3.MS ゴルフボール
MSとは外科病棟のことです。
「チカ、今日は外科病棟に行ってね。」
「は~い」
という訳で、今日は外科病棟らしい。
とりあえずランチボックスを抱え直してから、外科病棟のある階へ移動して、そのまま休憩室へ荷物を置きに行く。
今日は火曜日だから、膝と腰の手術の日だっけ?
この病院では曜日によって、どの先生の手術かが判る。っていうか、そうやってこの人はこの日って感じで振り分けて予定を立てやすくしているらしい。で、今日はドクター・アサードの手術の日。この人は膝や腰の整形外科医なので、火曜日には大体4-6人の患者さんの膝や腰の手術をしている。多い時は10人近い患者の手術をこなしているんだから、凄いと思う。
で、ドクター・アサードの手術の日ということは、10時過ぎくらいから1-2時間おきに彼の患者がどんどんここに手術を終えて運び込まれてくるってことになる。
手術後の患者は、全身麻酔ということもあって、念のために術後ヴァイタル・サインをしなくちゃいけない。血圧、脈拍、酸素値なんていうのを最初の1時間は15分置き、次の1時間は30分置き、それから1時間ごとに2回と、4時間かけて計9回ヴァイタル・サインをチェックしなくてはいけない。これが結構大変で、忙しさに輪をかけることになってしまう。
だけど、どこでどんな拒否反応を体が起こすか判らないから、しないわけにもいかないし。
まぁ、とりあえず、朝のレポートが始まれば、何人の患者が今現在入院していて、手術の患者がやってくるのか判るだろう。
みんなでテーブルに座って、録音されたレポートを聞いている。
患者を放っておく訳にはいかないから、看護師さんたちはシフト交代の前にテープに録音することになっている。1人づつ録音すれば、患者さんの面倒を見ることのできる看護師さんが常にフロアにいられるから、そうすることで人手が足りないって事がないようにしている。
『・・・13号室は、ミスター・デンソン、62歳、男。ドクター・ジョンソンの患者です。昨日手術を受けました・・・』
手術の名前が聴いたことないもので、思わず顔を上げて看護師を見ると、彼女は苦笑をしながらテープを止めた。
「肛門の裂傷と、そのため自力で排泄ができないから、チューブを入れて一時的に排泄できるようにしてるのよ。といってもビニール製の薄いものを使ってるので完全に覆うことができないから、そのせいで肛門から多少は漏れると思うから、定期的にパッドのチェックはしてあげてね。それから、手術の時に腸内に化膿している部分が見つかってるから、そのための化膿した部分の膿を排出するためのポンプも取り付けてあるから、シーツの取替えの時にはチューブに十分気をつけて、間違っても管が抜けちゃったって事がないようにね。」
「ヘイ・ジョアン。この人って例の・・・?」
好奇心一杯って顔をして、クリスがわくわくした表情を浮かべてる。
「そう、ゴルフボール2個にそれぞれ紐をつけて肛門に入れて、それが取り出せなくなった人よ。どのくらいの期間か知らないけど自力で取り出せなかったから、それを入れたまましばらく放って置いたらしいんだけど・・・・そのせいでどうしても痛みが我慢できなくなって、無理矢理ボールを引っ張り出した時に肛門部分に裂傷ができたって話なんだけど・・・・当然家族にはそんなこと言えないからって、奥さんや娘さんには腸の機能低下のせいで、腸内に起きた化膿だってことにしてあるから、くれぐれも気をつけるように。」
って、つまり家族の前では何を言うか気をつけろってことか。
「ゴルフ・・・ボール・・・?」
「どうしてそんなものをそんな所に入れたのか、なんて事は私には聞かないでね。はっきり言って知らないし、知りたくないんだから。」
思わず声を出して呟いていたみたいで、そんなあたしの声を聞き取ったジョアンが本当に嫌そうな顔をして答えてくれた。
それを見て思わず噴き出したクリスの笑い声に始まって、みんなが苦笑を浮かべる。
そりゃ、そんな事あたしだって知りたくない。ただ、わざわざ紐をつけてまでゴルフ・ボールをそんな所にって思っただけだから、返事が返ってくるなんて思ってもいなかったし。
「くれぐれも真似はしないように。ドクター・ジョンソンは、命の危険もあったって言っていたんだから。だから、手術をして、おまけにしばらく入院なんてことになってるんだから。」
