある病室の数を思うと、こんなにいらない筈なんだけどなぁ・・・・
頭にクエスチョン・マークを浮かべながらも、ブレイク・ルームに入っていくと、今日のチャージ・ナースらしいエミリーがあたしの顔を見て、一言。
「チカ、今日はサイキ・シッターね。」
「え~~っっ。」
サイキには精神と言う意味があって、で、それに患者と言う文字が付くと、精神疾病者ということになる。そういう患者は症状のレベルによっては1人にしておく訳にいかないので、そのお守り役というを付けなくっちゃいけない。で、うちの病院ではそのお守り役のことをサイキ・シッターと呼んでる。
と言っても、重度の患者はそのまま専門の病院に直接連れて行かれるので、ここにい来る患者はある程度ここにいれば家に帰れる段階の患者ばかり。それに、日本人のあたしからすれば、どこが精神疾病者なんだって言う患者が殆ど。
というのも、自殺願望者も精神疾病者ということになるので、死にたいと口にすればそれで立派な精神疾病者になれる。
そして、周囲の人間に暴力を振るってみんな殺してやるとでも口にすれば、それで立派に殺人傾向のある精神疾病者扱いだから、酔っ払って馬鹿なことを口にすれば、それで十分精神疾病者ということになる。
だから、9割の精神疾病者は、酒に溺れて自分の命を危うくした人とか、精神安定剤のような薬を大量に飲んでハッピーになりすぎた人。
とは言え、たま~に、本物の精神疾病者がやってくる。その場合は、カウンセラーとドクターの判断で、精神疾病者専門の病院に搬送されることになる。
薬やお酒の飲みすぎの人は最低24時間拘束、年齢によっては72時間まで拘束時間を延ばして、それから必要に応じてリハビリ施設などに行くように薦められる。ただ、受け入れ施設の方の状況によってはそれが1週間くらいにまで伸びてしまうこともあるから、一概には言えないけど。
「病室は14号室だから、よろしく。」
って、よろしくされてもねぇ・・・ま、いっか。
あたしはロッカーからパズルや本を取り出して、それらを抱えて病室へと向かった。
サイキ患者の病室はナース・ステーションから近い場所にある病室を使うことが多い。その方がいざというときに助けを呼びやすいし、逃げ出そうとする患者を取り押さえやすいから。
病室の前には、患者に使うベッドサイド・テーブルがあって、その前においてある椅子に夜勤のテリが座っている。
シッターはサイドテーブルをドアの前において、常に患者を見ることが出来るように、そのまま病室の中に向かって座るようにする。テーブルをドアの前に置くのは患者に目を走らせておくと言うことのほかに、患者が万が一逃げようとしてもそれを塞ぐことができるようにという意味もある。
彼女はあたしの顔を見て、にっこりと笑うと椅子から立ち上がった。
「おっはよ~、チカ。その荷物って事はチカがサイキ・シッターなんだね。」
「そうで~す。まぁ、のんびりやらせてもらうよ。」
「まぁ、しっかり楽しんでね。」
いつになく、面白そうなテリの口調に、なんとなく嫌な予感がしてきた。
「な~んか、怪しい口ぶりなんだけど? いつもの、じゃないの?」
いつもの、というのは先刻の説明の9割の方の患者のこと。
不安そうに聞き返すあたしの腕を取って、ドアのすぐ横の患者から見えないように隠れられる場所に移動する。と言ってもドアの隣に立っているわけだから、患者に何かあればすぐに判る位置ではあるけど。
「そっれが、違うんだよねぇ・・・・今回は、ホ・ン・モ・ノ。」
引っ張って行ったあたしの腕を掴んだまま、小声で嬉しそうにそう報告してくれるテリ。
面白がっているのが態度に丸出しで、思わずあたしはハァッと大きなため息をついた。
「ホンモノって・・・一体どうホンモノなのよ?」
「いや~、私も今回はマジびびっちゃった。」
「えっ、マジ?」
テリは少々のことでは動じない人だと思う。
なのに、そんな彼女がそんなことを言うなんて・・・・途端に不安になってきた。
「彼女、マジでヤバイよ。チカ、覚悟しといた方がいいと思うよ。」
「えぇ~。ちょっと脅かさないでよ~。」
「別に脅してるつもりはないよ。彼女昨夜の11時にERからここに連れて来られたんだけど、その時のレポートが凄かった。」
「凄いって・・・・」