「そんな事、頼まれてもしようって思わないわよ。奥さんがいるって事は、ゲイじゃないんでしょ?!? なのに、なんでそんなことを――」
「だから、知りたくないって言ってるでしょ。そんなに興味があるんだったら、本人に直接聞いてみればいいわよ。真剣にたずねればおしえてくれるんじゃないの? ほら、続きを始めるわよ。」
好奇心丸出しのクリスに呆れたような顔を向けてから、ジョアンは付き合いきれないって感じでテープを再生する。
それからは、みんな真面目にテープに耳を傾けていた。
「おはようございます、ミセス・ジョーンズ。」
そう言って患者の部屋に水の入ったカップを持って入る。
朝、全員に水を配りながら、挨拶と様子見をする。そうやってとりあえず今日は誰が看護師で誰がアシスタントなのかを教えてまわるのも仕事。
「お水、ここにおいておきますね。それから、あたしの名前はチカでアシスタントです。看護師の名前はレイナです。何かあれば呼んでくださいね。じゃ、血糖値のチェックもさせてください。」
そう言って、とりあえず朝食の前の血糖値検査を済ませておく。これをする前に朝食を食べられちゃうと、数値が変わってしまうから、そうなるとインシュリンの量に問題が出てしまう。
グローブをしてから、患者さんの腕につけているIDをスキャンして、と準備をしながら世間話をする。と言っても大した話をする訳じゃなくって、今日の天気はどうだとか調子はどうだとか、間を持たせるためのものが多い。
「オーケー。えーっと、158。そんなに悪くないけど、良いって事もないみたいですね。」
「あら? でも来たばっかりの頃よりはずっといいわよ?」
「そうなんですか?」
「ええ、ERでチェックしてもらった時は500を越えてたって言われたもの」
それは・・・・ちょっと高すぎるんじゃないんだろうか・・・
「道理で入院しろって言われちゃった筈ですね。」
「ERに行ったのは、ちょっと具合が悪くなって、こけちゃったのが一番の理由だったんだけど。大丈夫だって言うのに息子がERに行けって頑として聞かなくってね。」
「そりゃそうですよ。念のためにって思うのは当然です。でも良かったですね。放っておいたらもっと大変なことになってたかもしれないですよ?」
やれやれって感じの患者に苦笑を零してしまう。
きっと息子さんが言わなかったら、病院に来てなかったに違いないって判っちゃう。
「じゃ、何かいるものや手助けが必要なら呼んでくださいね。」
「はいはい、名前は何て言うの?」
「チカです。」
「ティーカ?」
「チカ、ほら、チークって感じでチカ、です。」
あたしの発音が悪いのか、チカって言ってると思うんだけど、ティーカってよく言われる。
だから、それを正すのに頬を指差しながら、そんな音なんだって説明すると判ってもらえる事が多い。
「チカ? メキシコ人なの?」
「いいえ、日本人です。」
「でも、メキシコ人の名前でしょ?」
「日本人の名前でもあるんですよね。」
首を傾げながら、聞いてくるミセスジョーンズの感じる疑問もこうやって聞かれるのはこれが初めてじゃない。
っていうか、結構よくある質問。
というのも、スペイン語でチカ(Chica)は小さい女の子っていう意味があるらしい。私の名前はChikaと書くんだけど、IDを見ないで音だけだとスペイン語の綴りになってしまうようで・・・(苦笑)
ここは南部だってこともあるし、近くにチキンの加工工場があるせいか、メキシコ人が意外と多いから、余計にそう思ってしまうみたい。
確かに黒っぽい髪の黄色人種だから、そう見えないこともないと思う。実際テキサスのメキシコとの国境に近い町に住んでいた頃、結構よくメキシコ人と間違われてスペイン語で話しかけられたから。
とはいえ、自分ではメキシコ人とはそんなに似てないと思うんだけど・・・・
くだんのミスター・デンソンの病室へ行ったのは朝食も終わって、清拭をするため。
どうせパッドとか替えないといけないんだったら、ついでに清拭も済ませてしまおうと思っての事。
朝、水を配ったときに彼がかなり大きな体型をしているから1人じゃちょっと無理って事も判ってたから、一緒に手伝ってくれるといってくれた看護師のレイナに10分ほどしてから来てくれるように頼んである。
レイナが忙しいって事は判ってるから、出来る部分の清拭は済ませておかないとね。
ミスター・デンソンはどうみても軽く150キロはある。もしかしたら180キロ近いんじゃないんだろうか?
シングルベッドと同じ幅のベッドなのに、あまり体の向きを変えるだけのスペースが残っていないんだもの。
「チカ、お待たせ。」
拭けるところだけ何とか済ませて、大きなガウンを着せていた所にレイナが入ってきた。
「グッドタイミングだよ。今丁度ガウンを替えたところだったから。」
「そう? じゃ、すぐにシーツを交換できるって事ね。」
グローブをはめながらあたしのいるのと反対側のベッドに歩み寄ってくると、あたしが自分の方に広げているシーツをみて、最初にどっちに転んでもらうのか判ったレイナは、そのままミスター・デンソンの体を自分の方に転がらせる手助けをする。
だけど大きな体だから、あたしも押すようにして手助けをしないといけない。
そうやってお尻についている排便用の薄いチューブと、化膿している部分の膿を出すためのチューブに気をつけながら体を拭いていく。確かに言われたように少し漏れてるみたいで、パッドを変えなくっちゃいけなかった。
ただ、心配していた肛門の部分は排便のためのチューブを固定するためのテープのおかげで見えなくてホッとした。
悪いけど、裂けたって言う肛門なんて正直言ってみたくない。
「はい、じゃ、今度はこっちに転がってくださいね~。」
拭くだけ拭いて、ミスター・デンソンにそう声を掛ける。
「何か床ずれとかあった?」
「パッと見じゃ判んなかった。でも、こっちを向いている時に見れるでしょ?」
そういった検分はレイナの仕事と言わんばかりに澄まして言うと、向うで苦笑しているレイナの顔が見える。
「まぁね、確かに目視で検分しないといけないから。でも、チカだっていつもは清拭の時に何かおかしいところがあったら、教えてくれるじゃない。」
「百聞は一見にしかず、でしょ? ちゃんと自分で確認しなくっちゃ。それから、出来るだけきれいにしたつもりだけど、それも一応確認してね。」
そんな無駄口を叩きながらも、手はてきぱきと動いてシーツを替えてる。
それからレイナは少し顔を近づけて、チューブや傷口の検分をしている。指先で押したり、チューブがちゃんとしているかを確認したり、口では軽口を叩いているのに表情はとても真剣。
「傷口は傷みますか?」
「当たり前だろ。痛いに決まってる。」
「少し横向きの方がチューブのためにもいいかもしれないですね。」
「横向きだと腰が痛くなる。」
「でも、付加を掛けすぎると治りにくいですからね。」
「そんなこと言われんでも判っとる。」
いちいち突っかかるように返答をするミスターデンソンに呆れながらも、余計なことは言わない。
ここで下手なことを言うと何が起こるか判らない。彼から文句を言われるだけならまだしも、病院の責任者や州の機関に文句の電話をかけられたりなんて事がないとは言い切れない。
もし本当にそんな事になったら、州から検査のための人間がやってきたり、責任者にレポートを出せと言われてしまう。
それよりは、黙っている方がよっぽど楽。
黙って言い返さないで説明しているレイナも、きっと同じように考えてるはず。
「傷口の方は綺麗ですよ。縫いあとも炎症とか起こしてないから化膿の心配はないでしょうし。ポンプの方も、もうそんなに膿が出てないみたいだし。こっちは明日にでも取り外せるかもしれないですね。」
「それより何か痛み止めをくれ。痛くて堪らんからな。」
「確認してみますね。もし何かあれば持って来ます。」
「ふん、そんなことを言って持ってくる気もないくせに。」
付き合ってらんないね。
まだブツブツ言っている彼を横目に、あたしは清拭に使ったものを片づけ始める。
コンコン
と、ドアをノックする音が聞こえる。
清拭中はドアにその旨のサインを貼っておくことになっている。そうすることでドアを開けられて患者の裸を見られないため。患者のプライバシーは優先されなくちゃいけない。