「運び込まれた時に、手に持っていたのが黒い十字架。それ以外は服だけで、裸足で歩いていたところを保護されたらしいんだよね。まぁ、運ばれてきてから彼女から市内に住んでいて、娘が近くに住んでいるって事は判ったんだけどね。」
手に持っているものは別にして、特に特別ヤバイという感じではないんだけど・・・
「病院にはポリスが連れてきてくれたんだよね、ちょっと暴れるから。でね、一応抵抗らしい抵抗はしないんだけど、言動がねぇ・・・彼女、人間のためにデーモン(悪魔)と戦っている神様らしいよ。」
「神様って、彼女本人がってこと?」
「そそ、私たち人間をデーモンから守ってくれてるんだって。だから、たまにデーモンと話してるみたい。私には見えないって言ったら、『あなたは普通の人だから、そんな力はない』って言われた。でも、ここに来て3回かな、宙に手を伸ばして、デーモンにここから去るようにと説得してたよ。」
マジっすかぁ・・・う~ん、たまにいるんだ、こういう人が。神の遣いだとか、神様本人だとか。
でも、そんなに害はなさそうなんだけどなぁ・・・
「別に、それって珍しくないじゃん。この前も神からこの世に遣わされたって言ってたおばちゃん、いたじゃん。」
「ああ、あの人ね。彼女はいいのよ、それ以外はフツーだったじゃない。」
「えっ? この人、そうじゃないの?」
「だから、先刻から言ってるでしょ。凄いよって・・・・彼女、私たち人間のためにデーモンと戦ってるんだけど、戦うためのエネルギーを得るためにね・・・・xxxするんだって。」
こそっと耳打ちしてくるテリ。
あたしは一瞬聞き間違えたかと思って、彼女の顔を凝視したけど、テリの表情を見る限り聞き間違いではないようだ。
「え、ぇえ~っ!」
思わず大声を出して、慌てて口を塞ぐ。
「マジ?」
「マジ。ありがたいことに、あたしが見てる前ではまだしてないけどね。」
どうしようっっ・・・・
テリが耳打ちしてきたのは、彼女の行為で・・・なんと、彼女、エネルギーを、その・・・自慰をすることで得るんだそうだ。
シッターと言う立場上、彼女から目を離すわけにはいかない。けれど、そんな行為をドアを開けっ放した病室でさせる訳にはいかない。という事は・・・もし彼女がそれを始めちゃったら、あたしは部屋の中に入ってドアを閉めて、それをじっと見なくてはいけなくなってしまう。
「え~~っ、どうしようぅ・・・・」
マジ、泣きたいっっ。
そっと病室の中を覗き込むと、彼女は眠っているのか目を瞑っている。
「一晩経って、正気に戻ったってこと、ないかなぁ・・・」
「どうだろ? ほんの30分ほど前に、デーモンとお話してたからなぁ・・・・朝ごはんを食べたら、少しは普通らしくなるかも、よ?」
「テリ、それちっとも慰めになってないんだけど? マジで、やだよ、あたし。」
「ま~~、頑張れっ。」
ひと事だと思って、テリは軽~くそう言って、じゃあ帰るからと去って行ってしまった。まぁ、確かにシフトを終えた彼女には、もうひと事なんだろうけど、それにしてもなぁ。
後に残されたあたしは、あがいても仕方ないから諦めて、先刻までテリが座っていた椅子に座る。
彼女はレベル1だから、15分毎にチャートに書き入れをしないといけない。
とにかく、1日寝ててくれるといいんだけど、とあたしはそっと指をクロスさせた。
けど、それが都合のいいお願いであった事は、それから2時間もしないうちに判った。
朝食を持って中に入ったけど、彼女はそれに手をつけることもなく、押しやった。それから、少し早めのヴァイタルサインを取る時も、黙って抵抗しないでさせてくれた。
何をしても何を言っても、彼女からは全く反応が返ってこない。そういえば、シッターを始めてから2時間ちょっとなのに、一言も彼女の声を聞いてない。喋ることができないんだろうか? 何てことも思い始めていた。
なのに、いきなり両手を伸ばして、斜め上を見上げながらぶつぶつ言い始めたのだ。
小さな声で、おまけに口に中でぶつぶつ言ってるから全てを聞き取れる訳じゃないけど、それでもそこから導き出せる内容は・・・どうやらデーモンと話をしてるらしい。
「帰り・・・・ここに・・・居る場所・・・消える・・・」
10分ほどそれをしていただろうか?
ふと、彼女の声が途切れたのに気付いて見上げると、彼女が両手を下ろして目を閉じているのが見えた。
ああ、終わったのかな。
あたしはそれを見てホッとする。
と、途端に彼女の目が開いて、ドキッとした。
彼女はそのままあたしの方を向いたかと思うと、ガバッとベッドから起き上がって、裸足のままドアの方にやって来た。
あたしも椅子から立ち上がって、体をサイドテーブルに預けるようにして、テーブルがドアの前から動かないようにした。
たとえサイキ患者だとしても、直接体に触って室内に押しやるなんて事は許されてない。患者に触って押しやると、それだけで訴えられる可能性もあるから。だからこんな風にテーブルを間において、それで患者を抑えるようにすれば、やり方はどうであれ患者には触ってないと証言することが出来る。
目の前にやって来て立ったまま、あたしを見る彼女は、何も喋らない。
あたしを見下ろすその目は、どう見ても普通の人の目とはいえない。なんて言えばいいんだろう。よく話で狂人の目なんていう例えがあるけど、それが一体どんなものかなんて今までは想像も付かなかった。
けど、今目の前にいる彼女の目を見れば狂人の目がどんなものなのか、判った気がした。感情がないだけじゃなくって、何か奥に澱んだ底のしれない何かが浮かんでいるのが見える。それを見て取った瞬間、ぞっと寒気が背筋を走った。
ドンッと、サイドテーブルが押された。
それも物凄い力。もし最初からテーブルを抑えてなかったら、痛い目にあったと思うくらいの力。
「ミセス・アーベィ。何か御用ですか?」
出来るだけ落ち着いた声を出して、彼女に声をかける。
けど、彼女はそれに返事をしないで、またドンッとテーブルを押してくる。
「ミセス・アーベィ。テーブルを押さないで下さいね。誰か、手を貸して。」
前半は彼女に、後半はナースステーションに向かって声を上げた。
ナースステーションにいた看護士が2人ほど、あたしの様子を見て飛んできてくれる。
「ミセス・アーベィ。落ち着いて。」
あたしの両隣に付いて、同じようにテーブルを体で押さえつけながら、看護士たちが彼女に声をかける。
けど、彼女は一言も言葉を発することもなく、またテーブルを押してくる。
でも、今度は3人がかりだから、テーブルは動くこともない。
それに、3対1を見て取ったからか、彼女はあたしたち3人をじろっと眺めてから、また唐突にベッドに戻っていった。
それを見てあたし達はホウッと大きく息を吐いた。
「来てくれてありがとう。」
「大丈夫?」
「ん、多分ね。でも、また呼ぶかもしれないよ?」
「いつでも呼んでくれれば助けるから。そろそろドクターも来る頃だろうから、それまで頑張ってね。」
ドクターが来たからと言ってお役御免になるわけじゃない。
でも、ドクターが来ればここから先に進むことが出来る。カウンセラーとドクターの判断で、今日中に彼女を専門の病院に搬送することも出来る。
だから、それまで頑張れって励ましてくれる。
彼女がベッドに落ち着くのを見てから、看護士達はまたナースステーションに戻っていった。
あたしもテーブルを元の位置に戻してから、椅子に座り込むように腰を下ろした。
なんか今ので一気に疲れた。
このやり取りがあと何回行われるんだろ、なんて思うと今から肩が落ち込むような気がするけど、それでも仕事は仕事だから我慢してしなくちゃいけない。
でも、思わず零れてしまうため息までは我慢することもないだろう、はぁっ・・・・
結局、彼女はやって来たドクターに一言も言葉を発する事はなかった、と看護師が教えてくれた。その後にやって来たカウンセラーにも、一言も喋らなかったとか・・・
そのままドクターによって重度の精神疾病者として、手続き、手配が整い次第救急車で搬送されることが決まった。
看護士達も、デーモンと話す時以外彼女は喋らないと思っていたようだけど、あたしには一言あった。
それも思い出したくもないような一言で・・・
救急車で搬送される1時間くらい前に、突然ドアのところにやって来た彼女は、それまでのようにサイドテーブルの押し合いをして、看護士達がやってくる前に一言あたしを見下ろして言ったのだ。
「Give me your Tit!」{お前の乳をくれ}
あたしに向けてくる目が狂ってるだけに、これはマジで怖かった。
それから救急隊員がやってくるまで、彼女は一言も言葉を発することはなかった・・・・