なので清拭中だと『清拭中です』と声を掛けて外にいる人にまだ入ってきちゃいけない事を教える。カーテンは引いているけど、だからと言って安心できない場合だってあるから。
とはいえ、既にミスター・デンソンはガウンも着ているしシーツも掛けられているから、これなら見られても大丈夫だろうと判断して、ドアの向うに向かって入ってくるように声を掛ける。
「ハイ、ダディー。」
「元気そうね。」
どうやら娘と妻の登場みたい。娘は手にGet Well Soon!(早く良くなってね)と書かれたバルーンを持っていて、妻らしき女の人はクッキーの入った箱を手にしている。
片づけをしながらベッドの住人に視線を動かすと、つい先刻までぶちぶち言っていたミスター・デンソンはそれまでの不機嫌なんてなかったみたいな嬉しそうな顔をして、ニコニコと二人を迎えている。
「痛みはどう?」
「そりゃあるに決まってるだろ、化膿してるんだからな。」
「もっと早くに病院に来ていたら、ここまでひどく化膿しなかったかもしれないんでしょ? だから、ママが病院に行けって言った時に行っておけば良かったのよ? 本当に頑固なんだから。」
「そんなこと言ったって、まさか化膿しているなんて思わないだろう? 痛みがあるなとは思っていたんだが、そのせいで入院するなんて、普通は考えないぞ。」
「今度こんなことがあったら、ちゃんと早めに病院に言ってね。もう本当に心配したのよ? ママだって初日は心配だったから病院に泊まったんじゃない。」
いや、本当はそんな理由で入院してるんじゃないんだけどな・・・・
と思うものの、それを口にすることは出来なくって。
だけど、ふと見た瞬間、ミスター・デンソンと目があった。
その目は余計なことは言うなよ、と言っている気がする。
その視線の意味をきちんと受け取ったあたし達は、そのまま家族を残して病室を後にする。
「やれやれって感じね。」
ナースステーションに戻ってから、それでも念のためにと声を小さくしてレイナが声を掛けてくる。
「ホント、あれだけ文句を言ってたのに、家族が来たら途端にあれだもんね。」
「娘には父の威厳を損なうような姿は見せたくないってことなんでしょうね。」
「威厳って・・・・大体普通に考えて、あんな事しないと思うんだけど?」
っていうか、考えもつかないと思うんだけど・・・肛門にゴルフボールを入れようなんて考える人がいるなんて信じられないって言った方がいいかもしれない。
「そういえば、あのゴルフボール、一体どうしたのかしらね? 捨てるにしても捨てる場所を考えないと家族にばれちゃうんじゃないかしら?」
ふと、レイナがそんな疑問を口にする。
「ひも付きなんでしょ、そのボール?」
「だと思うけど?」
「私、知ってるわよ。」
レイナと2人でゴルフボールのことを話していると、クリスが面白そうな顔をして話に参加してきた。
「彼、ERに来たときに、そのボールも持参して来ていたんだって。」
「ERに?」
「なんでクリスが知ってるの?」
嬉々として話してくれるクリスに、あたしとレイナは疑問を投げかける。
だって、朝は何も知らなかったみたいだったから。
「先刻そこで、ERのエイブに会ったのよ。その時に彼のこと、聞いちゃった。そしたらエイブが彼の持っていたひも付きゴルフボールの話をしてくれたの。」
クリスはエイブから仕入れた話、紐付きボールがどんな状態だったかを嬉しそうに話してくれるけど、その描写がなかなか凄くて、あたしとしてはあまり詳しくは聞きたくない。
それはレイナも同じだったみたいで、うんざりした顔をしている。
でもクリスは気づいてないみたいで、身振りも加えて説明している。
それを横目にみながら、こっちに話を振られる前にあたしはそっと2人から離れる事にした。